その三
山の神 その三
一年が過ぎた。
秋祭が近づき、夜の月が満月になる頃、スバルは約束通り、わたしに会いに来てくれた。
シンと静かな暗闇の庭。玉垣の向こうに仄かな灯りが見えたのだ。
数日前から、スバルを待っていたわたしは急いで縁から降り、その灯りを目指して走った。
「スバル!」
手に灯りを持ったスバルが立っていた。
「やあ、山の神、一年ぶりだね。元気かい?」
「うん、元気だ!」
「そこから抜け出す気になった?」
「うん、今夜は大丈夫だ!」
わたしはスバルの手を借りて、玉垣をよじ昇り、前と同じようにスバルの手を繋いだまま、あの丘へ歩いた。
「今日は美味しいスープを作って来たんだ」
「すーぷ?」
「そう、コーンスープと言ってね。とうもろこしを潰してミルクと混ぜたものだよ」
「とうもろこし!知っている。黄色いつぶつぶが一杯ついた野菜だ。ミルクは…牛乳とも言うやつだな」
「これは驚いたな。一年の間に、山の神はずいぶん物知りになったんだね」
「うん。スバルがわたしにくれた本と辞書で文字を勉強して、巫に命じて、本をもらって、色々と読むようになった。特に食べ物の本はわかりやすくて好きだ。果物や野菜はおいしそうだしな。しかし、人間は牛や豚や鶏なども食べるらしいな。わたしは生き物は口にできないけれど、美味しいのか?」
「味を調えれば、なんでも美味しいけれど…肉を食べる神さまはあまり聞いたころがないから、山の神が食べられなくても仕方ないと言ったところかな」
「そうか…。興味はあるのだが…。まあ、山の神でなくなったら、いつか肉とやらも食べてみたいものだ」
スバルのくれた餡パンもコーンスープも美味しかった。
再びコーヒーにも挑戦したけれど、やはり苦くて全部は飲めなかった。
「スバルのような大人になったら、このコーヒーという苦い飲み物も美味しく感じるのだろうか?」
「そうだね。でも…山の神には、苦いと感じる今も忘れないで欲しい…と、思ったりもするけれど…ね」
そう言ってわたしを見るスバルは、どことなく寂しそうな顔をする。
なぜそんな顔をするのか、聞いてみたかったけれど、やめにした。大人になれば、それも理解できるかもしれない。
今のわたしは、スバルの全部を理解できるほど、利口ではないのだ。
「スバル。頼みがあるのだが、聞いてくれるか?」
「どんなことだい?」
小さくなった焚き木に木の枝をくべるスバルに、わたしは立ち上がって礼を正した。
「わたしはもうすぐ十一になる。来年の今頃は十二になる頃だ」
「そうだね」
「山の神は十二歳になったら、人間に戻れるそうだ。巫がそう言った」
「…」
「だから、人間になったら、スバルにわたしをさらって欲しいのだ。初めに会った時、わたしをさらいに来たと言っただろう?わたしが十二歳になって山の神じゃなくなったら、スバルに誘拐されたいのだ。そしてスバルと一緒に生きてみたいのだ」
「…その意味がわかっている?君はこの山…村を捨てるということだよ」
「わかっている。…山の神でなくなるということは、わたしはもうこの村には必要ないということなのだ。だからわたしは十二歳になったら自由な人間になれる」
「ねえ…君が山の神じゃなくなったら、誰が山の神になるんだい?」
「それは知らないけれど…たぶんとても幼い…誰かがわたしの代わりをするのだろう。わたしも山の神になった時のことは覚えておらぬほどに幼かったのだ。きっと次の山の神もまた幼い子供であろう」
「君は…それをどうも思わないのかい?君が育ったあの空間は、君にとって居心地が良かったかい?」
「…」
わたしはスバルが何を言いたいのかがわからなかった。
「良いとか悪いじゃない。わたしはこの村に山の神として必要だったのだ。居心地が良くなかろうと、神社で生きる事しか許されなかった。それが間違いだとは思いたくはない」
「山の神。怒らないで聞いてくれ。君のこれまでの生活は世間的に見たら、とても困惑してしまうことなんだ」
「こんわく?」
「そうだ。この世界の子供たちは…君ぐらいの子供なら、学校という社会で生きる為に必要なことや、生活していく知恵を学ぶ年頃だ。監禁とまではいかないだろうが、山の神と仰ぎ、無垢なままに育ち、話す相手や友達も与えず、社に縛り付けたまま成長した君を…今の生活に慣れた君を、いきなり自由にしてしまうこの村のシステムは異常だと言わざるを得ない。君は何も知らないだろうけれど…今までの山の神でなくなった後の子供たち…つまり十二歳になった子供の行方は…はっきりしていない。…行方不明なんだ。だから君のことも心配している」
「…」
スバルの話に、今度はわたしの方が困惑してしまう。
「だけど、今の君を見ていると、一概にこの村や神社の人々を責める気にはなれない。君はとても素直でいい子だからね。きっとこの山や村が君をこんなに豊かに育ててくれたのだろう。だから、僕は迷ってしまう。君をここからさらってしまうことが本当に君にとって正しいことなのか…」
「わたしは…スバルの言うことがよく理解できない。それはわたしが子供だからか?…わたしはこれまでのわたしを否定しようとは思わない。普通と違っていても、わたしは不幸ではない。そしてこれからも、わたしは少しも迷わないと思う。スバルと一緒に居たいと思うのは、人間としてのわたしの意志だ。だから…十二になって山の神ではなくなったら、わたしを迎えに来て欲しい」
「…」
スバルはしばらく考えた後、わたしの前で跪き、わたしの手を取った。
「約束するよ、山の神。来年、中秋の満月が沈んだら、僕は君を迎えに来る」
「うん、約束だ、スバル。絶対に絶対だ」
「約束のくちづけをしてもいいかい?」
「うん」
二度目のスバルとのくちづけは…とてもドキドキした。
身体が熱くなって、頭が真っ白になった。よろけたわたしは、スバルに抱き寄せられ、そのままずっと抱きしめられていた。
わたしは「夢のようだ」と言った。
スバルは笑った。
「それは僕の方だよ。君はまるで…天から舞い降りた清らかな神さまのようだね」
「そりゃそうだ。だってわたしは「山の神」だもの」
「そうだったね…では、これ以上君を刺激するのは止めにしよう。かわいい君を抱きしめていると、僕も混乱してしまうかもしれないからね」
「わたしはかわいいのか?」
「欲望を押し付けたいほどに、とてもね」
「その欲望とやらは…くちづけよりも甘いのか?」
「そうだね…。相手によるよ。それは山の神が人間になった時にでも、教えてあげよう」
「うん、絶対だ」
「…」
わたしの言葉にスバルは返事をせず、ふふと笑った。
それから朝方までわたしとスバルは星を見ながら話し込んでいた。
今度はわたしは眠ることもなく、スバルといる時間を大切に過ごすことが出来た。
帰り際、スバルと歩きながら、わたしは尋ねた。
「スバルは何故ここに来た?何故わたしをここから出してくれようとする?」
「今は…すべてを君には言えないけれど、僕はある使命を受けて旅をしている。君みたいな子を探す旅だ」
「わたしみたいな?」
「…誰にも言っちゃいけないよ、山の神」
「うん。どうせわたしには話す相手がいない」
「はは、そうだったな…。実は僕は魔法使いだ」
「まほう…つかい?」
「そう、大事な人を守る為に、特別な力を持った人間だよ。この力はね、人を守る為に使うべきものなんだけど、それはこの世界を守ることにもなるんだ。だから僕は…旅をして守るべきものを探している」
「わたしは守るべきものであったのか?」
「…そうだよ。その為に僕はここに来たんだから」
「そうか…」
喜びに胸が鳴った。
スバルがわたしを見つけてくれたことは、特別なことなのだ。
わたしは、嬉しくてなんども小さく飛び跳ねて歩いた。
別れ際、わたしは何度もスバルの名を呼んだ。
このままスバルと別れるのが、悲しくて、怖くて、たまらなくなった。
それでも昨年のように泣かなかったのは、少しは大人になったからだろうか。
「山の神の本当の名前、人としての名前はあるのかい?」
「ううん…ない。わたしは『山の神』以外の名前で呼ばれたことがない」
「じゃあ、新しい名前を考えなきゃね。君が神では無くなった時に、僕が君を呼ぶ言葉だ」
「そうか…そうだな!」
スバルがわたしを呼んでくれる名前…山の神ではない人としての…
なんて素晴らしいのだろう…。
わたしは嬉しくて仕方なかった。だから社から立ち去るスバルを、笑って見送ることができた。
わたしのこれからの一年間は、「山の神」として務めをこなすことと、人として呼ばれる「名前」を考えることに費やされるのだ。
スバルになんて呼ばれるのが相応しいのだろう…
スバルはわたしを何と呼びたいのだろう…
そのことを考えるだけで、わたしの胸が躍った。
ある本を読んでわたしの感情を言葉にできる単語を見つけた。
相手を想うだけで、口元が緩み、胸がきゅんと締めつけられ、心が舞い踊る気持ちに初めて出会うこと。
それを「初恋」と言う。