時にはその手に武器を持ち 1
夏が近づいてきたな、と空を見上げながら、フレイは思った。
青い空は白い雲をところどころに従え、どこまでも広がっている。遠く地平線に目をやった。緑色の塊となった木々が、空の存在感に抵抗するように立っている。
深く息を吸う。熱されかけた空気が肺に忍び込み、嫌でも季節を感じさせた。
「のんびりしたもんだ」
「定期巡回なんでしょ? 何事も無いといいわね」
フレイの呟きに反応したのか、背後から声がした。振り返らなくても、それは金髪の少女が発したものだと分かる。
「まあ、何の異常も無いのを確かめるための定期巡回だしなあ。だからソフィー、お前まで武装しなくてもよかったんじゃないか?」
「それはそれよ。魔物のいる領域に踏み込むんだもん、非武装なんて不安だし。いくら私が非戦闘員だといってもね」
フレイは歩きながらちらりと背後を振り返った。その目に映ったのは、実用一本槍の革製の服に身を包み、マントを羽織ったソフィーの姿だ。簿記講座に通っていた頃のスカート姿ではなく、行動しやすい隙の無いパンツルックである。
その背から覗くごついクロスボウ(機械仕掛けで矢を飛ばす弓だ)が本気を感じさせ、フレイは改めて気を引き締めた。そう、いかに自分達が危険に晒される可能性が低いとはいえ、ここは王都ではない。守護の要の城壁は無い。魔物が出没すれば、自分の身は自分で守るしかないのだ。
(とは言え、先輩方も必要以上には警戒はしてねえから、そこは適度にだな)
緊張とリラックスの割合を己の心で計りながら、フレイはもう一度空を見上げた。夏を迎えつつある空は、突き抜けるように高い。血生臭さなど、どこにも感じさせない青であった。
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シュレイオーネ王国会計府が管轄する会計士試験に見事合格した後、フレイが選んだ就職先は、冒険者ギルドの主計課であった。通常の経理業務はそこまで多く無いが、ギルドの利用状況の報告書の作成や管理体制の構築も担当する部署である。
勿論、いかに会計士試験合格者とはいえ、一年目のフレイがバリバリ働けるわけではない。日々先輩方の愛の鞭を受けながら、彼は毎日を過ごしていた。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい......あら、私も出勤しなきゃ」
フレイとマレットは今は同居している。パドアールからマレットが戻ってきてからだ。まだ結婚こそしていないが、ぼちぼちそんな話題も二人の間に出始めた同居生活は四ヶ月目を迎えた。その間にフレイは一つ歳を取り二十歳になった。マレットは二十六歳、確かに年齢的には結婚が現実味を帯び――というより若干適齢期を過ぎたが、それについてはマレットは何も言わない。
そんな忙しくも公私共充実した日々の中、一つの特殊な仕事にフレイは駆り出されることになったのだ。
定期巡回。
冒険者ギルドでは、年三回行う大規模な魔物捜索及び掃討行動をそう呼んでいる。
冒険者ギルドに勤務している職員から数名を選出し、同時に冒険者のパーティーと組ませる。この総数十数名の集団が担当となる。彼らは二週間ほど王都から外に出て、魔物の掃討を行うのだ。
"職員たる者、自らが仕事をしている相手が誰なのか身を持って知る必要がある"という狙いに加え、"平和ボケしないように"という意図もこの定期巡回にはこめられていた。
そして今回、職員となって三ヶ月目のフレイが、ギルドからの選抜メンバーの一人として選ばれたというわけだ。
冒険者ギルドの職員が戦うことが出来るのか? という疑問もあろうが、そもそも昔は冒険者だった人間が足を洗って職員になっている場合が多い。加えて日常的に荒くれ者が多い冒険者を相手にする為、最低限の舐められない程度の戦闘能力や技術は必須とされている。
今回フレイと共に選ばれた職員は他に六名。全員レベル10から18の間だ。中級の下くらいの域にあり、冒険者全体でもそれなりと言える。フレイのレベルは7なので最下位だ。それでも自前の装備が飛び抜けているので、いざという時には前衛で十分戦える。
そして何故、このような物騒な行事にソフィーが共にいるのかというと。
「定期巡回にアンクレス商会が食糧や消耗品納めてるからって、わざわざお目付け役ねえ」
「文句あるの、フレイ? アンクレス商会が納品した物資の行く末を見届けようって目的プラス私の現場研修よ。立派に理由があるじゃない」
ふーん、とフレイはソフィーの言葉を受け流す。背後からは
「会計府に勤める美人と同棲しているだけでは飽きたらず、更に手を広げ......」
「いや、あれはそういう関係じゃないだろう」
というヒソヒソ話が、なぜかヒソヒソ話なのにしっかり聞こえてくる。それでも、フレイもソフィーもそんな事は気にしない。ソフィーが二年前の秋にフレイをぶん殴ってからしばらく絶縁状態が続いたが、去年の夏頃に何となく仲直りしたのだ。
勿論フレイにはマレットという恋人がいるため、仲直りといっても色恋は全く関係ない仲である。出会った当初のような気兼ねなく話せる仲に戻っただけだ。気まずくないのが一番というのが、二人の共通認識だった。
「......おう、ところでお前、社交界デビューするってほんとかよ」
少し歩調を緩めながら、フレイはソフィーに話しかけた。ここ一年でめっきり女らしさを増した17歳の美少女は、目だけをフレイに向けて答える。
「ええ。もうアンクレス商会に戻って半年経って、お父様も認めてくれたみたいだから。一人前の淑女としてパーティーにも参加して良くなったのよ」
フワリと下草を飛び越えてから、ソフィーは自然に答えた。その口調には、下積みから自分を鍛えてきた確固たる自信が溢れる。簿記講座に通っていた頃の、不安げな夢見る少女の面影はどこにも無い。
「まあリーズ姉も太鼓判押してたしなあ。頑張っていい男見つけなよ」
「少なくともフレイよりはいい人見つけるから、楽しみにしててね」
かって自分が振った形になった女からそう言われ、フレイは気まずそうに頭をかくしかなく、ソフィーは笑って「冗談よ、気にしすぎ」とその肩を叩いた。
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定期巡回が大規模な魔物掃討作戦とは言っても、凡そ50年前に勇者ウォルファートが大魔王アウズーラを倒してからは組織だった魔物の集団による事件は激減した。0では無いものの、よほど危険な魔物生息区域に踏み込まなければ、ドラゴン級の大物にも出会わない。
そのため定期巡回の主な掃討対象となる魔物は、比較的人里に近い森や渓谷に出没し、放置していては危険な魔物である。そして今では、これらの魔物の数もさほど多くは無い。仮にいたとしても、こちらが10人以上いるのを確認すると逃げ出す場合も多かった。
「ちっ、退屈なもんだ」
「まあそう言うなって。安全一番、命が大事!」
「けど金も手に入らねえし、何よりレベルも上がらないときちゃ、ぼやきたくもなるだろ?」
一行の先頭を行く冒険者パーティーの二人が話す声が、風に乗ってフレイに聞こえてくる。ぼやいている屈強な長身の男がディル、なだめる小柄な飄々とした男がロイドという名だ。ハーフプレートと戦斧でパーティーの重戦車となるディル、短剣を主な武器として先制攻撃や撹乱を狙うロイドの二人のコンビネーションは抜群だった。
既に最初の一週間を無難にこなし、何グループかの魔物の群れを退治してきた。どの戦いでも、まずロイドが敏捷性を駆使して切りかかり、敵の注意を引き付ける。その間にディルが近づき、接近戦に持ち込む。
正直、ロイドの短剣では大型の魔物にはほとんど効果が無いが、人間サイズくらいの魔物には十分彼でも殺傷力はある。故に警戒するが、本命は膂力を存分に生かすディルだ。
小回りは利かないが、突進力と破壊力に優れるディルの戦斧の一撃が決まれば、大抵の敵は揺らぐか倒れる。
二人の活躍がうまくはまれば、人間サイズの魔物ならかなりの敵でも倒せる。口だけではなく、周囲を黙らせるだけの実績も上げてきた。そんな二人のレベルは20台半ば。他の三人のレベルも同程度という中々の実力派のパーティーである。
「あの人らには退屈かもね」
「そうね、この一週間で戦闘は八回、しかもいずれも圧倒的。こんな楽な戦いでは、得られるお金も経験値もしれてるし」
フレイは半ば同情しているが、ソフィーはそうでもないようだ。大抵の定期巡回は楽で見入りが少ないものだ、と言うのは冒険者なら常識だ。文句を言うのはお門違いである。
物資のお目付け役としてついて来ている為、ソフィーもほとんど戦闘の機会は無く、一度矢を放っただけだ。フレイでさえ実際に剣を振るったのは二戦だけで、しかも相手は弱い豚頭の獣人オーク。正直本気になる機会は無かった。
「そろそろマレットさんの顔が見たくなったんじゃないの?」
最低限の警戒だけはしながら、ソフィーはフレイに聞いた。心の中にわだかまりは全く無く、人の心というものは変わるものだと驚きながら。
「そうでもないかなあ。ほら、俺達一年遠距離してたからさ。その経験があるから、一週間くらい別にね」
和やかな顔で答えたフレイに気負いはなさそうだった。実際早く戻れたらいいな、と思う半面、無事に帰れれば良しとこの普段とは違う仕事を楽しんでいる。お互いを信用しているから、多少会えないくらいは特に気にならなかった。
「ごちそうさま」
「へ? なんで? 俺別にのろけてないけど」
「その顔よ。なんて言うか、いまさら焦らなくても大丈夫という自信が滲み出てたから」
肩をすくめながら、ソフィーは横目でフレイを睨んだ。二年前に比べると切羽詰まった感が薄まり、余裕がある。その様子だけ見ても、フレイは確かに成長しているのだと思う。
(いい恋で人はこうも変わるのかしら)
拉致もない考えを、ソフィーは頭から追い出した。一応魔物の生息領域なのだ。不要な考えごとはほどほどにしておく。他の冒険者達やギルド職員も雑談はしているが、最低限の警戒は解いてはいない。
緊張と弛緩が混じり合う、初夏のぬるい空気。その日はそれがしばらく続いた。
今日という一日はこのまま終わるかと思われたが、得てして変異とは、そんな平穏な時を破って発生するものである。
そろそろ日差しに黄色味が増し、夕刻になろうかという頃だった。陽射しに辟易しながら、ロイドは顔をしかめた。どうもさっきから空気がきな臭い。
「おい、ロイド。どうした?」
すぐ横を並んで歩くディルがロイドに声をかける。相棒の表情が変わったことに気がついたのだ。
それには答えず、ロイドはすっと先頭から下がった。隊の半ばにいる今回の定期巡回の責任者たるスフィロス(彼は冒険者ギルドの職員のリーダーだ)に近づく。
「......何か」
スフィロスが囁くように声をかけた。痩せた長身を灰色のローブで包む彼は、その外見通り魔術師である。
ロイドがスフィロスに話しかけたのを見て、他の職員らの表情が僅かに変わった。ロイドは勘の鋭さから先頭で索敵を担当しているのだ。そんな彼がわざわざ後退して話しかけてくるのは、すなわち異常の発生に他ならない。
「空気に血の匂いがする。左前方の方だ」
低い声でロイドが告げた。ここら一体は木立の密度が低い林になっており、見晴らしも空気の流れも悪くない。だから彼が気づくことが出来たのだ。
「わかった。ありがとう。全体左側に進路を取れ! 念のため警戒!」
スフィロスの号令が一行を駆け抜けた。さっきまでの緩い雰囲気は霧散していた。
「......ソフィー、構えてろ」
「了解」
バスタードソード+5の柄に手をやりながらのフレイの言葉に、ソフィーは低い声で答える。背中から抜き取ったクロスボウに矢筒をガチャリと装着しながら、心持ちフレイの背後に位置を取った。
足元に気を配りながら慎重に進む。一行が顔をしかめ息を飲んだのは僅か二分後。木々がたまたまにか切り開かれた場所、そこには無惨に打ち捨てられた二匹の巨大な熊の死体があった。鼻をつく血の臭い、そして地面にドロリと広がる赤い血の色に、全員の警戒は戦慄へと姿を変えた。




