第二話 幼女ルルリアちゃんの軌跡
『ざまぁ』とは、マイルドな言い方をすれば、天狗になっている人物の鼻を明かすことである。ぶっちゃけ直訳したら、他人の失敗を嘲る言葉である。あの様を見ろ、ざまぁみろなどの言葉の略とされていた。
別単語として『プギャー』などもあり、いかに幅広く使われているのかがご理解いただけるだろう。しかし言われて嬉しい言葉ではないし、表だって言うには過ぎたるものだ。綺麗な言葉ではないだろう。
それでも、『ざまぁ』というものにも美学がある。ルルリア・エンバースは常々そう思っていた。
『ざまぁ』というものは、ある意味で成り上がりなのだ。男の子が好きそうな展開である。『ざまぁ』は、成り上がりの別種と言ってもいいと彼女は思っていた。ただ、目指すべき目標が違うだけなのだ。
成り上がりに大切なのは、その先だ。弱く力がなかった己を蔑んでいた相手を、上回り逆転することで勝利して、……その先にある真の目標に向けてさらに進む。言ってしまえば、踏み台で噛ませ犬なのだ。カタルシスの一部の材料でしかない。正統派だ。
『ざまぁ』とは逆に、この噛ませ犬どもをいかに上回り、高笑いするのかを目指すものだ。どれほどみすぼらしい最後を迎えさせて、違いを見せつけてやるのかに執念を置く。カタルシス全開だ。夢ぶち壊しだ。ただの性格が悪い人だ。
それでも、気持ちがいいのである。メシウマである。自分こそが一番だと誰だって思いたい。自分より下がいることに、無意識に安心してしまう。無慈悲なカースト制度に、平等などない。人間と言うのはそういうものだ。奥底に潜む欲望なんてそんなもんだ。
幼女ルルリアの荒み具合は、天元突破だった。
「それでも、やっぱりゴールは必要よね。彼らの顔に泥を塗って、私の人生は終わりじゃないもの。だけど、私に恋愛ができる自信はないしなー」
六歳の少女は独り言を呟きながら、大好きな絵本の表紙をそっと撫でる。この物語のゴールは、ざまぁを遂げた後、王子様と結婚して幸せに暮らすものだ。好きな人を取られ、幸せな様子を見せつけられる姉という構図は、なんとルルリアの優越感を満たすスパイスだろうか。絵本としては、ひどい曲解である。
しかし問題は、さすがにルルリアもそのためだけに結婚まではしたくないのだ。それはつまらない。カタルシスのためなら色々我慢はできるが、その後まで持ち込みたくない。自身が好きになった人と姉の好みが被れば、もう最高なのだがと考える。略奪だってできる。荒んだ六歳児である。
「死して相手に復讐を果たすという命がけの『ざまぁ』もあるけど、私の好みじゃない。相手の幸せを踏み台にして、さらに自分が幸せにならなきゃ意味がないわ」
歪んだポジティブ精神を掲げながら、彼女は拳を握りしめる。恋愛は今のところ置いておき、とにかく彼女が求めるのは完璧な『ざまぁ』であった。社会的にも、人望的にも、精神的にも、全てにおいて優位に立つことこそが目標なのだ。
そしてその優位性を、決して相手に悟られてはならない。『ざまぁ』の醍醐味は、なんといっても自信に満ち溢れていた人間を、一瞬にしてどん底に堕とす最後の締めだ。その最後をどれだけ無駄なく整え、無駄なく操作し、無駄なく堕とし切るか。
そう、『スタイリッシュざまぁ』こそが、ルルリアの美学だった。
「ざまぁにはやっぱり、栄える悪が必要よね…」
妖しく笑みを浮かべながら、ルルリアは物語に載っている姉に指を這わす。ストーリーでは、妹に厳しくあたる姉の絵が描かれていた。その姉の髪も同じ金色。彼女の笑みが、さらに深まった。
何も持っていない少女と認識されているルルリアだが、『ざまぁ』に必要なものならルルリアは持っていた。貴族の子女でありながら、冷遇される自身。美しく傲慢で見下す姉という存在。愛を与えてくれない両親。次女という、いてもいなくてもいい立場。冷ややかな使用人たち。なんて素敵なのだろう、と彼女はこの時、本気で神に感謝したぐらいだ。
環境というものは、選べない場合が多い。その中で、これほどまでに成り上がる要素満載の環境はない。超えるべき目標がこんなにも簡単に見つかったことに、惚れ惚れした。どうやって物語のような絶望を引き出せるのか、とわくわくしたのだ。絵本の物語に憧れる、という少女らしい反応なのに素でひどかった。
「姉にはこのままで、いてもらわないといけないわ。そのためには、改心なんてされたら計画が狂ってしまう。善良な性格だったり、中途半端な悪だと、せっかくのカタルシスがもったいないもの。早い内から、仕込んでおくべきね」
計画を練りだしたルルリアは、いかに自分の自尊心が満たされるのかを考える。カレリアがルルリアを奴隷としか見ていないように、ルルリアもカレリアを踏み台としてしか見ていなかった。
もしかしたら、将来カレリアの暴虐な性格だって変わるのかもしれない。両親だって、もっと時間をかけて努力をすれば愛してくれるのかもしれない。使用人たちと打ち解けあえるのかもしれない。みんなで笑いあえるのかもしれない。前向きに努力を積み重ねていけば、いつか報われるのかもしれない。
精神は荒んでいるが、まだ六年しか経っていないのだ。ルルリアの決断は、その全ての可能性を潰すものだ。
「……だけど、結局ただの可能性じゃない」
ルルリアは、今度は物語の主人公を指でなぞる。姉と物語の姉を同一視することはできても、この主人公と自分を同じに見ることはできなかった。彼女を目指すのに、誰よりも彼女のようにはなれないとわかっていたからだ。
一生懸命に本を読んで、勉強の成果を見せても素っ気なくて。姉より上手にできても、最初に姉を慰めて、自分には一瞬冷めた目を向けられて。笑顔で話しかけても、眉を顰められて。姉が壊した物を、自分の所為にされて否定しても、信じてくれなくて。
もうやめて、とカレリアに気持ちを伝えたって、全然伝わらなくて、そのまま庭の池に落とされた。泣いても助けてくれず、姉から聞いた理由だけを信じて怒られた。冷えた身体と心に、エンバース家での自分の立ち位置を刻み付けられたようだった日々。
どんなに辛いことがあっても、心が綺麗なまま、冷たい目からも耐え抜くことができる主人公の強さ。他人を許す優しさ。誰かを信じられる心。それは、……自分にはないものだった。
きっと自分が我慢をすれば、いいことなのだろう。どんな扱いだろうと、衣食住をもらっているのは事実。それでも嫌なら、この家からさっさといなくなればいいのだ。それが一番ルルリアにとっても、この家族にとっても幸せな道なのかもしれない。お互いに無関心で切り捨てればいいのだ。
だけど、同時に思うのだ。どうして私だけ、こんな目に合わなければいけない。不当な扱いに、どうして私だけが耐えないといけない。どうして怯えなければいけないのかと。幸せそうに笑う彼らと、地を這い細々と生きる自分。
ふざけるな、と思った。
「恨むのなら、恨むといいわ。私はお姉様にそっと囁くだけで、決めるのはお姉様だもの。だけど、もし気づいたのだとしても……すべて終わらせてあげる」
ルルリアの家は子爵家であり、それなりに位の高い貴族である。そのため、彼女たちには家庭教師がついた。姉につく家庭教師をルルリアは見極め、姉にイエスマンで褒めるばかりの者をつけさせる。
姉に道を示そうとした者は、姉を利用して辞めさせた。この人が気に入った、とルルリアが懐けば、姉は面白いように辞めさせてくれたのだ。それにルルリアは、わざと涙を流せばいいだけ。
彼女はとにかく、ルルリアが好きなものや持っているものを欲しがる。そして彼女から奪って、優越感を得るのだ。性格が悪い。そしてそれを利用して、自分に都合がいいように演技をする妹。血の繋がりを感じる。
有能そうな家庭教師には、ルルリアはひっそりとアピールをしておいた。健気な妹として振る舞い、わざと彼らの目に映る場所で、両親と姉の彼女への扱いを見せる。同情を引けたら、しめたものだった。
「ルルリア様は、本当にいいのですか。エンバース家でのあの扱いは…」
「いいのです、先生。私の力不足が原因なのですから。お母様もお父様も、いつか認めてくださると信じています。お姉様も、きっと…」
儚げに笑う幼子に、大人である彼の方が痛ましげだった。七歳になった彼女は、自室で勉学に励んでいた。ルルリアにとって嬉しい誤算だったのは、外を知ることができたことだ。エンバース家は、全て姉の味方だった。自分にとって敵しかいない環境だったのだ。
そこに入る外の人間も、美しい容姿と両親の愛情から姉を一番に見る者が多い。外面のいい姉と見比べ、妹であるルルリアを蔑む者だって多かった。それでも、少なからず自分を見てくれる人間がいることに気づいたのだ。その歓喜と、利用価値に。
「私、いつかエンバース家に認められるように頑張ります。先生も私なんかの教師になってしまって、申し訳ありません」
「自分をそのように卑下するものではありません。ルルリア様は、しっかりしています」
四十代で、息子もいる先生は、ルルリアにとって唯一の味方だった。情に厚く、知識も豊富で、そして発言力がない。ルルリアの現状に憂いても、進言することができないのだ。彼女にとっては、願ってもない人材だった。
彼はもともと姉の家庭教師だったのだが、有能だと判断したのでいつもの手を使おうとしたのだ。そうしたら、思っていた以上に優秀な人物だった。故にルルリアは、彼を自分の家庭教師にするために裏で好感度を上げ、姉や両親を利用しながら手に入れたのだ。それからは、特に姉に意識させないようにしている。
騙すことの罪悪感はあれど、別に彼を不幸にするつもりはない。表だって協力を願えば、彼も共犯者にしてしまう。だから少しだけ、無意識に協力してもらうのだ。彼女は一言も「助けて」とは言っていない。偽善だろうとなんだろうと、あげるというのだからもらうだけ。それを表に出さないだけだ。
「ありがとうございます。私、先生がいてくれてよかった」
「……私は何もできない無力な大人ですよ」
「そんなことはありません。先生の勉強はすごくわかりやすくて、先生がいなかったら私は何も知らなくて、外の世界を知らなかったと思います」
ルルリアの言葉に、先生と呼ばれた男性は悲しそうに眉を下げる。事実、ルルリアには力がなかった。彼への感謝も本心だ。知恵も強さも人望も自由も何もない小娘なのだ。それを本人が一番にわかっている。だからこそ、静かに力をつけるのだ。
そのためなら、このじくじくとする胸の痛みを、抑え込むことだってできた。
「先生、無理を言っているとわかっています。だけど、また外に出てみたいです」
「抜け出しているとばれたら、ご両親から叱られるかもしれませんよ」
「先生にもご迷惑をかけているのはわかっています。でもこの家で、私を気にかけてくれるのは先生だけです。私が抜け出したって、きっと誰も気づいてくれない。見つかったって、両親は私を叱ってくれるのでしょうか。心配……してくれるのでしょうか」
「…………」
泣き落とした味方のおかげで、ルルリアはエンバース家を脱走することが増えた。彼が辞めた後も、隠れて手引きをしてもらったことで、彼女の世界はまた広がったのだ。主のいなくなった部屋に、家族も使用人も誰も気づかない。それに彼女は、静かに泣き嗤った。
彼らに認めてもらうためだなんて嘘だ。信じているなんて微塵にも思っていない。それでも、先生に語ったいくつかの言葉は、心のどこかで願っていたのかもしれなかった。