その一
「スバル」の続編でもあります。
良かったそちらもご覧ください。http://ncode.syosetu.com/n5921bp/
神社の御簾の向こう側の格子戸から眺める景色は、いつも同じだった。
手を合わせ、懸命に祈る村人の祈りは、わたしを驚かせたり、笑わせたり、困らせたりしながらも、尊いものにした。
村人たちは、わたしを崇め、こう呼んだ。
「山の神さま」と…
山の神 前編
社の前で幼い姉妹が懸命に祈りを捧げている。
「ねえ、姉さま。山の神さまってほんとうにこの祠にいらっしゃるの?」
「もちろんよ。ほら、格子の間からよく見てごらんなさい。淡い光の影がゆらゆらと見えるでしょ?あれが『山の神さま』よ」
「ふ~ん、…よくわかんないけど…山の神さま、早くお母さんの病気が良くなりますように…おねがいいたしますっ!」
幼い姉妹たちの姿は健気で美しかったけれど、願いは叶えられそうもなかった。あの子らの母の病は、わたしではどうにもならない。
山の神とて、万能ではないから…
夕刻が近づき、境内の鐘がひとつ響くと、巫がわたしを迎えに来る。
今日の御勤めは終わりだ。
山の神だけに許された社の扉から出て、小川に架けられた回廊を渡った先が、わたしの住まい処だ。
ここは許された僅かな世話人だけしか行き来できない神聖な場所だ。
わたしの記憶の許す限りに置いて、わたしはこの場所から出たことはない。
何時の頃からか「山の神」「山神さま」と、呼ばれ、「人」とは違う神聖な神さまだと崇められてきた。
この地域はほどほどに金が取れる山がある。だから、わたしの着る衣は金糸が多く使われ、重い。重いから動きにくく、疲れる。
巫に文句を言っても、頭を下げるだけで、応えない。
文句だけではなく、疑問や質問にもほとんど応えることはない。
と、言うか、ほとんど喋ってはくれない。
人間が山の神に言葉を吐いては、穢れると言うことらしい。
呆れたものだ。
呆れたものだが、わたしにはどうすることもできない。役目を果たすために、わたしはここに居るわけなのだから、皆が申す「山の神」として、生き続けるしかないわけだ。
本殿(わたしの住処)にはいくつかの部屋があったが、どれも簡素で慎ましく同じようなもので、目移りするものもない。
本殿を囲む庭は広く、走り回るのには良いが、ひとりで居るのはつまらない。
鞠付きなどして、隅で控える巫に、「一緒に鞠付きをしないか?」と、誘ってみるけれど、頭を下げるだけで、相手にならない。
仕方ないからこの庭からの逃亡を試みるが、玉垣が張り巡らされ、その向こうの鎮守の森の鬱蒼とした闇に足を踏み入れる勇気などない。
食事は朝と夕の二度。巫が運んだ御膳を頂く。
巫はわたしのお目付け役らしく、わたしと話したりすることはないが、わたしの具合が悪かったり、怪我をしたりすると、血相を変えて世話をする。
もちろんひたすら黙り込んで、である…。
余計喋らせたくて、色々と話を試みるが、巫は困った顔をして、指を口元に置く。
巫は、見た目から言えばかなりの年寄りのおばあさんだが、わたしには人間でいう母親のような存在ではないだろうか。
夏が暑かった所為か、村の作物の実りも、いつもの年よりも少なかったが餓える程ではない。水不足にも悩まされたが、不思議と皆がわたしに祈りを捧げると、天の恵みが降ってきた。
天気が好転すると、皆は、わたしのおかげだと、多くの貢物を捧げた。
勿論、わたしがそれを手にすることなどはない。
山の神は、なにかを欲しがったり、羨んだりしてはいけない神聖な存在なのだ。
と、言うか…皆は山の神であるわたしのおかげで、この村が守られていると言うが、天の気を変えられる何かを、わたしが持っているとは到底思えない。
天気と言うのは晴れたり、曇ったりするのが自然だろう。
言うなれば、良いも悪いも、おてんとうさま次第…なのじゃないのかな…
「山の神」と、讃えられても、わたしはちっとも嬉しいわけでもなく、社の神座に座って(たまに寝たりして)、拝殿で祈る人々を眺めていると、あっちの側に行って、好きな人と楽しそうに喋ったり、笑ったり、ケンカしたりしたいなあ~と、思う。
むしろ、そういう皆の様子を伺うことで、わたしは楽しませてもらっている気がする。
そういうわけで、わたしは世間から隔離された、ただの無知な者なのだ。
夜が長いのは辛い。
明るいうちに夕餉を頂き、湯に浸かり、寝衣を着て、暗くなる前に、寝台に就く。
わたしが寝るまでは、部屋の隅で巫が番をしているが、寝付いたのを確認すると、去っていく。
巫の存在には慣れてはいたが、時にはうっとうしくなる。さっさと居なくなって欲しい時はタヌキ寝入りをする。そして、やっとひとりになれる。
秋奉が近くなると、虫の声が一段と鳴り響く。
しかし、あれらの虫がどのようなものなのか、わたしは知らない。
巫はなにを聞いても教えてはくれない。
「山神さまがここにおられることが万事泰平なのです。なにも疑問に思うことはありません」と、言う。
わたしは寝台から降り、草履を履いて庭へ出た。
何日か前に嵐が通った時、玉垣の一部分が壊れた。うまく繋ぎを解けば、外へ出られるような気がした。
なんというか…山の神がこんなことを考えてはいけないのだが、一度だけでいいから、外へ行ってみたかった。
何日かすれば、壊れた玉垣も直されてしまうだろう。その前に、どうしても外へ出たかったのだ。
長い髪が枝に絡まないように、頭巾を被り、壊れた玉垣の隙間に身体をねじ込ませ、なんとか神社の外へ出ることができた。
月は半分よりももっと丸く、月光が夜の鎮守の森を照らし、思っていたより怖いものではなかった。
どこに繋がるかは知らなかったが、月の木漏れ日が描く足元の淡くぼやっとした光を追って、歩いた。
わたしは嬉しかった。何故だか涙が滲んだ。
神社を出たわたしは、もう「山の神」ではなく、ただの人間なのだ、と感じた。
明日になれば、また「山の神」に戻らなければならないだろう。
だから、この夜だけは、「山の神」以外の存在になりたい。
歩くのに慣れない足が少し痛んだが、気分は晴れやかだった。
そうしているうちに、どこからか、低い音色が聞こえてきた。
夜鳥の鳴き声だろうか…聞いたことも無い音色だ。
わたしは気になって、その音のする方へ走って行った。
息が切れるほど走ったところは、少しだけ開けた丘になっていた。
木の根っこに座った人影が居た。
音色が止まった。
その人影がこちらを向き、「こんばんは。君も月の光に導かれたのかな?」と、言った。
その声の韻は、普段聞く村人とは少しだけ違って聞こえたが、とてもあたたかかった。
わたしは黙ってその人の方へ近づいた。
暗い影になっていた人は、月の光に照らしだされるように向きを変えた。
見る限り、普通の男の人だった。
恰好は村人とは違っていたが、たまに神社に参拝する旅人と、あまり変わらない。
男は立ち上がり、小さくなった焚き木に木の枝をくべた。
「こっちにおいでよ。あったかいコーヒーがあるよ」
「…こ…ひ?」
「飲み物だよ。君はまだ子供だから、ミルクと砂糖を入れて甘くしてあげる」
「…」
警戒は、しなかった。
わたしはその男に薦められるまま、甘く香りの良い「コーヒー」と言う飲み物を飲んだ。
…甘かったけれど、なんとも苦くて半分も飲めなかった。
その男は笑い、「まだコーヒーは無理みたいだね。じゃあ、こちらのココアをお飲み」と、違う器を差し出した。
わたしは口の中の苦みから逃げ出したくて、その「ココア」という飲み物を飲んだ。
「おいしい…」思わず声が出た。
こんなに美味しいものを味わったのは、生まれて初めてだった。
「良かった。口に合ったみたいだね」
「…」
身体があったまったからか、色々な疑問が瞬く間に頭によぎった。それを口にしてもいいかわからなかったが、今、私は「山の神」ではないのだから、きっといいのだろう。
「お、おまえの鳴く声が聞こえた。一体なんの音だったのだ」
「ああ、これ?オカリナっていう楽器だよ。ここを吹くと音がなる。それを繋ぎ合わせるとメロディを奏でる」
「…メロディ?」
「吹いてみる?」
「いや、今はよい。それより…おまえはここでなにをしているのだ。ここは神聖なる山の神の鎮守の森だ。神官ならまだしも、その姿は…旅人だな?ならば、この地に留まる事は神官の許しがあってか」
「ないよ」
「…そ、それじゃあ、おまえは悪い人間なのか」
「そう…、実は僕、人さらいなんだ。君みたいな可愛い子供を誘拐してね。ほら、たまに聞くだろ?神隠し…ってね」
「…」
「なんてね。嘘だよ」
男はクスリと笑った。
嘘をつくことは悪い事じゃない。
現にわたしも、嘘をついてここにいるじゃないか。
だからわたしも嘘をついた。
「わたしは『山の神』だ。この山と村を守る神聖な者だ。…人間ではない」と。
その男は、掛けた眼鏡を外し、私を見つめた。
瞳の奥がわたしの嘘を見抜き、笑っているように思えて仕方ない。
「かわいい『山の神』さまだなあ~。じゃあ、君、幾つなの?」
「幾つ?…って何だ?」
「歳だよ。年齢。…え?神さまは自分の歳も知らないの?」
「…」
バカにされているようで悔しかったが、確かにわたしは自分が幾つかも知らなかった。
「僕は今年で22歳になる。色んな場所から星空を見る旅人だよ」
「…星空?」
「ああ。ほら、夜空を見上げてごらん。数多の星が輝いているだろう?」
「…うん」
「ほら、天に淡い光の橋がかかっているのが天の川。北に輝くのは北極星だ。それより目立つカシオペア…」
「…星に名前があるのか?」
「当然だよ。もちろん数が多いからすべての星に名前があるわけじゃないんだけどね。…すべて人間が付けた名前だよ」
「…」
「君の名前は?」
「…」
なんて答えればいいのか、わからなかった。
わたしは「山の神」としか、求められたことはない。
「や、山の神…って、皆が呼ぶ」
「そう、じゃあ、山の神。自分の歳ぐらいは知っておいた方がいいと思うよ」
「…聞いても、教えてくれない」
「本気で知りたいと思わなきゃ、教えてくれんさ。君はただの子供だもの。誤魔化しは大人の特技さ」
「…わたしはただの子供に見えるのか?」
「ああ、何も知らない男の子だ」
「…」
なんだろう。ただの子供でいられる不思議さと、わたしを畏れぬこの男のずうずうしさに戸惑っていた。
わたしは夜空を見ながら、胸を抑えた。
「どうした?」と、男が訪ねた。
「…なんだか…胸がドキドキしている。とても…ドキドキするんだ」
「好奇心が疼く…って奴だな」
「好奇心?」
「そう、君はただの人間ってことだ」
「そうか!」
わたしはうれしくなって草むらに寝転がった。
男もわたしの隣に横になった。
わたしは男の手を握りしめた。
ひとりじゃないと、確かめたかったのだ。
「おまえの名は?」と、わたしは男に尋ねた。
「ほら、東に光るあの星が僕の名前だよ。スバル…って言うんだ」
「…ス、バル…」
口にした言葉が辺りに余韻を残した。
それだけでは足りず、わたしは頭の中で何度も繰り返した。
「スバル…スバル…」
なんて、うつくしい響きなのだろう。
わたしはその男が羨ましくて、たまらなくなった。