第八話 三王寄れば文殊も逃げ出す
「えっ、わ、私がですか」
「えぇ、そうよ。あなたがやるの」
怯えたように瞳を揺らす少女に、カレリアは酷薄な笑みを浮かべて答えた。彼女は男爵家の娘であり、エンバース子爵家と繋がりがある家の者である。そのため、学園に入学した時にはすでにカレリアの派閥に組み込まれ、取り巻きとしてついてきた人物であった。逆らえば家が潰されるかもしれない恐怖が、彼女を突き動かしていた。
そんな少女がカレリアに呼び出され告げられたのは、ユーリシア・セレスフォードに嫌がらせをし、それをルルリア・エンバースの仕業に見せかけることだった。栗色の髪と瞳を持ち、似たような背格好ゆえに彼女は選ばれた。そして、万が一気づかれても、容易に切り捨てられるからだ。
カレリアは、基本的に自分で手を下すことはしない。取り巻きにやらせたり、時には一般生徒を脅してやらせたりしている。実行犯には監視がつけられ、もし逃げたり、密告しようとしたり、周りに気づかれたりしたら、トカゲの尻尾切りの様に速やかに排除される。証拠を隠滅し、本人は何食わぬ顔で過ごすのだ。
「私なんかに、そんなこと…」
「大丈夫よ、あの女が一人になるように手筈を作ってあげる。水を浴びせて濡れ鼠にしてもいいし、手ごろな場所に閉じ込めてもいいし、襲わせてもいいわ。なんだったら、階段から突き落としてもいいのよ?」
「……ッ!」
カタカタと歯をならす栗色の少女を見ても、カレリアの心には波紋すら起こらない。自分が目をかけてあげたことを、光栄に思ったっていいと考えていた。しかし、失敗されても面倒であるため、彼女はそっと少女の耳元で囁いてあげた。
「嫌だったら、別に辞めてもいいわ。その代り、あなたは私のおもちゃにしてあげるから。丁寧に丁寧に全部壊してあげる。男爵家もお父様に頼めば、……いったい何が残るのかしらね」
「あ、あ…」
「そういえば、あなたには妹がいたわよね。家が無くなれば、どこかに売られちゃうのかしら。まだ八歳なのに、可哀想なこと…」
「嫌、やめ…て……」
理不尽に奪われる恐怖が、床に雫を落とす。彼女のやり方は、取り巻きとして見てきた自分自身が一番理解している。カレリアは、成果を出さなかった駒に容赦などしない。そして、周りは誰も助けてくれないことも。次の標的にされるのが怖くて、震えることしかできなかったのは自分も同じだったのだから。
無力故に膝を折り、絶望を浮かべる少女。カレリアにしてみれば、親はわかるが、何故妹のことでこんなにも涙を流せるのかがわからなかった。目の前にいる彼女の栗色の髪が、自身の妹を彷彿とさせたが、自分にはどうでもいいことだと消し去った。
悲観する手駒に、今度はそっと頬に手を添えて、カレリアは優しげに声をかける。己の持つ美貌を使い、表情一つひとつを完璧に見せるように作り出す。相手が茫然とカレリアを見上げたのを確認したら、誰もが見惚れるような笑顔を見せた。
「私は決して難しいことを言っていないわ。だって、あなたは実行すればいいだけなんだから。しかもその責任は、全部自分とは関係ない人間が被ってくれるのよ。あなたがちゃんと成功させたら、ご褒美だってあげる。男爵家への口添えもしてあげるわ」
絶望の中に垂らす、一本の希望の糸。その眩しさは、もうそれしか答えがないように錯覚させてしまうほどに輝いていた。自分の幸せのために、相手の幸せを奪う。それは間違っているようで、間違っていない。そんなことは生きていれば、たくさんあることだ。
そう思わせることができれば、カレリアの思惑通りだった。彼女への敵意を歪ませ、視野を狭くさせ、そして自分自身で答えを選んだようにさせる。それが、カレリア・エンバースのやり方だった。魔王様の二択とよく似ているあたり、やはり姉妹である。
「この指輪、ルルリア・エンバースが身に付けていたものよ。これを現場に不自然にならないように置いておけばいいわ」
以前ルルリアの前にカレリアが現れた時、彼女はこの指輪を大切そうに、まるで自分に指輪を見せつけるかのように持っていたのを記憶している。青く輝く宝石を、カレリアは鼻で笑ってみせる。こんな綺麗なものは妹には似合わない、と目の前の少女の手に指輪を握らせた。
彼女が捕まった際は、エンバース家の繋がりを利用して、ルルリアに脅されたと供述するように言っておく。もしもの時はそれを真実にするために、取り巻きに噂などを流すように指示を出す。淑女として何年も学園に通っているカレリアと、まだ入学して数ヶ月のルルリアでは、そもそも下地が違う。妹を知らない人間の心理を誘導すれば、容易に彼女を悪者にできるだろう。
震える身体を抱きしめながら、無言で項垂れる少女を一瞥し、カレリアは金の髪を手で払いながら教室の出口へと歩んだ。後は高みの見物でもして楽しもう、と楽しげに笑ってみせたのだ。空き教室から出ると、取り巻きに指示を出し、男爵家の娘を監視しておくように伝える。怯えや恍惚とした視線を受けながら、カレリアの遊びが始まったのであった。
――数分後。
「以上が、男爵家の娘に彼女が話していた内容でございますっ!」
「そう、ご苦労様。よくやったわね…、何か欲しいものはある?」
「わ、わたくしめを、……踏んでください!」
「あら、可愛いお願い。いいわ、あなたが満足するまで可愛がってあげる」
「あ、ありがたき幸せー!」
魔王様も下僕とのご褒美が始まっていた。そして、これ以上とても描写ができない表情や会話が咲き乱れたのであった。
「……なぁ、前に下僕か新世界かの二択があったよな。下僕になっているのに、さらに性癖も塗り替えられて新しい人生を開いていないか?」
「調教の副作用よ」
「…………」
「副作用よ」
「二回言わなくていい」
魔王軍協力者、唯一の常識人寄りの声も、虚しくこだました。
******
『友達』と言う言葉には、様々な解釈がある。定義というものが曖昧であり、また個人の気持ちが大きく作用するからだ。何をしたら友達、こういう関係だから友達、と一般的な尺度はあれど、非常に難しいものである。
ルルリア・エンバースはこの十六年間、一度も友達と呼べる存在がいたことがなかった。幼い頃はエンバース家の奥に追いやられていたため、他の貴族の子どもと関わる機会はなく、外は外で生きるのに必死だった。同年代の子どもに会うことはあったが、彼らが友達かと聞かれれば、首を横に振るだろう。
シーヴァのように遠慮なく話しができる人間もいたが、あれは協力者であり同業者だ。お互いの利益のもとの友人、という定義もあることを知っているが、ルルリア自身が彼を友人という枠に入れることがどうも釈然としなかった。向こうも確実にルルリアを友人とは思っていない。
そんな諸々の事情はあれど、彼女は友人がいなくて困ったことがなかったので、別にいいかと思っていた。表側は世間体を考えて友人のような者を作るつもりだが、本性を見せたら即終了のため仮面を付けざるを得ない。本当の自分をさらけ出すことはできない。それぐらいは弁えている。
他人を信じることもできない、人を不幸にすることに全力を尽くすような人間と対等にいてくれる存在。そんなものは夢物語だと思っていた。ありのままの自分を受け入れてくれて、一緒にいて楽しくて、お互いに高め合うことができる。そこにさらに同年代で同性という条件が加われば、もはや絶望的だろう。
――そう、ルルリアは十六年間考えていた。
「まぁ、じゃあユーリシア様もあの絵本をお読みに?」
「当然だな、あの絵本は私の魂の一部と言ってもいいだろう。……幼い頃は現実を痛いほど思い知らされてきたが、あの絵本がいつも私の力になってくれていた」
「わかります。己の優越のために見下し、虐げてきた相手から成り上がっていく姿に…」
「あえて止めを刺さずに甚振り、自分が上だと勘違いしている者たちを、全てにおいて凌駕し圧倒的な力を見せつけていく姿に…」
シーヴァによって設けられた邂逅の場で、ついに二人の女性は出会った。栗色のセミロングの髪と強い眼差しを持った人物と、嫋やかな黒髪とどこか冷たい印象を受ける美貌の人物。学園での彼女ら(表)を知っている人間がこの会話を聞いたら、三度見ぐらいは確実にするだろう。
最初は緊迫した挨拶から始まったが、簡単な自己紹介をしている時に話題に上がったのは一冊の絵本の存在だった。彼女たちが幼い頃から読んでいたシンデレラストーリー。心のバイブルの感想を、お互いに興奮しながら話し合っていた彼女たちは、気づけばノリノリで語り合っていた。
「私と同じような感想を持っていてくれる人がいたなんて、私はまだまだ狭い世界で生きていたみたいだわ」
「それを言うなら私もだ。あれほど秀逸な成り上がり物語が、『恋愛』としてばかり評価されていることを常々疑問に思っていたんだ」
「私も世間の評価を聞いた時は、びっくりしました」
絵本制作者の方が、ぶっ飛び解釈が二人もいたことにびっくりだろう。
「ふふふ、どうやらお互いなかなかの幼少期を過ごしてきたみたいだな…」
「……そのようですわね。でも、私たちは力をつけ、自らの足で立って今ここにいる」
「あぁ、……最後に自分が勝つためにな」
口元に弧を描き、ユーリシアは静かに拳を握りしめた。風格すら漂うその姿と、深淵のような暗い瞳に宿る鋭さは思わず平伏したくなる。少なくとも、公爵家のお姫様なんて可愛らしい単語には当てはまらないことは確実であった。貴族の令嬢とは一体……、と気にしたら負けなのだろう。
彼女たちは、お互いの過去を語るようなことはしなかった。傷の舐め合いをするつもりもなかった。お互いに感じられるのは、常に前へと向かう強い意志。挫けることなく何度でも立ち上がり、己の眼前を立ち塞ぐ敵を粉砕する執念。それだけがわかれば、今の二人には十分であった。
己の敵対者は容赦なく踏み潰す。そのためなら、あらゆる手を尽くし、泥を被ることも厭わない。そんな自らの性格と似たような相手だからこそ、どう対応することが最も正しいのかに気づいていた。自分自身の執念深さとしぶとさは、筋金入りなことを両者共に自覚していたからだ。
敵対すれば、その命を奪うまでしなければ止まらない。どれだけ身体を壊し、心を折り、絶望させたとしても……何十年もかけて必ず復讐を果たしに来る。そんな十代の少女とはとても思えない、アヴェンジャーっぷりを相手は発揮してくるだろう。自分だったら確実にやるからだ。
それ故に、彼女たちの答えは決まった。敵対した場合のリスクは、想定外を生み出すかもしれないほどの、何かをしてくる可能性がある相手だ。そんな人物なら、敵対しなければいい。裏切らなければいい。絶対の味方として共にいることが、第一に賢い選択だった。
何よりも、自分の本音を隠すことなく、ここまで堂々と対等に話ができる存在を他に知らない。こんなにも楽しく後ろ暗い話ができて、盛り上がれる同性の同年代。それは――お互いに無理だろうと諦め、羨望にも似た憧れを抱いていた『あの関係』になれるかもしれない希望となっていた。
相手を信用することとは違う。絶対に敵対しないという関係が生み出す、絶対的な味方。そんな存在がどれほど大きいものか、彼女たちは理解していた。
ルルリア・エンバースは静かに椅子から立ち上がると、足を前へと踏み出す。それを見て、ユーリシア・セレスフォードも黒髪を手で流しながら歩みを進める。彼女たちの距離がなくなり、目の前に映る相手の顔を見据えながら……真っ直ぐに手を差し出し合った。
「改めて、私はルルリア・エンバースです。よろしくお願いします」
「こちらこそ、ユーリシア・セレスフォードだ。……私は君と対等な関係を望むため、敬語は必要ないのだがな」
「あら…。もちろん、対等な関係を私も望むわ。ただ、私より先輩だから敬語を使っていただけよ。あなたが気にしないのなら、そうするわ」
「ふふっ、そうか」
握り合った手から感じる温かさが、徐々に二人の関係に形を築いていく。
「ユーリシアでは、少々長いだろう。ユーリと呼んでもらって構わない」
「それでしたら、私もルゥと。それ以外、愛称のようなものは特になくて」
「私も似たような感じだから、気にしなくていい」
「くくくくっ…」
「ははははっ…」
多くを語らなくても、通じ合える気持ち。にじみ出る悲惨さをお互いに感じ取ることができるからこそ、地雷を踏み抜くことがない。この共感レベル、もはや運命だろうと彼女たちは思った。
こうして、魔王様と覇王様の同盟関係が締結されたのであった。
「……ところで、今まで一言もしゃべっていないけど、シィはさっきから何をしているの?」
「ん、なんだそんな隅の方で。遠慮せず会話に入ってきて構わないぞ」
「……いえいえ、どうぞ俺に構わず楽しんで下さい。ちょっとお薬の時間なので、マジで放置してもらって大丈夫です」
「なんで敬語」
彼の懐から取り出される大量の胃薬よりも、敬語が気になったルルリアであった。
******
「それにしても、最初の頃シィから主の話を聞いた時は、男性の方なのかしらって思っていたのよね。なんせ目的が、国の天辺だもの」
「初めの頃か…。私がルゥという少女のことを聞いた時は、半信半疑な部分があったな。ざまぁが目的というのも、驚いたものだ」
「目的のセンスは、どっちもどっちだけどな…」
優雅に紅茶を飲みながら、午後のティータイムを彼女たちは楽しんでいた。何気にシーヴァが入れた紅茶がおいしかったことに、ルルリアは素で驚いてしまったが。罠の時の神回避なところといい、変なところでスペックを発揮するなー、と思いながらおかわりを入れてもらった。
「……正直クライス王子を巻き込んだのは、姉を使って彼の周りからの信頼を落とすことで継承権の剥奪を狙うんだって考えていたのよね。この国の天辺になるのなら、王子の存在は邪魔なんじゃないかって」
だが、その予想は見事に外れてしまった。ユーリシアが王子を使って暗躍していることはわかったが、少なくとも切り捨てることはしないのだろう。そうじゃなければ、二年もかけているのにあの姉が彼を落とし切れていない理由にならない。彼女は今のまま婚約者として王子の隣に立ち、そして王妃を目指すつもりなのだ。
確かにこのままカレリアを嵌めれば、ルルリアの婚約者の件も公になることだろう。そうなれば、ただでさえユーリシアしかちゃんと女を知らなかった王子様なのである。甘えさせてくれた拠り所のような女性に裏切られていたことを知れば……、女性不信にもなりそうだ。昔から知っている幼馴染の婚約者以外、とても勇気が出せなくなるだろう。姉の男に対する演技力が完璧すぎるが故に、余計に。
さらにカレリアに懸想してしまった事実は、ユーリシアに対する後ろめたさを生み出す。そして彼女は、その心の隙を見逃す人物ではない。まさに覇王として彼女が君臨するには、これ以上ないほどの条件がそろうのだろう。
「……でも、よくこんな計画を進めようと思ったわね。私ならできないわ」
「そうか? 勝手に君の姉君を利用させてもらったのは申し訳なかったが、あんなにもおいしそうな生贄だったからな。ついつまんでしまった」
「もう、人の獲物を勝手につまみ食いしないでよー」
完全に女王様が食い物扱いされていることに、シーヴァはうちの覇王と魔王がすみません、と心の中でちょっと謝ってしまいたくなった。
「あれは面白いほどに、自分を中心に回っているからな。お前の獲物じゃなかったとしても、いずれ私のための礎にさせてもらっていた」
「あそこまで育てたのは私よ」
「だが、この学園で彼女の取り巻きを選別しておいたのは私だ」
「……なるほどね」
姉がこれほどまでに思い通りに動いてくれるのは、ルルリアによる暗躍だけではなかった。カレリアのみなら上手くいくだろうが、もし彼女に優秀なブレーンが取り込まれていたら、面倒なことにはなっていただろう。しかし、彼女の取り巻きになっている者はかなりいるのに、そこまで脅威になる人材はいなかった。
選別とはつまり、カレリアに取り込まれてはまずい人材を、彼女から遠ざけておいたり、排除してくれていたのだろう。それに関しては、ルルリアは感謝を述べたいぐらいであった。
「ついでに、私の政敵になりそうな家の男を誑かしてもらったり、将来的に出そうな杭を打っておくための弱みを握る布石作りになってもらったり、彼女の所為で退学に追い込まれそうになった人材をこちら側に取り込む手立てにさせてもらったり、色々とな…」
「……もはや、つまみ食いじゃ済まないほどにやりたい放題していた」
「出来上がっている食事にさらに盛り付けを施すのが、俺の主人だから」
清々しいほどに、介入しまくっていた。骨の髄までしゃぶる気だ、この覇王様……と、もはや呆れよりも感動の方が強かった。とりあえず、自分の部下になった者たちはこちらで管理しても問題はないか、などの交渉をルルリアはしておいた。
「うーん。でもその計画って、もしクライス王子の心が完全に姉に傾倒していたら、かなり面倒なことになっていたんじゃない?」
次にルルリアが疑問に思ったのは、そのあたりの人の心の機敏だった。姉をずっと見てきたのなら、彼女の男に対する恐ろしさはユーリシアもわかっていたはずだろう。それなのに、自分の野望に必要不可欠な王子を宛がった。
ルルリアも自らの婚約者を餌としていたが、彼は姉に傾倒しても問題がない人材だった。しかし、ユーリシアが餌にした王子はそうではない。それなのに、自らの計画のために動かした。クライス王子が決して自分を捨てないと確信していたかのように。
「あぁ、なるほど。ルゥは私が王子の心という、不確定要素を主軸に考えていたことが疑問なのだな」
「えぇ、私は他人の心なんてとても信用できないわ。……特に恋心や愛だなんてものは余計に」
「ははは、確かにな。私も人間の恋愛感情というものをはかるのは、なかなか骨が折れる。クライスが相手でなければ、私もこのような計画は立てなかったさ」
「……ユーリは、クライス王子のことが好きなの?」
自分の婚約者を信頼する彼女の姿に、首を傾げてしまった。ユーリシアが恋愛を柱に立てる性格ではないのは確認したし、何より彼女はシーヴァという客観的な目を持っている。ルルリアの質問に、彼女はそっと微笑んで返すだけだった。
「……ちなみに、ルゥは恋愛をしたことがあるか?」
「残念ながら、縁がないわね」
「そうか。ならば今後の参考の一つに、私のやり方を知りたくはないかな」
「まぁ」
魔性の女すら退ける覇王様の恋愛に、ルルリアは興味が引かれた。『恋愛』という、女の子らしいきゃっきゃっうふふな会話をしているはずなのに、何でこんなにも寒気が止まらないのだろう、とシーヴァはこの場に自分がいる理不尽さに項垂れた。
「恋愛に大切なことはな、……いかに相手を自分に依存させるかが重要なのだ」
「……詳しく」
「恋愛感情のようなふわふわしたものは私も好かん。必要なのは、相手の最も弱いところをこちらがしっかりと握り、手綱の主導権を離さないことだ。その弱みを救えるのは私にしかできない、と何度も刷り込ませることでトラウマにさせる。クライスと私は幼馴染故、その機会は作りやすかったな」
「幼少期に刷り込んでおく効果は、姉で証明されているからわかるわ」
「話が早くて助かる。魂にまで刻み込まれたものを、忘れることや捨てることなどできはしない。捨て去れない気持ちを抱くところは、復讐も恋愛も似たようなものだな。たかが拠り所程度では、少し放し飼いにしても気づけば帰って来るものだ」
「復讐のために、私が彼らを思うことと同じね。どれほど優しく、温かい世界を知っても、結局ここに戻ってきてしまう。その思いに、憎しみか愛かのどちらを埋め込むのかが重要って訳ね…」
これ、絶対恋愛話じゃない。甘酸っぱさの欠片もなさすぎる女子二名の次元が違い過ぎる会話を聞きながら、彼はただ胃薬を抱きしめた。自分の周りにいる女が怖すぎる。えっ、こういう会話をこれから先も俺は聞かないと駄目なの? と仲介役というか、中間管理職の定めに涙が出そうになった。
それからも遠慮なく盛り上がった恋愛話。そこに男としての意見を参考に頂戴、と突然言われ、「俺は自分の胃に優しくて、胃薬が似合う人間の女の子ならなんでもいいッ!」とキレ気味に答えてしまった彼を、誰も責められはしないだろう。
「えー、それではもう本題に入ろう。これ以上の女子トーク(仮)は、俺がいないところで二人で楽しんでくれ。さしあたった問題として、女王様による挨拶攻撃に対して、その男爵令嬢をどうするのかを話し合う感じでいいか?」
「あぁ、駆逐するのなら返り討ちにしよう」
「調教するのなら任せなさい」
「慈悲がねぇッ!?」
冗談だよ、冗談……。と揃って肩を竦める彼女たちに、口元が引き攣る。本題に入ってからもかっ飛ばしてくるというか、これは自分の反応を見て楽しんでいる節があることに気づく。気を引き締めないと、ドSの波に飲み込まれるかもしれなかった。
味方同士の会話のはずなのに、シーヴァの心は戦場の真っ只中である。ただ彼女たちの意見も、選択肢としてありえないわけではないところが、さらに恐ろしいところであった。
「だが、そろそろ布石も十分に揃ってきたところだしな。せっかく裏で動き続けていた者が、表にちょっかいを出しに来たんだ。丁重にもて成さなければ、公爵家の者として礼儀に欠ける」
「あら、それなら私も次期侯爵家の人間として考えなければいけないわね。初めてのおもて成しだから、気を付けないといけないわ」
「……言葉の意味とか解釈って、難しいよな」
三人でそんな話をしながら、ルルリアは今までのことを思い出していた。視線を下に向ければ、昔よりも大きくなった自らの手が映る。幼かった頃の自分の手には、本当に何もなかった。手に入れようともがいても、奪われ続けるだけだった日々。それが今では、地位を手に入れ、手札を手に入れ、そして友人までできたのだ。
学園に入学する前に、エンバース家のことは大よそ済ましてきている。リリック侯爵閣下の協力もあり、エンバース家を快く思っていない貴族の家を煽った。情報屋としての繋がりを総動員し、培ってきた技術を使い尽くしてきたのだ。
あとは、引き金を引くだけ。その引き金となるのが、エンバース家に絶望を呼び起こすきっかけになるのが、……彼らが何よりも大事にしてきたカレリア・エンバースとなるのだ。彼女には、目に見える悪となってもらう必要があった。
この国の王子を誑かし、その婚約者である公爵令嬢を危険にさらし、挙句に妹の婚約者を寝取ろうとした女。そして、学園で彼女が行ってきた非道の数々。ユーリシアの言葉の通り、引き金のための布石はもう十分に揃ったのだ。
そして近いうちに、多くの観客が用意できる絶好の舞台が開かれる。大勢の人間を巻き込み、国すらも動かす大舞台。それはもう決して夢物語ではなく、ルルリア自身が掴みとれる現実だった。震えそうになる手は武者震いだろうか、と自分自身のポジティブさに思わず笑ってしまう。引き返そうなどという気持ちが起きないあたり、己の性悪さと執念深さに、ルルリアはさらに苦笑を浮かべたのであった。
彼女の全ては、ルルリア・エンバースという一人の少女の願いは、『ざまぁ』を遂げること。全てを失わせた彼らに、幸福に暮らす自分を見せつけることこそが、彼女の復讐だった。
「……ねぇ、ユーリ。確か一ヶ月後ぐらいに開かれるパーティーは、クライス王子の生誕を祝うためのものよね。だから、この学園に通っている生徒や教員、関係者の貴族も参加できるように配慮したって聞いているわ」
「あぁ、そうなっている。私も口添えをしたからな。なかなかおあつらえ向きな大舞台だろう?」
「それなんだけどね。舞台のためにもう一つ飾りつけをしたのだけど、いいかしら」
「えっ、まだやるの」
「……面白そうだ、聞こう」
ルルリアの提案に真逆の反応を返す二人を一瞥しながら、すっかり話に夢中になって冷たくなってしまっていた紅茶を一気に口の中に流した。
「もしものことだけど、……ユーリの身に何かがあったとするじゃない。例えば、階段から落とされたとかね」
「ふむ、よく乗馬をして追手から逃げたり、ジャングルファイトをしていたから、足腰には自信がある。学園の階段から落とされる程度じゃ怪我一つしないのだが、そういうことを聞きたい訳ではないのだろう?」
ちょっと内容が気になって聞きたくなったが、なんとか堪えてルルリアは頷いた。
「とりあえず、あなたが怪我とかをしたとするわ。それで一ヶ月後のパーティーに参加できるかわからない事態になった場合、王子様がエスコートする役は誰になるのかしら」
「……すぐには決まらないだろうな。私は彼の婚約者であり、対抗馬になり得る相手はすでに手を打っている」
「その相手を、王子様自らが選んで連れてくるってことはできる?」
「ふふ、学園で世話になっている女性という肩書きなら、不可能ではないだろう。不測の事態なため、セレスフォード家がそれを許せば、緊急の代役としてなら周りも強く言えないだろうからな」
「お、おーい。まさか止めるんじゃなくて、便乗する気満々?」
ルルリアの言いたいことが伝わってきたのか、ユーリシアは面白そうに笑みを作った。そして渦巻く不穏なオーラを感じ取り、シーヴァはとんでもなく働かされるかもしれない空気に腰が引けていた。
自分の誕生日という本来の主役には申し訳ない部分もあるが、せっかくの舞台なのだから今回の主役を目立たさなければならない。そのための布石であり、そして止めだ。
「よし、そういうことなら私は階段から落ちることにしよう。第一発見者をシーヴァにしておけば、怪我の状態や情報などはいくらでも操作できる。意識不明ということにしておけば、学園に通わなくていいからな。残りの一ヶ月は実家に戻り、シーヴァから状況を聞きながら、学園の外から固めていくのも悪くない。ふふっ、当日は奇跡の生還者として派手に登場してやろう」
「ユーリがいない間の学園の内側は、私とシィで固めておけばいいわね。男爵家の子は、ちゃんとこちらで楽しいお話をしておくから任せて。妹思いなお姉ちゃんを、悪いようにはしないわ」
「さり気なく、俺の仕事が多くないかな…」
ギラギラと嬉しそうに輝く二人の目を見て、シーヴァは説得を潔く諦めた。ユーリシアが階段から突き落とされ、意識不明になったという事件は、学園に衝撃を巻き起こすことになるだろう。自演なのに。これでカレリアは、公爵令嬢を階段から突き落としたという黒幕確定である。自演なのに。
しかし、結局そんなきっかけを作ってしまったのは女王様自身なので、彼は心の中で黙祷をささげるだけで見捨てる気満々である。彼にとって大切なのは、いかに自分への被害が最小限に済ませられるかなので、被害を軽減させるためなら遠慮なく濡れ衣だって被せる気であった。
「それじゃあ、決行はその子の見張りが私の下僕になった時にでもしましょうか。いらない心配かもしれないけど、ユーリも他の貴族に気づかれないように気を付けてね」
「心配をするならルゥの方だろう。彼女のことだ、私を突き落した犯人をルゥに仕立て上げるために、様々な手を打ってくるだろうからな」
「あら嫌だ、怖いわぁー」
何故この二人の会話には、副音声が聞こえてきそうになるのだろうか。答えを求めても碌なことにはならないと悟ったので、シーヴァは笑みを溢しながら相棒を喉に流し込む。覇王と魔王の同盟軍で生き残るには、諦めが肝心なのであった。
――こうして一週間後、学園は震撼した。