第六話 笑う門には、暗躍来たる
カレリア・エンバースにとって、ルルリア・エンバースは気に入らない存在だった。彼女は貴族の長女として生まれ、周りから愛されて育てられてきた。優しい母親に、かっこいい父親。褒めてくれる人間が、周囲にいることが当たり前の世界で彼女は育ってきたのだ。
だから、そんな世界に妹がいることを、彼女は不満に思っていた。自分の世界は十分に完結しているのに、そこに必要のないものが入ってきたと感じたからだ。両親からもらう愛情が、妹にも分けられてしまう可能性に。周囲の人間からの視線を、奪われてしまうかもしれないことに。後から急に来たくせに、自分から大事な物を奪っていこうとする妹に、カレリアの幼かった心は許せなかった。
そして何よりも彼女が恐れたのは、妹の才能だった。気づくとルルリアは色々な本を読み、字を書くことも出来るようになっていた。まだまだ字を読むことも拙く、書くことだって難しかったカレリアにとって、脅威に他ならない。年上の自分にできないことが、妹にはできることに、さらに彼女の態度を強固にさせた。己を脅かす存在など、肯定しか受けてこなかった彼女にとって、受け入れざるものだったからだ。
故に、家族の誰にも似ていない、という理由で冷遇されるルルリアを、カレリアは誰よりも喜んだ。容姿だけは、いくら頑張ったって妹が手に入れられないもの。それを持っている自分は、やはり上なのだと考えた。しかし、同時に彼女の中にも冷静な部分があった。もし、妹の容姿が母や父に似ていたら、どうなっていただろうと。
今まで自分が持っていたものを、全て奪われていたかもしれない。姉よりも頭が良く、身体が丈夫で、一生懸命に愛情をもらおうと努力ができる妹。姉にもかかわらず、一つ年下の妹に劣るかもしれない事実は、周囲の目にどのように映るだろうか。
その事実に、カレリアの中の恐怖心が膨れ上がった。自分の妹は、今は冷遇されているが、それは容姿が欠けているだけ。逆に容姿以上の価値が見いだされたら、今度は自分が今の妹と同じ立場に立たされるかもしれない。妹の苦しむ姿に、未来の自分を幻視した時、カレリアのルルリアの扱いは決定した。
――そうだ、だったら徹底的に壊してやろう、……と。
そんな未来を、ルルリアが受け入れられる未来を、カレリアは壊すことを選んだ。ルルリアが自分より下である限り、彼女が認められない限り、自分は常に上に立ち、輝いていられる。生まれて初めて経験した劣等感や嫉妬という感情が、ルルリアの全てを排除することに向けられたのだ。
「ねぇ、お母様。お父様。ルルリアってなんだか、……おかしいわ」
不安そうに、震えるような声で、両親に告げるようになった。彼女に酷いことを言われた、と泣き真似も覚えた。ルルリアの努力を認めさせないために、ルルリアよりも自分の方が優れているのだと見てもらうために。妹を貶めることで、自分の周りの評価をあげることが当たり前になっていった。
それがあまりにも上手くいき、ルルリアが一人ぼっちになる様子が清々しかった。妹ではなく、自分の言葉を信じてくれる周りに安心した。彼女が最初の頃に持っていた恐怖心は、いつしか征服欲や支配欲へと変わっていく。カレリアにとってみれば、ルルリアは自分のものを奪おうとした悪。それを阻止しただけでなく、自分の評価をあげる道具にもできたことに、味を占めてしまったのだ。
ルルリア・エンバースは、自分のためのおもちゃだったのかもしれない。容姿が似ていなかったのも、自分が輝くための布石だったのかもしれない。ルルリアという少女は、カレリア・エンバースを幸せにするために生まれてきたのだと、思うようになっていったのであった。
そのおかげで、「私のものは、私のもの。お前のものも、私のものっ!」が当たり前な悪い意味でのジャイアニズムを発揮し、妹の迫害に心血を注ぐ恐ろしい姉が誕生することとなった。
そしてそれが、「くははははっ!」と楽しそうに指をさして笑いながら、暗躍する魔王を生み出したのだから、人生とはわからないものである。
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「ふふふ、健気で心優しい子ね…。婚約者も、認めてくれる人間も、あなたにそんな幸せは必要ないでしょう?」
カレリア・エンバースは、心から楽しそうに笑っていた。思い出すのは、妹の婚約者から抱きしめられた時の温もり。その事実が、彼女の優越感を満たしていた。
カレリアは現在、クライス王子と懇意にさせてもらっている。しかし彼には公爵家の婚約者という存在がいるため、表立って動くことはできない。そのため学園でのカレリアは、積極的な行動は控え、ゆっくりと近づくようにしてきたのだ。
それ故に、本来なら妹の婚約者と関係があると思われるのはまずい。彼女もそれを理解していたが、それでも収まらない感情が彼女を突き動かした。気づかれたらまずいのなら、気づかせなければいい。今までと同じように、裏から手を回せばいいと考えたのだ。
「男には、適度な刺激が必要なのよ。ただの優しい良い子ちゃんなだけで、繋ぎとめていられるはずがないでしょうに」
妹の婚約者は、ルルリアを嫌っている訳ではなかった。彼女の献身的な態度に満更でもなさそうだったが、しかしどこか物足りなさそうではあったのだ。それを感じ取ったカレリアは、その甘さを瞬時に見抜いた。男に関しては、まさに狼並みの嗅覚である。
そして気づいた彼女は、女としての自分をさり気なく売り込んだ。ここで大切なのは、自分はその気がなかったと思わせ、相手をその気にさせることだ。ルルリアの姉だと言っておけば、近づくチャンスはいくらでも作り出せる。そして誘惑を繰り返し、男の方から迫ってしまいたくなるように仕向けた。
彼にも戸惑いや葛藤はあっただろう。自身の不義や世間からの目に悩み、苦悩したであろう。それでもルルリアとカレリアの二人を手放したくない、とまで思わせれば……もう彼女の手のひらの上だった。あとは、優しく甘い言葉を囁いてあげればいい。
『私も妹を傷つけたくありません。でも、私を好きにさせてしまったあなたにも申し訳がないわ』
エンバース家から消えた妹を本当は心配していた姉を演じ、そして婚約者である彼の心を揺さぶってしまった己を責める様に涙をこぼす。君の所為じゃない、と勝手に懸想してしまった自分自身を彼が責めだしたら、そっと矛先を誘導したのだ。
『……だから、こうしましょう? 私もいずれ、夫を作ることになると思います。だけどあなたはそのまま、ルルリアと結婚して欲しいの。そして、今の屋敷を離れて別宅を作って下さい。その後、妹の姉だからと私があなたに会いに行けばいいわ。あの子や周りにさえばれなければ、みんな幸せなまま暮らせると思うの。あなたの気持ちも守れるし、ルルリアも知らなければ幸せなままだし、そして私もあなたを好きにさせてしまったことへの責任が取れるわ』
つまり、世間的にはルルリアの夫になり、裏では姉と浮気をしましょう、と告げたのだ。本来なら、二兎を追う者は一兎をも得ないはずの事柄を、無理やり両立させる。その提案に相手は戸惑いをみせていたようだが、すぐに否定の言葉を出すことができなかった。
ルルリアや父にさえばれなければ、ちょっとぐらい……という気持ちかもしれない。もしばれても、噂通りにあんなに優しい妹なら姉である私と愛する夫の幸せのためにきっと許してくれるわ、と告げられたことで罪悪感を薄めてしまったのかもしれない。あの父にして、この息子である。
「愛していた夫の心は自分になく、隠れ蓑にされていた事実を知ったら、……いったいどんな表情をするのかしら?」
夫の愛は姉に向けられ、何も知らないで幸せに浸かる愚かな妹。そしてカレリアの思惑が上手くいったら、いつかルルリアにわざとばらすのだ。声を張り上げたって、無力な小娘の声にいったい誰が耳を貸してくれるというのか。その時の妹が絶望するであろう姿に、彼女の笑いは止まらなかった。
カレリアが王子と懇意にしていることを、婚約者の彼はまだ知らない。もし自分が正式に王子から選ばれたことで、彼が途中で怖気づいたり、周りにばれるような失敗をしたりしたら、その時は妹と一緒に堕とせばいいだろう。
「ふん、男一人奪われれば、頼るものが無くなる程度の力しかないのよ、あなたには。私に牙を向けたことを、後悔させてあげる」
新年度が始まってすぐの頃、カレリアは信じられない光景を目撃してから、ずっと苛立ちを浮かばせていた。カレリアがルルリアの婚約者に手を出そうと思ったのは、何も持っていない、奪い続けてきたはずの妹が、自分よりも高い場所から現れたからだ。侯爵家に認められ、婚約者も得ている。何よりも彼女が驚いたのは、笑顔で婚約者と一緒にいるルルリアを見た時であった。
カレリアの前では、両親の前では、全く笑うことのないおもちゃだった妹が、幸せそうに微笑んでいる。それを見た時、彼女は信じられない気持ちだった。だからあの人形をあそこまで変えた理由を考えたら、婚約者である少年しかいないと直感したのだ。
もともとルルリアの婚約者は、五十代の男だと聞いていた。それにお似合いだと嗤っていたのに、現実は違った。ルルリアは、何も持っていない無力な小娘である。おそらく、息子である彼に運よく救われたのだろうとカレリアは思考した。
その時にでも、きっと妹は婚約者の彼に惚れたのだ。あそこまで女を変えられるものは男しかいない! と自分の名推理に酔いしれた。もうこれが真実の方が誰も傷つかないような気もするが、気にしては駄目だろう。
そして月日は過ぎていき、ルルリアの噂が流れれば流れてくるほど、カレリアの神経を逆なでしていった。
ルルリア・エンバースという少女が入学した時、学園に通っていた貴族は驚きに目を見開いた。『エンバース』という家名から、カレリアの存在をすぐに感じ取ったからだ。しかも彼女は、あのガーランド侯爵家に認められており、婚約が成立したらすぐにでもガーランド姓になることも伝えられた。
学園でのカレリアは、裏の女王のような立ち位置である。魅了した男を使い、学園での地位を固め、女生徒は使える者は利用し、使えない者は手を回してきた。事件を明るみにすることなく裏でもみ消し、表では淑女として通っている。
カレリアをよく知らない生徒から見れば、あの美人な人の妹かー、という反応を。カレリアをよく知る生徒から見れば、本当にあの人の妹なのか、という反応を。そんな驚愕を起こしたルルリアだったが、彼女は非常に模範的な優等生で、礼儀正しく、教養高く、そして優しく微笑む少女だった。
侯爵家の次期夫人という立ち位置でありながら、彼女は決して傲慢な態度を見せることはなかった。さらに侯爵家での噂が流れたことで、彼女の境遇に同情的な眼差しを向ける者もいた。表立っての非難はなかったが、エンバース家の対応に疑問を持つ者も現れたのだ。
『私はもうあなたの人形ではありません。これからは、自分の幸せを見つけていきます』
さらに決定的にさせたのは、ルルリアからのセリフだった。自分の立場を思い出させてやろう、とルルリアに会いに行ったカレリアに、彼女は堂々と言い放った。もうあなたなんて、眼中にない。そう言われた彼女は、与えられた屈辱に憤った。
妹が幸せになることが認められない。彼女が周囲に認められる姿が許せなかった。だが、ルルリアの境遇に一切嘘偽りはない。彼女を堕とすようなことをしても、侯爵家が後ろにいれば下手なことはできない。教師や学生を使い、裏から手を回しても、ルルリアは決して折れることがなかった。
「本当に、あの公爵家の女と同じで忌々しい」
カレリアは、王子の婚約者である女性を思い出す。美しい黒髪と容姿を持った、この国の次期王妃と名高い公爵令嬢。カレリア自身も、子爵家という身分故に、王妃になるのは難しいとわかっていた。だから彼女が目指したのは、側室という名の寵姫だった。
王妃を目指せば、たとえ王子という後ろ盾があっても苦労は絶えない。だからこその側室だ。カレリアは、王子の愛があれば十分な巻き返しができると考えたのだ。国の政治や外交としてのお飾りの王妃をたて、自分は側室として王子の愛とおいしいところだけをもらう。頂点を目指すよりも、妥協して上手く立ち回る方が危険も減り、得をするものと彼女は考えた。
しかし、その計画のための準備をしていたカレリアが苦虫を噛んでしまったのは、その王妃候補の女性が優秀だったことである。そして何よりも、王子はまだ彼女に対して揺れていることだ。故に二年前から、様々な手で婚約者の立場から引き摺り下ろそうとするが上手くいかない。カレリアが側室になれたとしても、確実に障害となるだろう。排除できるなら、しておきたかった。
一ヶ月後に開かれるクライス王子の誕生祭で、婚約者である彼女は彼にエスコートされて現れる。多くの貴族や王族の前で彼とダンスを踊り、その存在を刻み付けるだろう。彼女がいなくなれば、王子の口添えで緊急の代役として、もしかしたら自分が隣に立てるかもしれないのに、と苛立ちを滲ませながら、カレリアは金の髪を弄った。
「いっそ、邪魔な二人で潰し合いでもしてくれないかしら…」
ポツリ、と呟いた自身の言葉に、カレリアは目を見開く。そして思案した表情で考えを巡らせた後、無意識に口元へ弧を描かせた。彼女たち二人には、接点など何もない。本来なら潰し合いに発展するはずはないのだが、それなら誘発させればいいのだと思いついたのだ。
成功すれば、公爵令嬢に傷がつき、ルルリアの地位は地に落ちる。失敗しても、二人の間になんらかの遺恨を残すことができれば、後の布石として十分に使える。お互いに疑心暗鬼を抱かせるきっかけにはなるだろう。
「……そうと決まれば、まずは簡単なジャブの準備と、使い捨てにできる駒でも見繕っておきましょうか」
優越が浮かぶ瞳を細めながら、口元にそっと手を添える。そして抑えきれない感情に逆らわず、カレリアは高らかに笑ってみせたのであった。
こうして、恐ろしい姉の計画は着々と進んでいった。……一番やばすぎる勘違いを残したままに。