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エルグレイ会計私塾

今度こそ甘くないですよ。フレイ、お前ほんとに頼むぞ?

 マレットと付き合うことになった翌日、いつもの通りフレイは朝から私塾に出かけた。木造の年季の入った教室は綺麗に掃除がされ、フレイと同じように学ぶ塾生が机に座っている。


 この私塾の名前はエルグレイ会計私塾と言う。エルグレイという、今年70歳になる高齢の男性が塾長をしている私塾だった。伝聞によると、その昔、ウォルファートと共に魔王軍と戦った魔術師であるらしい。そして魔王討伐後に冒険者を何年かやった後引退し、そこから簿記の勉強を始めたという変わり種である。


 この私塾はマレットがフレイに渡した有力私塾リストの一つの中にあり、実際にフレイがソフィーと共に見学して気に入ったので入学を決めたのだ。現在彼が学んでいるコースは、秋に行われる簿記二級試験対策講座である。


 シュレイオーネ王国の簿記や会計に関係する主要な資格を大きく分けてみると、上から順に会計士、簿記一級、簿記二級、簿記三級の四つだ。フレイが前に聞いた説明の通り、難易度では会計士資格が抜けて高い。


 簿記三級だと、ほんとに簿記の基礎だけが試験問題に出てくる。"勇者様に学ぶ簿記"で一通りサラっとだが学んだ経緯と試験までの残り期間から考えて、もう少し難易度の高い簿記二級試験の受験をフレイは奨められたのだ。


 ちなみに、ある程度簡単なレベルの財務諸表作成が可能と判断されるのが、簿記二級資格だ。一級となると、これに税務知識が問われかなり難しくなる。


 (マレットさんは簿記一級保有者だったよな。会計士までは受けなかったらしいが)


 簿記二級のテキストを開き講師の話に耳を傾けながら、フレイは考える。どうすればマレットの隣に立てるレベルになるのか。今こうしている間にも彼女は会計府で実務経験を重ねており、その差は開く一方な気がする。


 (いや、仕方ない。俺は今できることをやるしかないんだ)


 時折湧いてくる焦りを宥めながら、フレイは文字に集中した。



******



「では、講義の時間を終わります。あとはいつも通り自習でお願いします」


 講師の声が響き、塾生達がやれやれと顔を上げた。フレイもそれに倣う。午前の講義は9時から11時までの二時間である。それから1時間は自習が可能なのだ。隣の者と話しながら勉強してもよし、私塾にあるテキストや過去問を使うもよし、講師に質問するのもよしである。


 入って一ヶ月足らずのフレイだが、何となく顔見知りらしき塾生も出来た。あまり人見知りはしない性格のおかげだ。


「フレイ、今日どうする? 俺らと一緒に勉強するか?」


「いや、ちと分からないとこあるから質問してくるわ。終わったら一緒にやるよ」


 知人グループの誘いに答え、フレイは一旦教室を出た。丈の短い絨毯の敷かれた廊下を歩くと、すぐに講師達の部屋に着く。


「すいません、入ります」


「どうぞどうぞ」


 木のドアを押すと、キシと軋みながらそれは開いた。一人一人のスペースが確保された講師室だが、一人を除いて誰もいない。


「ちょうど皆出払っていてな。何か用かな、フレイ君」


 一番奥のスペースに座る白髪の痩せた男が、フレイに笑いかけた。柔らかい笑い声は年相応にしゃがれている。しかし、やや背こそ曲がってはいるもののかくしゃくとした姿は、その実年齢より若い。


「エルグレイ塾長、こんにちは。はい、お聞きしたいことがありまして」


 フレイは白髪の男――エルグレイ・シーフォウス――に近寄りながら丁寧に挨拶した。その功績から、彼は貴族社会にもいまだ縁の深い。救国の英雄のかっての仲間はうむうむ、と笑いながら手招きする。


 ハイベルク伯爵家が後見人ということもあり、何かと目をかけてくれるのが有り難くもある反面、他の塾生には悪いなとはフレイも思う。だが、得てして階級社会とはそういうものだ。


「こんなじじいで良ければ若者の悩みに答えてやるぞ、どこでつまずいたのかね?」


「期末締めの一連の部分がいまいち分からなくてですね、そこをお聞きしたいのです」


 ふむ、と呟きながら、エルグレイはフレイに座るよう促した。自分も大きな黒檀の机から、その横の小さな椅子に座り変える。フレイの椅子はその向かいだ。

 

 まず口を開いたのは、エルグレイだ。


「具体的にどこがどう分からんかの?」


「その、最終的に締めた時に、財務諸表として貸借対照表と損益計算書をそれぞれ作りますよね。あれはどっちから作るのが正しいんですか?」


 フレイの質問にエルグレイはふむ、と唸ってから答える。


「期末締め、というのは端的に言えば、商会がその会計期間にやらなければならない全ての仕訳の記帳をすること、というのは分かるじゃろ? まずそれは出来とるかの?」


「えーと、過去問やってるんですけど、よく間違えるのは前受収益の計上とか年度途中で買った固定資産の分の減価償却とかですね」


「そりゃ簿記二級の試験方式になれとらんから焦っとるだけじゃろうな。何回かやってよく間違える部分を覚えておくんじゃよ。次に生かせば、そのうち出来るようになる」


 白髪の塾長の言葉に、フレイは決まり悪そうに頭をかいた。確かにその通りであり、一つ一つの仕訳についてはフレイは出来るのである。


「頑張ります。あと、損益項目を最後に全部足していって合計値を純利益か純損失として出しますよね。そこからどうすればいいかが分からなくて」


 フレイの言うことはこういうことである。

 売上、売上原価、全ての利益項目(貸し付け利息収入など)、全ての費用項目(人件費など)を足した際にプラスなら純利益、マイナスなら純損失になる。そこから更にもう一つ、振り替える為の仕訳が必要なのだが、それが分からないと言っているのだ。


 こんな感じで、とフレイが差し出した用紙をエルグレイが見る。そこには例題として次のように書いてあった。



 売上 35,000グラン、売上原価 20,000グラン、そのほか利益 2,500グラン、そのほか費用 4,000グラン。


「ふむ。まず基本の基本じゃが、これら各項目が仕訳の右側か左側どちらにくるかは分かるかの?」


「ええ、売上とそのほか利益が右側、売上原価とそのほか費用が左側ですね」


 フレイの理解は正しい。

 彼の言っていることを仕訳を用いて理解すると


 売掛金(資産) 35,000 / 売上 35,000


 売上原価 20,000 / 在庫(資産) 20,000


 何らかの資産勘定 2,500 / そのほか利益 2,500


 そのほか費用 4,000 / 何らかの負債勘定 4,000


 ちなみに売掛金などの貸借対照表に乗る科目は、他の勘定に置き換えて考えても構わない。要は、売上~費用までが本来仕訳の右側にくるか左側に来るかだけ覚えていればよいのだ。


「そうじゃな。それじゃ、売上、売上原価、そのほか利益、そのほか費用を、そのまますとんと仕訳に落としてみようかの」


「すとんと?」


「右側左側を考えずに、そのまま一つの仕訳に書き写すんじゃよ」


 エルグレイはそう言ってフレイを促した。その言葉に従い、フレイは仕訳を作る。


 売上原価 20,000、その他費用 4,000 / 売上 35,000、その他利益 2,500


 だがこれだと左側の合計が24,000、右側の合計が37,500と合わなくなる。仕訳は左右が釣り合うという大前提から外れるのだ。


「ふむ、そうじゃな。だからトータルで売上と利益の合計が13,500、売上原価と費用合計より大きいことになる。これが純利益であり、これは右側に発生していることになるというところは分かるかのう?」


「なんか、つい仕訳を釣り合わす為に左側に純利益 13,500を足したくなるんですけど」


「おお、まあ気持ちは分からんではないが、売上やら売上原価やらは既に仕訳を切った結果生じた損益の勘定科目じゃからな。これらの合計が右左どちらに振れるかというのを便宜上知りたいが為に、無理に仕訳の形にしただけじゃ。左右どちらの合計が大きくなって残るかだけ分かればええ」


 エルグレイの説明を、フレイは真剣に聞く。つまりは純利益が出るなら右側に出て、純損失が出るなら左側に出るということを覚えられればそれでいいということである。


 ここで先程の費用と売上の合計値を記した仕訳を左右相殺する。結果、右側に純利益13,500が残る。


 エルグレイが再び説明を始めた。


「さて、これで純利益が出たな。これはこのまま放っておいてはいかん。最終的に出した純利益、あるいは純損失は貸借対照表に出る勘定科目に振り替える。でないと貸借対照表が左右合計が一致せんからな」


 ここでさっき計算した純利益の振替仕訳(つまり純利益を別の勘定に変更するための仕訳)を作成する。

 純利益は右側に出たので、次の仕訳でもってそれを消し、別の勘定科目にするのだ。


 純利益 13,500 / 利益準備金(資本) 13,500


 となる。純利益が利益準備金という勘定科目に振り替えられた。

 もし売上原価+費用>売上+利益で純損失が出たならそれは左側に発生するので振替仕訳は


 利益準備金(資本) 5,000 / 純損失 5,000


 となるのだ(5,000は仮の数字)


「資本勘定て普段使わないですけど、通常右側に来ますよね。純利益を振替した時に


 純利益 xx / 利益準備金 xx


 となるということは、儲かった場合はそれだけ利益準備金が増えるということですか?」


「そういうことじゃな。別の言い方をするなら、その会計期間に儲かった商会はそれだけ資本勘定が厚くなり、逆に損失を出した商会はそれだけ資本勘定が薄くなる。ぱっと貸借対照表を見て資本勘定が多い商会とは、それだけ過去から現在までの商売で利益を蓄積してきたという証拠になるわけじゃよ」


 少し喋り疲れたわい、とエルグレイはコキコキと首を鳴らした。70歳にもなると身体にもがたが出る。とはいっても、今でもレベル40以上の魔術師であり、王国内のトップ10には入る超一流の攻撃呪文の使い手という一面も持っていた。


 その元勇者の仲間がフレイを見る。


「ここまで言えばフレイ君なら分かるじゃろ。会計期末までに必要な仕訳を全部作成したなら、まずは損益項目を全部抜き出して損益計算書を作成する方が先じゃな。それで純利益か純損失を計算する。それを振替して利益準備金(資本勘定)を調整する。

 そうすれば、貸借対照表を作成する為に必要な勘定科目が全部揃うわけで、ミスがなければきちんと貸借対照表が作成出来るわけじゃよ」


「ありがとうございます。よく分かりました」


 深々と頭を下げるフレイに、エルグレイは目を細めた。未来ある若者が伸びるのを手伝うのは楽しいことだ。


「簿記二級試験に出てくる問題ならば、作成必要な仕訳の数も種類もしれとるからの。まずは過去問を解きまくって慣れることじゃよ。ところでフレイ君、おぬし二級に受かったらどうするつもりじゃね?」


「え、合格後ですか? そうですね、経理として就職活動を本格化させようかと思ってます」


 フレイにしてみれば、これ以上勉強だけに専念するのはもういいや、という気もする。経理志望ではあるが、会計士や簿記一級を持ってないと仕事が出来ないわけでもないのだ。なんだかんだ言って実務経験が優遇されるのは、どの世界でも同じである。


「ふむ、そうかの。いや、もし君さえ良ければ会計士試験に専念してみるのも一手かと思うたんじゃがな」


「会計士ですか? でもかなりの難関資格ですよね」


「うむ。簡単ではない。じゃがフレイ君は18歳じゃったな。頭の柔らかい内に勉強した方が勉強内容は入りやすいし、会計士資格取得後の評価は相当高くなることを考えれば悪くはないと思うてな」


 フレイは知らないことだが、若手の会計士が足りずどうにかならないかという問題がシュレイオーネ王国全体で発生しているのである。大小問わず商会ならば、一定期間ごとに会計監査という財務諸表が適正に作成され、不正会計をしていないか調べるテストを受けなければならない。そして、この会計監査を行う資格があるのは会計士だけなのだ。


 にも関わらず、現場のノウハウを受け継がせる為の若手会計士が足りず監査現場は悲鳴を上げている、という状況が発生していた。エルグレイの元にも「素質がありそうな若手がいれば、なるべく会計士になってみるよう勧めてほしい」という要請が来ているのである。


「うーん、まだちょっと分からないんで、頭の片隅に留めておきます」


「そうじゃな。そういう道もあるということだけ覚えておいてくれんか」


 とはいえエルグレイも無理強いはしない。無理矢理押し付けて最悪の場合、フレイが簿記や経理が嫌いになったら意味が無いからだ。


 そんな塾長の苦労を知ってか知らずか、フレイは質問が終わったので礼を言ってから立ち去ろうとした。何気なく塾長用の机の後ろの壁を見ると、そこにあった一枚の絵に目が止まる。


 (勇者様とその仲間かな?)


「おお、この絵に目をつけたかね。これは魔王アウズーラを倒した後、その勝利記念にウォルファート殿が画家に描かせた絵じゃよ。ほれ、わしも右端におるわい」


 エルグレイの言う通り、縦100センチ、横150センチ程のなかなか大きな絵の右端には魔術師特有のローブ姿に杖を持った男がいる。若い頃のエルグレイなのだろう。50年前なので、この時は20歳のはずだ。


 そのエルグレイの他にも、絵の中央にどんと大きく構えたウォルファートが、その他にも戦士、騎士らが描かれていた。鎧や盾に入ったひびがくぐり抜けた激戦を物語る。


「あれ? おかしいなあ」


「何か変なところでもあるのかね?」


 フレイがあげた声にエルグレイが反応する。フレイは中央に陣取る勇者を指差した。


「前に見た勇者様って、確か明るい茶色の髪だった気がするんですよね。でもこの絵だとプラチナブロンドみたいなキラキラした色の髪してるんで」


「ああ、それかね。ウォルファート殿は、簡単に言えば特異体質でな、体内の闘気や魔力が高まるとそれが揮発して髪や目の色が変わったんじゃよ。この絵を描いた時は、まだ大魔王との戦いで全力を出した余波が残ってたんじゃろ」


 エルグレイの答えに「変わった体質ですね」とフレイは相槌を打つ。しかし、こうして金とも銀とも言える髪とそれに同色の目を持つ勇者の姿を見ると、何か記憶にひっかかる物があった。


 (あー、シガンシアから助けてくれた人にちょい似てるんだわ。あの人も銀髪銀眼だったもんなあ)


 そう遠くない過去の激戦を思い出したが、それはそれとしてこれ以上塾長の邪魔は出来ない。頭を下げてフレイは講師室を辞去することにした。




******



「クシュン!」


 同刻。とある一軒の花屋の店先で可愛らしいくしゃみをした女の子が一人。栗色のポニーテールと長身が印象的なその女の子は、鼻をこする。次に今のくしゃみを誰にも見られていなかったことに安堵する。


「ふう、おかしいな。風邪でもひいたかな?」


 そう呟きながらポニーテールの女の子、ナターシャは花の手入れの手を止めない。今は除虫剤を散布しているところだ。そして仕事を続けながらも、頭の中ではあの時会った背の高い執事の事を、ちらちら思い出したりしている。


 (ロクフォートさん、結構年上に見えたなー。もう結婚してるんだろうな。駄目だ、私の出る幕じゃない)


 自分で思い出しては自分でダメ出しするナターシャ。そもそも一度接点があっただけだ、ここからどうやって繋げるというのか。客として彼が店に来ない限り、二度と会えないだろう。


 (いや待て、デューター様に頼めばどうにかなるか?)


 フレイの顔を思い出す。彼がもし次に店に来た時にそれとなく情報を聞き出すことは可能だろう。既婚かどうかくらいは知りたいものだ。


 はっきりいって、ナターシャとしてもロクフォートに対して自分がどう考えているのかよく分かっていないのだ。一度会っただけの見目のいい男性にぽーっとするほど迂闊ではない、ないのだが、もう一回話してみたいと思う程度には好感は持っている、そのくらいに過ぎない。


 人の心や感情など「これだ!」と言い切れるほどしっかりした物でもないだろう、と花屋の娘は思った。


 (やめだ、今考えても仕方ない)


 思考と手の動きを同時に止めて、いったんナターシャは家の中に入った。水を一口飲んですぐに戻る時に、背後から母親に話しかけられる。


「ねえ、あなた、お店でじゃなくて屋台で花を売ることってどう思う?」


「どうって、まあありなんじゃない? やるの?」


「やってもいいかなーと思って。ほら、あなたが屋台引けばお客さんたくさん来そうだし」


 娘と同じ栗色の髪を肩まで垂らした若々しい母が笑う。とりあえず検討に値する、と思いながらナターシャは「あとで考えてみよう」と母に答えた。

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