これが商売の基本
今日の講義は難しいなあと思っているのは、フレイだけではないらしい。ソフィーも含め他の聴講生も顔つきが渋い。新しい勘定科目が入ってきて覚えなければいけないからという部分、そして借入と在庫の仕入れという部分の二つが同時進行で進んでいるからだろう。
それに気づいたのか、マレットはここで一息置いた。
「ウォルファート様が急に新しいことを始めたので難しいな、と感じる方もいらっしゃると思います。一旦整理しましょうか。一つは、お店を始める為の借入金の発生と返済です。この仕訳はこれから書きますから大丈夫です。もう一つは、商売を始める為の在庫の仕入れですね」
マレットが全員の理解を確かめるように一息置いた。
「では、借入から返済までの仕訳を書いてみますから。ばらばらに書くよりその方がわかりやすいでしょう」
黒板に記される仕訳。借入時と書かれた仕訳は
現金 3,000 / 借入金 3,000
一年経過後の返済時と書かれた仕訳は
借入金 3,000、支払利息 150 / 現金 3,150
だった。
フレイは思考する。最初の借入時の仕訳は一度理解したから問題ない。問題は返済時の仕訳か。元本だけじゃなく時間が経過したから利息の支払いが発生したのだけど、支払利息は負債? 費用?
「借入時に発生した負債を返済するので、右側にくるのはまずは借入金になります。借入→返済と通して見れば、これで借入金は0になりますね」
まず借入時に右側に借入金が発生して、それが返済時に左側に移動する形で借入金が計上されるからである。
フレイは集中して聞く。
「返済の為にお金が減るので、資産である現金を右側に記入します。金額は元本と支払利息の合計で3,150グランです。ここまで仕訳を作ると、利息の支払いのための150に相当する分を左側に記入する必要があることが分かります」
(んー、そうだよな。利息だけ考えるなら ? 150 / 現金 150 だもんな)
マレットの説明を聞いているうちにフレイの理解は深まった。両方払っているから右側に現金 3,150となっているが、より正解に書くなら現金3,000、現金150ということだ。
「利息の発生は費用にあたります。そのため費用の勘定科目として支払利息を左側に記入するんですね」
支払利息=費用か。フレイはペンを走らせながら、その文字を脳裏に刷り込む。
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講義は続く。とりあえず借入金の発生から支払までは終えた。次は商売の方だ。まずマレットは黒板に向かって何やら図を描いた。
商売の流れ:
仕入れ→支払と売上→売上回収
「既にご存知の方もいると思いますが、実際に商売するとこの取引の循環が連続します。まず在庫が無いと商売にならないので仕入れを行う。仕入れをしたら業者にその代金を支払う、そして仕入れた在庫は販売します。販売すると売上につながります。売上をしてもいつも現金で払ってくれる訳ではないので、売ってしばらくしてから売上回収、つまり実際にお客からお金をもらいます」
商売の基本の基本である。しかし、この基礎が分かっていないと仕訳だけ説明しても何が何だか分からないため、あえてマレットはここから始めた。
実際に簿記を駆使して帳簿をつけ始めると、圧倒的にこの仕入から売上回収までの仕訳を記入する回数が多いのだ。一度覚えてしまえば楽だが、だからこそ重要であり説明に時間をかけておきたかった。
そして彼女の推測通り、フレイなどはポカンと聞いている。日常生活の中で"あの店は売上が良い"などの通り文句を耳にすることはあるが、商売の流れを一連の流れで覚える機会など通常の生活をしていれば無い。
簿記の本当の価値は商いに関する全ての取引を仕訳を通して理解することにこそある、とマレットは昔読んだ教科書に書かれた内容を思い出していた。
そのため仕訳も一気に四つ同時に書く。バラバラの方が難しいのだ。
仕入 =在庫 500 / 買掛金 500
支払=買掛金 500 / 現金 500
売上= 売掛金 800 / 売上 800、売上原価 500 / 在庫 500
売上回収=現金 800 / 売掛金 800
一方、フレイの方はいっぱいいっぱいであった。特に、売上のところで二つ同時に仕訳が発生したのが分からない。
「仕入の説明はしましたので、支払から説明いたします。先ほどの借入金の支払とほぼ同じですね。在庫を買ってから支払期日までに実際にお金を払い、その結果買掛金を0にします」
仕入れた時に買掛金は右に書いた。これが支払時には左にくるからトータルで0になるわけだ。
「売上の説明の前に、ウォルファート様はこの一個500グランで買った在庫を一個800グランで売ったということを覚えていてくださいね。売上には、資産として持っている在庫の減少と販売金額分の売上分だけ資産が増えるという二つの意味があります」
あー、だから仕訳が二つあるのか?
フレイは目から鱗が落ちる思いだった。どうしても売上というと販売金額にしか目がいかないが、売る側の立場から見れば商品である在庫がその分減ることでもあるのだ。
「売掛金とは後で客がお金を払うということです。資産にあたります。そして販売した時の実績は、売上という勘定科目で管理します。通常売上は右側に表れます」
「そして店から出ていった在庫がありますから、これを右側に書きます。反対の左側には売上原価という勘定科目を使います」
連続したマレットの説明が終わった瞬間、フレイは手を挙げた。
「すいません、前に資産の減少や負債の増加は費用を左側に書いて仕訳を作ると聞きました。今回、資産である在庫が減ったなら売上原価という勘定科目も費用に当たるのですか?」
「大きなくくりでは費用に近いですね。ただ、物の仕入から売上までの商売の基本となる取引の中では利益の代わりに売上、費用の代わりに売上原価という勘定科目を使うんです。売上は多ければ多いほど良く、売上原価は低ければ良いです。そこは利益及び費用と同じです」
売上は利益に意味としては近い。
売上原価は費用に意味としては近い。
ただし、商売の基本となる仕入~売上の部分からどの程度プラスかマイナスが出ているかを後で確認するために、勘定科目はわざわざ専用のものを使う。
フレイだけではなく講座の聴講生全員に、マレットはそう説明した。
「そして売上から売上原価を引いた金額を売上粗利益、俗に粗利と言います。その商売からの大雑把な利益を示す金額です」
今回の場合なら売上800マイナス売上原価500で300が売上粗利益だ。ウォルファートにとってはぼろ儲けに見える。だが、実際にはここから店の運営費用や使用人の給与などを引いて最終的な利益を計算するのだ。それがあるので粗利の段階で結構稼いでいないとまずい。
「最後に売上の回収ですね。資産である売掛金が減るので右側に記入して、左側には客が実際に現金を払うので、現金を記入します。商売で重要なのは販売した! で満足するのではなく、実際に売掛金を現金として回収するところまで終わらせることです」
「何故ですか?」とソフィーが質問する。紫色の目が好奇心からきらきらしていた。
「現金にならなければ使い道が無いですし、悪質なお客ならそのまま夜逃げしてしまったりすることもあります」
「え!? その場合は売掛金はどうなるんですか?」
「現金にならないという事態ですから、この場合は売掛金を減らして貸倒れ損失という費用で表します。これは今日は仕訳は書きませんけどね」
恐ろしい話である。要は現金にしない限り安心してはいけないのだ。売掛金をいくら持っていても、客が逃亡しないまでも死んだりすれば回収不能になるのだから。
(しかし、こんなに商売に力を入れていた勇者なんていたのかな)
今日の授業内容は重要だったと思いつつも、フレイは首を捻った。簿記の講座用に少しアレンジされているのかもしれないが、魔物を退治する話など全然出てこない。魔王との戦いは実は経済戦争だったのかもしれないなどと考えている内に講義は終わった。
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「フレイ、帰る?」
「いや、ちょっと先生に用がある」
ソフィーに呼びかけられたものの、つれない態度を取るフレイであったが理由がある。昼間に通うつもりの簿記の私塾の候補、それをマレットから教えてもらう約束なのだ。
「お疲れさまでした。フレイさん、この前の約束のもの持ってきましたよ」
「ありがとうございます。じゃ、ソフィー。気をつけて帰るんだぞ」
「えー......分かったわ、さようなら。またね」
一人除け者にされた形で教室を去るソフィー。仲間外れにされたようで悲しいが、何やら二人は重要な話があるようなので邪魔は出来ない。
(マレットさん美人だからなー。でも負けない!)
自分でもはっきりした理由が分からないままギュッと拳を固め、ソフィーは家路に着くのであった。