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ソフィー・アンクレス

「元気そうだね、ソフィー」


 その声が聞こえてきた時、あたしは自分の耳を疑った。有り得ないと思いながら、屋台の片付けをしていた手を止めて、声の聞こえてきた方を見る。


 太陽の残照を斜めに受けて立つ男の姿が目に入る。訳もなく、最近日没が早くなったと考えてしまった。ちょっとバツが悪そうな困ったような顔は、あたしの想いを知らないまま、あたしをふってくれた男の顔だ。


「フレイじゃない。どうしたの? 最近忙しいんじゃないの?」


 内心の動揺を隠しながらあたしが言うと、その男、フレイ・デューターは「その、なんだ。ソフィーに相談したいことがあってね」と歯切れの悪い口調で答えてきた。


 何の相談だろうか。今まで彼があたしに何か相談してきたことなど無かったなと思いつつ、野菜の土で汚れた手をエプロンの端っこで手早く拭く。


「いいよ。あと30分待っててね。片付けしてる最中だから」


 ふられたはずだ。それなのに、まだ心躍る自分がいる。未練がましい女だと自嘲しながら、あたしはフレイに笑顔を作った。少しの無理と自然な好意で出来た笑顔を。




******




「まだあの屋台で働いてたんだな。もう三ヶ月くらいになるか?」


「なんだかんだいって長くなっちゃった。でも年内で辞めるんだけどね」


 周囲の人の談笑が、静かに流れる楽団の演奏に溶け込み聞こえてくる。長年続いている店らしい。料理や酒から空気中に舞ったアルコールが長年吸い込まれた証として、木の壁や床にはところどころ黒ずみ艶がある。


 急に訪ねてきたフレイを少々恨めしく思いながら、簡素な長袖シャツとその上に羽織った短衣、麻のロングスカートという自分の格好を嘆く。デートでは無いにせよ、こういう小洒落た店に来ると知っていれば、もう少しましな服を来てきたと思う。


「――そっか。お父さんとの話し合いに進展はあったのかい?」


「まあ、ちょっとはね。今まで頑張ってきたのを認めてくれて、アンクレス商会と付き合いのある商会の一つに口を聞いてくれたの。そこで年明けから働くんだ」


 自分の実家で働ければそれにこしたことは無かったが、贅沢は言わない。何より、許可を出してくれた時の父の目は厳しかったが、暖かかった。実家の庇護のないところで経験を積めということじゃないかな、とフレイに言うと「おめでとう」ときたものだ。


 (人の気も知らないで)


 笑顔の彼が恨めしかった。いつもはそれとは違う笑顔をマレットさんに向けているのを、知っているだけに。



「あたしの話は置いておこうよ。わざわざ相談に来たというくらいだから、あたしに話すことがあるんだよね?」


 チン、とワイングラスを鳴らしながらそう言うと、フレイの顔が曇る。店内で作動している魔法の演出なのか、スモークが薄く漂う。だが、そのせいという訳でもなさそうだ。


「まあ、有り体に言えばマレットさんと喧嘩、というか気まずい事態になってるんだよ......」


 そう切り出して、フレイはあたしに何があったのかを話し始めた。







 彼の話自体は単純だった。理解も出来た。話にかかった時間も大したことはない。


 だけど、何故こんなに胸が苦しい?


 聞くだけなのに、フレイの言葉一つあたしの耳に届く度に、あたしの心に小石がぶつけられるような錯覚がある。


 それを紛らせる為に慣れないお酒を飲んだ。ワインの赤が店内の光に反射し、やけにどす黒く見えたのは気のせいか。


「どうしたらいいか、分からないんだ。傍にいてほしいという気持ちと、あの人がこのまま行ってしまうのをどこかで認めたい気持ちと両方あってさ、こんな転勤なんてあるなんて知らなかったよ」


 微かにワインのせいで赤くなった顔のフレイ。その目はどこかどんよりとしていて、いつも眠そうにしている時よりも更に活気が無い。


 (嫌だ、止めてよ。あたし、あなたのそんな顔なんか見たくないよ)


 未だに胸の内で燻る好意の残骸がある。何よ、これ。あたしが舞台にも立てずに諦めなくてはならなかったあなたが――何でそんな顔してるの?


「でも、転勤の可能性があると知っていても、フレイはマレットさんを好きになってたんじゃない」


 口から飛び出す言葉は心を裏切る。そうだよ、あたしはもう出る幕じゃないんだからと言い聞かせ。


「かもしれない。だから、今回のこれも受け止めなくちゃいけないんだろうけどな。なんか、寂しいな」


「寂しい? 何がなの?」


 フレイの言葉に弾かれたように顔を上げる。冗談じゃない、寂しいのは――あたしの方だ。


「好きだから辛いってことがだよ。やっぱりさ、交際相手に負けっぱなしなのは悔しいからな......ソフィー、どうした?」


 目の前のフレイが不思議そうにこちらを見た。あたしはあたしの顔が分からない。でもきっと酷い顔をしてたと思う。


「......何よ、人の気も知らないで」


 限界だった。自分が自分の感情を制御出来ないのが分かる。いや、出来る出来ない以前に、もう単純にぶちまけたくなった。


「いいじゃないの、自分で自分が好きな人に告白出来たんでしょ? 両想いだったんでしょ? 今だって悩めるだけ幸せじゃない」

 

 やってやる。この馬鹿に。


「ちょ、お前何言ってんだ。変だぞ?」


 フレイの声が遠く聞こえる。あたしにはそれ以上分からない。どこかでプツンと堪忍袋の尾が切れる音がしたのは、気のせいか。いや、もうそんなことはどうだっていい。


 どす黒いがどこか透明感を含んだ感情が血管を回って、全身を支配していく。




 あたしは......



 私は......



「変なのはフレイの方よ! 何で私があなたを好きだってことに気づかないのよ、この鈍感! 馬鹿!!」


 ぎりぎり保った冷静さはテーブルの上の皿をひっくり返さないことに使い果たした。それが限界だった。

 ほとばしる声の鋭さに、フレイも周囲の客も怯むのが分かる。ちょっといい気味、凄く後悔。


 でももう止まらない。止められない。


「講座で会って、ちょっとずつあなたのこといい人だなと思って。この人とお付き合い出来たらいいな、なんて考えるようになって」


 そうだ。だからバーニーズ事件の時にあんな真似もした。半分はマレットさんに対する牽制としても、気持ち自体は嘘じゃない。


「けどフレイは――フレイはマレットさんしか見てなくって。私のこといっつも子供扱いして、女の子として見てくれなくて」


 ぽんぽんと頭に置かれたあなたの手の暖かさが嬉しくて。でも寂しくて。


「マレットさんには勝てないって分かってたけど、せめて、同じ立場であなたに向き合いたかったのに......それでも、無理矢理自分を押し殺して我慢してきたのに」


 それも今日で台なしだ。ごめん、ナターシャ。私、無理だ。自分で思ってたほど大人じゃなかったよ。

 格好悪いよね。ごめんね。だけどせめて、この予想しない機会だけは――どんなに格好悪くても最後まで演じさせて。


「あなたが大好きだった。だけど今は大っ嫌い! 私が好きだったフレイは、相手が自分より上だからってグダグダ言うような人じゃなかったよ!」


 凍りついたような表情のフレイの顔が見れない。いや、見たくない。

 蹴りあげるようにして席を立つ。荷物を引っ掴み、私は店の出口へ向かった。


「お、おい! ソフィー! ま、待ってくれよ!」


 後ろは振り返らなかった。だが足音と共に彼がすぐに追いつき、私の肩に手をかける。


「ごめん、悪かった、いや、なんていうか俺自分勝手で、その」


「そう思うなら」


 くるりと振り返りながらその回転を止めずに、私はそのまま右手に力を込める。構わない。もう感情に蓋なんかしないんだ。


「自分の都合で振り回さないでよ!」


 私が思い切り右下から左上に振り上げた平手打ちは、フレイの死角から見事にその顎を打ち抜いた。

 いや、もはや平手打ちとは言えない。掌底の形で入った一撃はビキャ! ともメシッ! とも取れる嫌な音を立て、フレイを吹っ飛ばす。


 ドッガアアア! と派手な音を立てて、フレイが倒れる。他の客が座るテーブルにぶつかり、悲鳴と怒号が上がる。そしてテーブルからこぼれ落ちた皿はフレイの頭に当たって割れ、何やらソースらしき液体が髪にぶちまけられたのが見えた。


「あ、熱っ! あちちちっ!」


「うわ、なんだこの小僧! くそっ、弁償しろ!」


「なんなの、一体!? やだ、私のドレスまでぐしゃぐしゃじゃない!」


 見事に顎の辺りを腫らし、ソースまみれの酷い髪になったフレイが男に首根っこを掴まれ、青い顔になっている。金切り声を上げて迫る女にもたじたじとさせられ、更には他の客はその騒動をやんやと囃し立て、私には声援が降り注いだ。


「すごい一撃だったな、嬢ちゃん! いやー、ダメ男に天誅だったなあ!」


「ありゃもうダメだろ、膝にきてる。ガクガクだわ」


「あなた凄いのね。分かるわ、あの酷い男に騙されたんでしょ? 泣き寝入りしないなんて偉いわね」


 そんなつもりは無かった。けれど、どうも私は悪い男に二股かけられ捨てられた可哀相な女の子と思われているようだ。事実とは違うが、もはや店の雰囲気はそれに固まり、倒れたフレイに詰め寄る人が殺到している。


「......馬鹿にしないでよ」


 私は生まれて初めて人を殴った手の痛みに顔をしかめながら、昔の片想いの相手を眺めた。




 やりすぎたのは謝るけど、フレイ。あなた、鈍過ぎるのよ。

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