マレットの夏休み 3
のんびりした風景にのんびりと流れる時間。自分の好きなことだけをしていればいいという素晴らしさ。
"たまにはこんなご褒美があってもいいかしら"
マレットは心底この休暇を満喫していた。家事は苦にしない方だが、それでも日常生活の為のルーティンが面倒になる瞬間はある。ブライアンが連れて来た二人の召し使いが炊事から洗濯、給仕までしてくれるというこの状況は、確かに有り難かった。
一昨日は、夕方にコテージに移動して夕飯をとり休んだだけ。二日目は、波打際を歩いたりちょっと乗馬してみたりと近場で楽しんだあと、日差しの強い時間には木陰で読書して過ごしたりした。二日間とも、取り立てて特別なことをしたわけでは無かった。
それでも仕事から切り離されたこの機会はとても優しく、まさにマレットの体に染み渡るようであった。
「ブライアンさん、リーズガルデさん。ありがとうございます」
マレットが二人に声をかける。だがバシャンと船を叩く波の音と歓声のせいで、それは二人の耳にはよく聞こえなかったようだ。
「ごめん、何か言いましたか?」
振り返ったブライアンがマレットを見た。波の揺れのせいで不安定な足場を気にしながら、マレットは「いえ、特に」と答えた。二度言うのが照れ臭かったのもあるし、それに何よりも。
「きゃー、凄い! 綺麗なジャンプ!」
「高いなー、イルカ凄いね!」
船の乗客から歓声が上がる。その中には、リーズガルデの姿もあった。
今、マレット達が乗っているのは10人ばかりが乗り込める船だが、それを曳いているのは何とイルカだ。パドアールでは海を自由に泳ぐイルカを魅了の魔法をこめた笛で捕まえ、船を曳く労働力として飼い馴らしている。マレットが聞いた時には"そんなこと出来るのかしら"と疑った。けれどもこうして目の当たりにすると、その可愛さと豪快さは圧巻だ。
青とグレーの中間色のような皮膚が、海面から覗く。ストンとしたフォルムのイルカは「キュー」と鳴きながら船を曳き、時折船頭から餌を貰う。その餌を貰った時のお辞儀をするような仕草が可愛らしく、女性や子供は喜んでいた。
全部で六頭のイルカ達、それに曳かれて観光船は海を行く。
「ねえ、見て見て! あの子こっちを向いたわ!」
「ああうんそうだね、きっとそうだよ」
「何その冷めた反応っ。絶対見たんだからっ!」
はしゃぐリーズガルデが、ブライアンのおざなりな反応にムキになる。これはリーズガルデが子供なのか、ブライアンが大人なのか判断が難しいところだ。
パシャアンと一際高い音を立てて、イルカの一頭が跳ねた。水面から弾きあげられる飛沫は陽光に虹色に輝き、その向こうには一面に青い海が広がる。
「イルカって、あんなに高くジャンプ出来るんですね」
「普段から練習しとるからね。お嬢さん、小魚やってみるかい? きっと喜ぶよ」
マレットの独り言に、たまたま側にいた船頭が愛想よく応じる。彼が差し出したバケツの中の餌用の小魚を手にとると、ぬるりとした感触がマレットの右手に乗った。
"上手く食べてくれるかしら"
落下防止の為の船の冊に捕まりながら、海面から時折覗くイルカの背中を見た。空中に放ればキャッチしてくれるというが、ほんとに出来たら凄いことだ。数秒躊躇ってから、マレットはぽーんとやや高めに小魚をほうり投げた。
イルカの体格からすると一口の何分の一かの小魚、それを海面下から見事に捕捉したらしい。バシャリ! と青灰色の体をくねらせて、一匹のイルカがジャンプして口にくわえた。
「凄い!」
「お手の物ですよ」
目を丸くして驚くマレットに、船頭が声をかけた。キューという鳴き声が響く。派手に着水したイルカはまた船の前に泳ぎ、先導するための綱を引っ張る。ザブザブと白い波が立ち、それに合わせるかのように船が進む様子に、何人かの子供が歓声を上げる。
「イルカに船を引っ張ってもらうなんて、予想もしなかったわね」
「ええ、パドアールに来てから話だけは聞いてましたが、体験するのは初めてです」
満足そうに話しかけてくるリーズガルデに、マレットは嬉しそうに答える。事実、船を曳く仕事をしながらも、楽しそうにジャンプしたり泳いだりしているイルカの可愛さは微笑ましい。マレットは自然に笑顔になっていた。
「おーい、そろそろこの船、岸に寄せるってさ」
「あら、もう終わり? 早いわねえ」
ブライアンがその蜂蜜色の髪を潮風になぶらせながら言うと、リーズガルデはちょっと残念そうな様子を見せた。だが、マレットにとってはもう十分だった。これほどイルカに曳かれる船が楽しいものだとは、思っていなかったのだ。
"ありがとう、イルカさん。また遊べたらいいですね"
マレットの心の声が聞こえたわけでもないだろうが、イルカの一頭が「キュキュッ」と鳴いた。さきほどマレットから小魚をもらったイルカだ、と気づいた時には、船は陸に向けてその進路を変え始めていた。
******
「あっという間だったわねー、もっとお休み出来たらいいのに」
「あんまり無茶言うなよ、リーズ」
馬車の中で、ブライアンがリーズガルデをたしなめる。四人掛けの箱型の馬車に、ハイベルク伯爵夫妻とマレットが向かい合わせに座る格好だ。落ちつつある日の赤が眩しく、マレットは馬車の日除けを下ろしながら二人に微笑んだ。
「そうですね。でもとっても楽しかったです。ブライアンさんとリーズガルデさんとお話出来て、それに一人では中々出来ないことが楽しめて」
カタカタと馬車が揺れる。だがその振動は、海からパドアールの市街地への街道が整備されているからか、大きくはない。たった二泊三日ではあるが、行く前と今では気分が全然違うことにマレットは驚いていた。馬車の揺れに合わせて、心も弾むようである。
「確かに短い期間でしたけど、ゆっくりさせてもらいましたから」
「潮騒は精神をリラックスさせるらしいし、良かったかもしれないですね」
マレットに物知り顔でブライアンが頷くと、リーズガルデが「え、そんなの初耳よ? ほんと?」と目を丸くした。
「一般論だけどね、波の音の波長というのが、人に好影響を及ぼすらしいんだ」
「へえ、確かに波打際にいると気持ちいいけど、それのことなのかしら?」
「そうかもしれません。夜、潮騒を聞きながらベッドから海に映る月を見ていると、何だかとても優しい気分になれましたし」
ブライアンの説明に、リーズガルデが納得したように頷く。それに相槌を打ち、マレットは二人を見ながら話し始めた。馬車はポコポコと軽快に西日の中を進んでいく。
「昨夜なんですけど、午後お昼寝したせいか何だか寝付けなくて。窓から外を見ていたら、そういう風景が見えたんです。夜の海って昼間と違うなあとか、海に写る月が綺麗だなあとか考えてたら、すごく落ち着いたんですよね」
マレットは話しながら、窓の外に視線を移した。今は遠くなりつつある海岸線だがまだ視界に入っており、夕日を浴びて赤く染まる姿が見えた。まだ海の青は太陽の赤に侵食されきってはおらず、鮮やかな色彩が目に染みる。
つられたように、ブライアンもリーズガルデも窓の外を見る。昨日も一昨日も夕焼け時の海は見ていたが、今こうして馬車の窓枠を通して見てみると、箱庭のような非現実感があった。
「普段、内陸で暮らしてるから分からないけど、海って不思議なのね」
ぽつりと呟くように、リーズガルデが言う。その赤毛は西日を浴びて一層艶やかに見えた。隣に座るブライアンが、軽く頷いて同意する。
「海図もない場所の方が多いらしいしな。我々人間は、海のほんの一部を借りて陸地に住んでいるだけかもしれないよ」
「ブライアンさんて面白いこと考えますね、私そんなこと思いつきませんでした」
マレットが視線を向けると、ブライアンは少しこそばゆいような顔になる。
「これでも昔、世界の果てまで探検したいと思ってた時期がありましてね。時々考えてしまうんです、人の知る領域って狭いんだろうなあとか」
「貴方ってたまに詩的なこと言うわよね。お堅い役人なのに、心は詩人?」
「少年の心って大事だろ?」
リーズガルデの指摘に対し、ブライアンが苦笑しながら答える。夫婦の息の合った会話に、ふとマレットはフレイの顔を改めて思い出した。彼は元気にしているだろうか。今この時も勉学に勤しんでいる恋人を思うと、少し胸が痛い。
「あの、ご旅行から戻られたら、フレイさんに伝えてもらっていいですか?」
ん、という感じで、ブライアンとリーズガルデがマレットに向き合う。一旦息を整えてから、マレットは口を開いた。
「私は元気にしていますから、フレイさんが会計士試験受かることを信じています、と」
「それだけでいいの? 他には?」
リーズガルデの確認に、マレットは首を横に振って否定の意を示した。いつも思っていることではある。だがこうして休暇で心身ともリフレッシュした後で言うと、また真剣さが違う気がする。体がしゃんとすると、気力もまた違うのだ。
「離れててもお互いに頑張れること、私知っていますから。だから......それだけで十分です」
******
次の朝、マレットは早い時間に目覚めた。昨日までと違い、パドアールの自分の部屋には、潮騒は聞こえてこない。ただこんな早朝であっても、人々の日々の営みの気配が耳に飛び込んでくる。
それは、朝早くから屋台を押して仕事にかかる商人のざわめきだったり。
「おはよう」と朝の挨拶を交わす散歩中の老人同士の、密やかな声だったり。
夜勤明けのしょぼついた目を瞬かせつつ我が家に帰る工員の、大きなあくびだったりするのだろう。
「よし」と自分に気合いを入れて、マレットはベッドから起き上がった。カーテンを開ける、夏の光が視界を明るく染める。その生命力に溢れた白さと熱が、マレットの眠気の残滓を払った。
「おはようございます、マレットさん」
「おはようございます。お休みありがとうございました」
職員に挨拶しながら、マレットは自分の机に積まれた書類の数を目で見積もった。通常の出勤日は一日休んだだけなので、さほど多くはない。休み明けの慣らし運転にはちょうどいい、と思いながら全ての職員に声をかける。
「なんだかマレットさん生き生きしてますね。良いお休みだったんですか?」
声をかけてきた女性職員に、マレットは振り向いた。
「ええ、とても充実したお休みでしたよ」
「三日間なのにですか? もう少し休まれてもよかったのでは」
「いえ、たくさん非日常を経験させてもらえたので、もう十分です」
首を傾げる職員に笑顔を返し、自分の椅子に腰を下ろす。職場を見渡しながら、マレットは愛用のペンをとった。最初の書類に取り掛かろうとした時、ふと悪戯心が働き、傍らのメモに走り書きする
"いつかフレイさんと海に行けますように"
マレットらしい几帳面な文字の横には、小さなイルカの絵が添えられていた。
~Fin~
これで「ファンタジー世界で学ぶ簿記!」は完結です。ありがとうございました。