その二
山の神 その二
その夜、わたしはスバルという旅人とひとつの寝袋の中で、夜空に瞬く星空を眺めた。
スバルはひとつひとつ指を差し、わたしにたくさんの星の名前を教えてくれた。
今まで知らなかった何かを識ることが、こんなにも胸踊り、よろこびに満ち溢れるものなのか…と、わたしは興奮し続けながらスバルの話を聞いていた。
だが、わたしはいつのまにか眠ってしまったらしい。
…スバルに起こされたわたしはまどろみながら、社に戻る道を歩いた。
不思議なことに、どこに帰るのかを言わなくても、スバルは道を違えることなく、わたしを社まで送り届けてくれたのだ。
壊れた玉垣の入り口に着いた頃、ちょうど辺りは白み始めた。
社に戻った私は、玉垣の向こうでわたしに手を振るスバルを見つめた。
わたしの胸がきゅうと締め付けられるように、痛んだ。
わたしは…「山の神」に戻ったはずなのに、スバルと離れるのが寂しくて、たまらないのだ。
「スバル…」
わたしは彼の名前を呼んだ。
「なんだい?」
「また…会ってくれるか?」
「…ああ、もちろん。今夜もあの場所に居るつもりだから」
「ホント?」
「うん。だからそこから上手く抜け出しておいで。美味しいクッキーとお茶を用意するよ。それに君の知りたいことを、たくさん教えよう」
「…」
ああ、なんということだろう。
さっきまでの胸の痛みは、よろこびではちきれそうにドキドキしている。
山の神は自分の欲求など持ってはならぬ存在だと、言われ続けた。それなのに、わたしはわたしの好奇心に逆らう術を持てない。
まだ明けてもいない一日の始まりに、こんなに夜が来るのを願ってしまうのだ。
そんな自分が恥ずかしくなって、スバルに背を向け、急いで部屋に帰った。
汚れた足を拭き、寝衣を整え、しんとした寝室の寝台へ潜り込んだ。
朝が来て、巫がわたしを起こしに来た。
わたしはすでに着替えを整えていた。
これは今日に限ったことではない。
顔を洗い、朝餉を終え、いつもと変わらず、御勤めのために神社へ参る。
その途中、わたしは巫に自分の歳を問うた。
今夜、スバルにどうしてもこれだけは答えたいと思ったからだ。
案の定、巫は聞こえないふりをして、わたしの質問に答えなかった。
わたしは大声で怒鳴った。
小川を架かる橋の上だったから、他の神官にも聞こえたに違いない。
「自分の歳すらわからぬ者など、この世にいるのか?…まだ話せぬ赤子ぐらいだろう。自分の歳を識ることは、わたしが穢れると言うことなのか?それならばわたしは山の神として、それを正せばならない」
わたしの剣幕に動じたのだろうか。巫は小さな声で「山神さまは今度の満月で、十におなりでございます」と、言った。
…そうか、わたしは十歳。
この世に生まれて、十年の歳月を生きているのか…
それは新たなる実感だった。
御簾越しの格子戸から見る参拝する村人たちの顔が、何故だか昨日までと違って見える。
彼らの息遣いが、より鮮明に聞こえる気がした。
村人たちの願いや願いが叶った喜び、わたしを敬う心…そんな感情が、心地良く感じた。
わたしは変わったのだろうか?
自分の歳を知った所為?
それとも、スバルの所為なのだろうか…
わたしはもっと色々なことを知りたい。
スバルに教えてもらいたい。
その夜、わたしは社を抜け出した。
破れた玉垣は直されていたけれど、わたしは祭事に使う小刀で縄を解き、わたし一人が抜け出せる様に仕込み、そのまま昨日歩いた道を走った。
スバルに早く会いたかった。
わたしの歳を教えたかった。
今日見た村人たちの様子を話したかった。
なによりもスバルと一緒に寝転んで、スバルのあたたかい腕に抱かれたかった。
「スバルっ!」
昨日と同じ丘でスバルの姿を見つけた時、うれしさのあまり涙が出た。
それを見たスバルは笑った。
「どうして涙が出るのだろう?」と、わたしは訪ねた。
「山の神がとても純粋な人間の感情を持っているからだよ」と、彼は言った。
「そうか!わたしは生まれたばかりの赤子と同じなのだな」
「そうだね。新たなる君はこの世界を識る喜びを味わい続けることができるんだ」
そう言ってスバルは両腕でわたしを抱きあげた。
わたしは驚いた。
幼い頃ならまだしも、わたしは人に抱かれたことはなかった。
「空の星を見てごらん。少し近づいた気がしないかい?」
「うん、この手が届きそうに近い!」
「僕にも君にも、この星の数と同じくらい、知らない事は無数にあるんだ。だから…少しでも伸ばした手が近づくように、僕らは色々なことを学んでいくんだよ」
星を眺めるスバルの横顔に…わたしは見惚れた。
「スバルの顔って…キレイだね」
わたしの言葉にスバルはキョトンとした顔をした。
「はは…顔を褒められたのは初めてかも。褒めてくれるのは嬉しいけど…。君はまだ生まれたての山の神だから仕方ないね。世界には綺麗なものが沢山あるよ。もちろん僕よりも綺麗な人も山ほどね」
「…」
スバルよりもキレイな人がいるとは、信じられなかった。
スバルはわたしを降ろすと、あたためたミルクティーとナッツ入れのクッキーというお菓子をくれた。
どれも美味しかったけれど、スバルが傍にいて、色んな話をしてくれることが、何よりも楽しかった。
「スバル、わたしは今度の満月が来たら十歳になるそうだ」
「そうか、山の神は十歳になるのか…。」
「わたしは今まで知らなかった十年分の知識を知らなければならない。スバル、それをわたしに教えてくれないか?」
「…」
スバルは腕を組んで考え込んだ。
しばらくして、スバルはリュックから何冊かの本をわたしに差し出した。
「君はまだ本を読んだことがないと言ったね」
「うん」
「じゃあ、まず文字を覚えて、色んな本を読めるようにならなきゃならない。この世の中には色んな世界があり国があり、言葉も文字も多様にあるんだ。すべてを知ることは大変だけど、最初は住んでいるこの土地の言葉を文字にして読む必要がある。君はそれを学ばなきゃならないよ。この本で、文字を学び、そしてこちらの辞書でわからないことがあったら、調べて学ぶんだ」
「…スバルが教えてはくれないのか?」
「僕は僕のやらなくちゃならないことが、沢山あるからね」
「…わたしの傍にいてはくれない…ってことなのだな…」
わたしはとても悲しくなった。
またひとりぼっちになるのかと思うと、スバルに出会ったことは間違っていたのかもしれない…と、思った。
「巫の言うとおり…わたしはなにも知らないままに生きる方が…正しい生き方なのかもしれん。わたしは…唯一の『山の神』でしかないのだな…」
「…じゃあ、僕と一緒に来る?君が望むように僕はずっと君の傍に居て、君の知らないことを教えよう。そして君は今から自由だ」
「え?…スバルと一緒に?この村から…わたしを?」
「最初に言ったよ。僕は誘拐犯だって。君が望めば、『山の神』の君を奪い去り、今すぐに君をこの場所から、好きな場所、行きたい土地へ、連れ去ってあげられるよ。…どうする?」
「…」
スバルと一緒に…この山郷から離れ、もう村人の願いも聴く必要も無く、山の神の役目もすべて捨てて、自由に生きていくことができる…。
そんなこと…そんなことが…
本当にできるのなら…
わたしは…
翌日、わたしは熱を出した。
巫はあわてて御用医者を呼んでわたしの容体を診た。
わたしは軽い風邪を引いたらしい
「今日明日は、御勤めはお休みにいたしましょう。ゆっくりと御身体をご養生ください」
何も知らぬ巫は、甲斐甲斐しくわたしを看病した。
わたしは目を閉じ、昨夜のことを思った。
わたしは…スバルの申し出を断った。
この土地を捨て、山の神を捨て、色々なものを見たり、学んだりしたかった。
なにより、スバルと一緒にずっといたかった。
だけど、わたしには出来なかった。
わたしが今、ここを抜けだしたら…
「山の神」がこの村から居なくなったら、村人たちは一体何に祈ったらいい。
彼らの思いがある限り「山の神」はここに居なければならない。
わたしは…わたしの役目を放り出すわけにはいかない。
だけど、わたしは迷って…スバルの誘いを断るのが辛くて、泣いてしまったのだ。
スバルはわたしを慰めた。
「君はとても立派な『山の神』さまだ。僕は君を尊敬するよ。君の責任の強さは君を支えることができる。ね、また来るよ。来年、必ず…君に会いに来る」
「ほん…とう?」
「ああ、本当さ。僕は君がとても気に入ったんだ。だから君がその気になるまで、何度でも君を誘いに来よう」
「…」
「そして、君が『山の神』を辞めたいと思った時、君をさらいに来ようね。それまで元気でいてね、山の神」
「スバル…」
スバルはわたしを抱き、わたしの口唇にくちづけた。
コーヒーの苦い残り香が、わたしの口の中に広がったけれど、それは段々と甘い味に変わり、わたしは忘れることができなくなった。
「スバル、大好きだ」
わたしは泣いていた。
「僕もだよ、山の神…」
もっといい呼び名で、呼んで欲しいと…わたしは自分の名を恨んだ。