執事は花の香の夢を見る 5
パタンと軽い音を立てて、ドアが閉じられた。そちらを見たナターシャの視界に飛び込んできたのは、黒い外套を着た長身の男の姿だった。
走ってきたのだろうか、軽く息を切らしている。それが普段の冷静さと違う印象を彼女に与えた。妙に新鮮だな、と場違いな感想をナターシャは持つ。
「いらっしゃいませ、ロクフォート様」
少女が明るくかけた声は、上ずるでもなく落ち着いていて。
「......あなたですよね、ナターシャさん」
噛み合っているのかどうか微妙な執事の返事は、少しの嬉しさと戸惑いを含んでいた。
冬の午後である。中途半端な時間ということもあり、他に客はいない。店内の花だけが二人を見守る観客だ。
「はは、バレバレですよね。あ、とりあえず座られてはいかがですか。幸い今、他のお客様いらっしゃらないんで」
ほんとはよくないんですが、と付け足しながら、ナターシャはロクフォートにカウンター奥から引っ張ってきた丸椅子を差し出した。せっかくの好意なので、ロクフォートは長い足を組みながらそれに座る。
ナターシャは、カウンターにもたれるようにして立ったままだ。視線が合うと、気恥ずかしそうにエプロンで手を拭く真似をして、ごまかした。
数秒続いた沈黙、二人の間を満たす微かな店内の花の香り。その言葉の無い時間が妙に心地好く、ロクフォートは不思議に思いながら口を開く。
「妻の......キャシーの墓を綺麗にしてくれたのは、貴女ですよね。手紙からそれと察したので、さっき見に行ってきました」
「はい。差し出がましいと知りながら、つい」
すいません、と頭を下げるナターシャを、ロクフォートは慌ててなだめる。
「いえ、全く気にしていないですし、むしろお礼を言わなくてはならないですから。この時期に墓地に入ってお墓の掃除、大変でしたよね。キャシーも喜んでいると思います。改めて御礼申し上げます」
「はは、まあちょっと寒かったですが、お役に立てたなら本望ですし。それに私、ロクフォートさんに謝らなければならないことがありますから」
「というと?」
微かに眉をひそめたロクフォートに、ナターシャは語った。
前回店を訪れたロクフォートを尾行したこと。墓石に刻まれた名前を見て、それが誰なのかを悟ったこと。
「あの時点では、キャシー様がどういう関係の方なのかを私は知りませんでした、ですが、わざわざこの時期に墓参りに行くくらいです。余程大切な方なんだなというのは分かりましたし。なので、勝手に後をつけたことのお詫びの意味で、お墓の周りを綺麗にしてお花を置いた次第です」
「理解出来ました。あのトリコロールの花束、とても綺麗でしたよ」
ナターシャは、ロクフォートの言葉に表情を和らげた。やはり本職の仕事を褒められて悪い気はしない。
「この時期、どうしてもあの墓の近くは白と黒しか色彩がありません。ちょっとでも奥様の慰めになれば、と」
そこまで言ったところで、ナターシャは他に言うべきことが尽きてしまったことに気がついた。
二人であの墓の清掃と花のことを話してしまえば、もう話題は無い。ロクフォートにしても、もうナターシャに話す義理は無い。だからここから先、会話が続くかは、二人の気持ちが互いに向いているかにかかっている。
(これきり、ロクフォートさんと話す機会が無いのは、嫌だな)
ナターシャにしてみれば、ほんの小さな機会を今回手繰り寄せたに過ぎない。これをきっかけにして会話の機会を増やしたいなとは思うが、どちらかというと彼女は口べただ。ぽんと適当な話題は浮かんでこない。
悔しいなと思う。
寂しいなと思う。
耐寒の魔力付与付きの外套を持っている彼女にとっては、雪をかきわけて墓地に踏み込むのはそこまできついわけではなかったが、それでも楽々というわけでもない。
(うああ、やっぱり相手に近寄る為に小細工なんかしたから、罰が当たったのかあ!? しかし他に方法も思いつかなかったし、一応努力はしたんだし、これでダメならどうすればいいんだ私はあああ!)
やっぱり駄目かもとナターシャが肩を落としかけた時、ロクフォートが声をかけた。それは今の彼女にとっては、まさに救いの手に等しい。
「ナターシャさん、もしよかったら今日お店が終わってから少しお話しませんか。多分、私が説明した方がいいことがあると思うので」
そう話しながらロクフォートは椅子から立ち上がり、それをナターシャに返した。視線の先には、開いた店の扉にそこから入ってくる夫婦連れ。客に気がついた彼が気をきかせたのだ。
もちろんナターシャがこれを断るはずもなく「はい、喜んで!」の返事はロクフォートには笑顔で、そして客の夫婦連れにはびっくりした表情で受け止められた。
******
冬の昼は短い。寒いこともあり、ナターシャはいつもより早めに店仕舞いした。その後彼女が赴いたのは、近くの小洒落た茶店で待っていてくれたロクフォートの元へである。母親からは「あらあら、デートかしら? いいわねえ」と冷やかされたが、それを気にする余裕すらなかった。
「すいません、お待たせしてしまいました!」
「いえ、それほどでもないですから」
駆け込んできたナターシャに、ロクフォートがなだめるように声をかける。卓上に伏せている書物で分かる通り、読書をして時間潰しをしていたらしい。
「寒いですね、さすがに。あ、どうぞ、何か召し上がるでしょ? 私も頼みますからご一緒に」
半日休みだった自分とは違い、一日働き詰めのナターシャを気遣うロクフォートは確かに気が利く。そんなことはないと言いかけたナターシャだったが、若い体は正直であり、適度な空腹感に見舞われていた。
「それでは遠慮なく」
若干顔を赤らめながら、ストンとロクフォートの向かいに座る。ここは茶店ではあるが、軽食系ならば料理も充実している店である。チキンサンドイッチとスープを頼むと、ロクフォートは川魚のソテーと肉のパテを塗った堅めのパンを頼んだ。
二人の視線が合いそうになるが、ロクフォートが下に視線を先に外す。料理が来るまでの間に話したいことがあった。
光学魔法を使った天井からの照明がきらめく。窓から忍び寄る冬の薄闇を切り裂く光は、彼の彫りの深い顔に深い陰影を作った。
「キャシーのことを話してもいいですか」
もう隠す意味も義務もないな。
あのトリコロールの花束の色鮮やかさが、自分の頑なな心に僅かだが彩りを与え、過去から現在へと視線を変えてくれたのかもしれない。
「キャシー・リザラズ......私の妻は今から五年近く前に亡くなり、あの墓に葬られました。死因は病気、肺の病でした」
淡々とした調子で、ロクフォートは話し始めた。卓の上で組んだ両手を見つめるようにして。
ナターシャは何も出来ない。ただ、今から彼が話すことが重要なことだ、というのだけは分かる。
(だから黙って聞こう。彼の記憶の中のウィンターリリーを)
「もともとそれほど体が強い人ではなかったんですが、あの時は運もありませんでした。風邪をこじらせたところに流行り病に見舞われてね。手は尽くしたんですが、悪性の病だったらしく進行が速くて......」
ロクフォートは思い出す。日に日に弱ってゆくキャシーの姿を。白っぽいフワッとしたブロンドの短めの髪を枕に預け、熱に浮かされた目を向けるその顔が、ロクフォートには痛々しかった。
――ねえ、ロクフォート。私、もう駄目よね......もたないよね、春を迎えられる気がしないのよ――
そんなことを言うなと言うだけなら、簡単だった。
だが事実、冬が終わりつつある季節に、キャシーの体調は急激に悪化していった。どんな薬を飲ませても、それを受け付けない程衰弱していたのだ。ロクフォートはうなだれるしかなく、その痩せた小さな手を握るしか出来なかった。
ゴメンという言葉だけが、二人の間を行き来した。
夫は妻を助けてやれないことを嘆き。
妻は夫を一人にすることを詫びる。
悲しい言葉しか言えないこと自体が悲しいとその時、涙しながらロクフォートは思ったものだ。
「......彼女の予想通り、冬が終わりを告げた日に、キャシーは息を引き取りました。26歳、当時の私と同い年です」
共通の知人を通しての出会い自体は平凡で、交際を始めてからの過程もまた特別なことはなかった。それでも紛れも無く幸せな日々がそこにあった。
家族、友人に祝福されての結婚式、そして二人の生活。満たされていた時間。それは三年で終わりを告げた。
「彼女は、私を一人にしてしまうことを案じながら逝きましたよ。子供の一人でもいれば良かったねと、何回病床で聞いたことか」
「――そうでしたか」
昔を思い出すロクフォートは、いつの間にか目を閉じていた。そうでもしないと、当時の感情が溢れ出しそうだったから。瞼の裏に甦るのは、あの時の情景だけでいい。心は置いてくる。
ナターシャには相槌を打つくらいしか出来ない。身近な人間の死というものを体験していない彼女にとっては、それがただ得体の知れない怖い物というくらいにしか分からない。
奪われる恐怖、二度と会えない孤独。それを未経験者がさも知った風な顔をすることは、ロクフォートに対する侮辱だ。
だからただ聞く。真剣に。
執事が目を開いた。その黒い目は静かで、感情の揺れは見えない。
「葬儀が終わりキャシーを墓に葬った後、私はハイベルク家に仕える執事としての顔だけを維持して生きることにしました。それが一番楽だったからです。仕事だけに感情の全てを注ぎ、キャシーの思い出だけを支えにする。そうでもしないと、自分が終わりそうでした」
プライベートなど、最低限の体力回復の為の休日さえあれば良かった。下手に余分にあると辛かった。
キャシーと共に歩いた街に出ることも、二人で読んだ本を開くことも、意識的に避けなくてはならないから。
「ロクフォートさんは奥様を大切にされていたのですね。すみません、なんか当たり前のことしか言えなくて......」
「いえ、こんな話をされて楽しくないですよね、私こそすいません。ただ、何となくナターシャさんには、キャシーのことを話しておいた方がいいかなと思いまして」
謝るナターシャに上手く話しかけようとしても、ロクフォートにはそれが出来ない。不器用なんだから、といつかキャシーに笑われたことがあったなと、頭の片隅で思う。
ただ何だろうか、次の言葉だけはすらすらと出た。
「ありがとうございます」
「え?」
「さっきはバタバタしていたので、改めて御礼を言いたかったのです。それにキャシーの話を聞いていただいたので――多分、私も誰かに聞いてほしかったのかな」
迷惑でしょうけれど、とロクフォートが付け加えたところで、注文した料理が来た。しばし食欲を優先させながら、食事の合間にぽつぽつと会話が挟まれる。
先程の会話の内容が内容だけに、心浮き立つような雰囲気とはいえず、些かナターシャは気が引けた。だがそれ以上に、こうして自分と面と向かって、ロクフォートが本心を話してくれたことが嬉しい。
(私がしたことは無駄ではなかったのかな?)
ロクフォートにとっても。土の中で眠るキャシーにとっても。
そして自分にとっても。
(久しぶりかな、こんなにキャシーのことを話したのは)
ロクフォートは思う。トリコロールの花束を添えられたキャシーの墓の光景が、何かを許してくれたのではないかと。単なる錯覚なのかもしれない。だが、あの光景が何かしら彼の心に軽さを加えてくれたのは、確かだった。
彼の心に映っていたのは、過去に咲いていた花の影だけだったのか。それを見かねたキャシーが、今を見るように背中を押してくれたのか。そう考えるのは、いささか感傷的かもしれないが。
「ロクフォートさん、話してくれてありがとうございます」
不意に聞こえたナターシャの声に、ロクフォートは驚いた。礼を言うのはこちらの方だというのに。
だが、目の前の少女は穏やかな笑みを浮かべながら、話し続ける。言葉を選ぶように、時にためらいながら。
「多分、ロクフォートさんにとって一番大切なことを真摯に話してくれたことが、私は嬉しいです......花屋の仕事は適切な花をご提案して、お客様に喜んでいただくことです」
そこで一旦言葉を切って視線をさ迷わせた後、再び少女は話し始める。
「今日差し上げたあの花束が、ロクフォートさんと奥様に喜んでいただけたのかな、だから私を信頼して今こうやって話していただいたのかなと思うと――やっぱりちょっと嬉しいので」
エヘヘ、と照れたように小さく笑うナターシャに、ロクフォートは困ったように小さく笑った。こういう場合にどんな表情が適切なのか忘れてしまったな、と内心悔やむ。
だから、彼に言えたのは一つだけだ。
「また作っていただけますか、春になったらとびきり彩り鮮やかな花束を。それが相応しいような気がするので」
何のためにかは言わない。言う必要もない。
ナターシャは頷いた。断るという選択肢があろうはずもない。
「心をこめて作らせていただきます」
執事と花屋は顔を見合わせて小さく笑った。
******
それから二週間が経過したある日、シュレイオーネの王都の空気が変わった。冬の刺すような冷たい空気に、穏やかな春の暖かさが混じり始めたのだ。
「もうそろそろ冬も終わりかねえ」
「今年は春が遅かったねえ」
道行く老人が交わす言葉は季節の移り変わりを期待させ、温くなりつつある川の水に魚がそろりと泳ぎ始める。そんな風景が、そこかしこで見られた。
「あら、ナターシャ。いい花束じゃないの」
とある花屋の店先。若々しさの名残を顔に留めた女性が、一人の少女に話しかける。
栗色のポニーテールをリズミカルに揺らしながら、話しかけられた長身の少女は振り向いた。その手にあるのは、軽やかな鼻歌混じりに彼女が作っていた、あらゆる春の花を使った花束だ。
「それはそうだよ、これは特別な人に捧げる花束だからね!」
春一番が吹くのはもうすぐだ。
ロクフォートとナターシャの話はこれで終わりです。
なお、ウォルファートが主役の新作を投稿する予定です。もしよろしければそちらもご愛顧願います。