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雨の告白

 夏の盛りの曇り空は、どんよりと重い灰色だ。まるで自分の心のようだと思いながら、マレットはゆっくりと話し始めた。


 18歳の時にそれまで会計を学んでいた私塾を終了して、ある地方の商会に勤務することになったこと。

 その事業主であるとある伯爵に見初められ、いけないと思いつつもその男と恋仲になってしまったこと。


 伯爵に家庭があることを知りつつもズルズルと愛人関係を続けてしまった。いい加減見切りをつけた時には、21歳になっていたこと。そして逃げるように王都に戻り、運よく会計府に職を得たこと。


 出来る限り筋道立てて話したつもりだった。だが心はそうはいかない。言葉が自分の唇からこぼれる度に同じように、心も、記憶も、あの時の感情もこぼれていく。


 隣に座るフレイは微動だにせず聞いている。背後の噴水から流れ落ちる水のサラサラした音が、やけに大きく聞こえてくる。


 ふせるように下を見ながら何とか話し終え、マレットは自分の足元がぽつりと濡れていることに気づいた。まだ雨は降っていないのに、と不思議に思う。同時にぽたり、とまた別の滴が自分の頬を伝って落ちたことに気づく。


「マレットさん、目が」


 フレイが声をかけてくる。その声には軽蔑も怒りも含まれていない。それが余計にマレットの良心を苛んだ。


「大丈夫です、ごめんなさい」


「いや、でも」


 顔を背けるようにして、マレットは頭を振った。長い髪が自分の横顔を隠してくれるように望む。勝手に口が動き始める。とくとくと心臓の鼓動も熱く、肺が言葉を紡ぎ出す為に空気を絞り出した。


「私、馬鹿な女なんです。偉そうに皆さんの前で先生なんかしてたけど、その実、何にも分かってなかったんです。妻子ある人と恋仲なんかになって、そんなのいけないって頭で分かってても、そこから抜け出すのに二年近くもかかって」


 先の見えない恋愛だと何故気づかなかったのか。もしも時というものを遡ることが可能ならば、あの日に戻ってやり直したかった。それならばもう少しましな人生を歩み、これほどまでに自虐的にならずに済んだのではないか。そう思わずにいられない。その考えから抜け出せない。


「......マレットさん。なんで俺にそんなこと話すんですか」


 フレイの声が妙に遠く聞こえるのは耳が遠くなったからか、あるいは彼が離れていく前兆かと思いながら、マレットは答えた。逃げては駄目だという一欠片のプライドにすがりながら。


「嘘をつきたくなかったんです」


「え?」


「フレイさんは、いつも私にまっすぐ話してくれました。勉強の相談をする時も、バーニーズ事件の調査の時も、この前のお祭りの時も。いつもまっすぐに、優しく話してくれました」


 だからこそ――もうこれ以上、そんなフレイを裏切れなかった。


「だけど、だから苦しかった。私はそんなまっすぐなフレイさんの笑顔を向けられる価値のある女じゃないですから。これ以上、もう、貴方を騙すのが嫌になって、いえ、それ以上に自分を偽るのが嫌になったんです!」


 感情が洪水となって溢れ出した。小さな叫び声になったそれは涙を伴い口から飛び出し、言った本人の心をえぐった。

 これほどまでに自分が情けないと思ったのは初めてだった。好きになれるかもと思えた相手に自分の暗い過去を話さなくてはならない。それがこれほどまでに苦しいことだなんて――知らなかった。


 隣に座るフレイは動かない。マレットの告白に呆れてしまったのか、何も言わずに座ったままだ。きっと怒っているのだ、とマレットは思い、それも当然かと諦めた。


 (おしまいよね......)


 こんな痛い過去を負った女、わざわざフレイが相手にする意味はどこにもないだろう。自分なんかと会って時間を無駄にさせてしまった上に、嫌な思いをさせたのか。公園の景色が灰色に見える程、マレットが自己嫌悪の泥沼に思考を沈めかけた時だった。



「あ、雨だ、やばいな」


 いきなり立ち上がり、フレイが空を見上げた。確かに彼の言葉どおり、ぽつぽつと銀色の線が空から落ち始めている。


 マレットがぼんやりとその風景を見上げていると、いきなりぐいと左手を引かれた。フレイが手をつかんで起こしたのだと気づいたのは、彼に引っ張られて噴水から近くの大きな木の下へ無理矢理走らされ始めた時だ。


「え、ちょ、ちょっと!?」


「何やってるんすか、ほら、早く!」


 半分マレットを引きずるようにして、フレイは木陰に走りこんだ。その間に強まった雨足が、パラララと軽快に葉っぱに叩きつけ始める。


「あー、これしばらく止まないだろうなー。しばらく雨宿りですね、まあベンチあるしいいか」


「フレイさん、手、あの」


「ん? あ、すいません」


 マレットの言葉にフレイは慌てて手を離した。先程まで激情から涙していた女はまだ赤い目をこすり、戸惑うようにフレイを見ている。


「怒らないんですか」


「うーん、その、なんていったらいいか分からないんですけど、まあ、とりあえず座りません? どうせ雨宿りしている間にいくらでも話せますしね」


 何とも気の抜けたフレイの言葉に困惑しながらも、マレットは木の下に置かれたベンチに腰掛けた。頭上の木が傘になってくれているのか、ここなら濡れずに済みそうだった。


 腕一本分ほど距離を開けて、フレイが座る。その顔をまともに見ることが出来ず、マレットはただ黙って強まる雨足を眺める。


「ええと、俺も一気に言われてちょっと混乱してるんで、順に話すんですけどいいですか?」


「――どうぞ」


 何だか予想していた展開と違うなと思いながら、マレットは答えた。まだ瞼が熱い。泣いたせいだ、きっとひどく腫れているだろう。


「俺、別に今の話聞いても、マレットさんのこと嫌いじゃないですよ」


 ......え?


 己の耳をマレットは疑う。そんな馬鹿な、聞き間違いだと思いながら、フレイの言葉に耳を傾ける。


「や、まあ予想外のことではあったから。びっくりはしましたけどね。でも、だからって嫌いにはならないですよ、ということをまずは伝えたくて」


 はあ、と馬鹿みたいな相槌しかマレットは打てない。フレイが本気でこんなことを言っているとは、とても思えなかった。


「あの、こんなこと聞くのも馬鹿みたいですが、普通嫌いになりませんか? 愛人関係しか恋愛経験ない女なんて?」


「いや、別に気にならないです。苦労したんだろうなとは思いますが」


「例えばですけど、私と一緒にいたら噂がまわりまわってですね、フレイさんが陰口叩かれたり笑われたりするかもしれないんですよ。貴族の世界ってそういうものでしょう?」


「俺がデューターの家継ぐなら確かにね。でもほら、三男ですからそんなこともないし、目立たないんで」


 フレイはどこまでものほほんと答える。次第にマレットは脱力感に見舞われてきた。


「なんて言えばいいのか分からなくなってきたわ......」


「じゃ答えてもらってもいいですか?」


「何をですか」


 フレイとマレットの目が合った。それまでと同じようなのんびりした口調でフレイが言う。


「お付き合いしませんか?」


 ――聞き間違いだとマレットは断じた。そうだ、これは雨音が招いた幻聴に違いない。


「な、な、な、何を言ってるんですか、フレイさん!」


 声が上擦る。いつの間にか涙は引っ込んでいた。


「いや、ですから。マレットさんのことが好きなので、お付き合いしませんかと言ったんですけど」


「待ってください、今ならまだ取り消せますよ! な、何で私なんですか、フレイさんなら他にいくらでもいい女の子と付き合えるでしょう!」


 嬉しいというより困惑に駆られ、マレットはフレイに詰め寄った。サマードレスの裾がずり上がり、膝が見えるが気にする心の余裕はない。


「あ、マレットさん、脚が見えてますけど」


「そんなことは後回しです。何であんな暗黒過去を語った私なんかとわざわざ付き合いたいんですか!?」


「いや、だから好きだからですよ。単純でしょ」


 やれやれ、とフレイはため息をついて説明を補足する。


「人殺しとかしてたら俺もドン引きしましたよ。でもそうじゃない、マレットさんは辛い嫌な話したくないことを、俺にわざわざ話してくれた。それだけで十分だ。好きっていうのも昨日今日湧いてきた感情じゃないです、気づいたら貴女と会いたいなと思っていました」


 そこまで一気に言い切ってから、フレイは息をついた。マレットは目が点になったまま動けない。


 (神舞祭に誘ってくれたりしたから、少しは期待していたけど)


 しかしである。あの告白を聞いた後で、まさか交際を申し込むだろうか。マレットは未だに理解不能であった。普通はその場でさよなら、よくて敬遠だと予想していたのだから。


「それ、嘘じゃないんですね?」


「嘘じゃないです。それでマレットさんの返事はどうなんですか? まさかここに来て、実は他に好きな人がいますとか結婚していますとか言われたら、俺泣きますよ」


「いませんよ、そんなありがたい存在」


 何だかひどく疲れたと思いながら、マレットは額に手を当てた。落ち着いて答えようと自分に言い聞かせながら、フレイを見る。


 自分はどんな顔をしているだろうか。

 きっと泣き腫らした後の酷い顔なんだろう。そう思うと恥ずかしかったが、この場で答えることに異論はない。


「私でよければ、喜んでお付き合いさせてください」


「よかったー、はあ」


 フレイはそれだけ言うと、雨の方に顔を向け直した。マレットから見ると横顔が見える形だが、よく見ると真っ赤である。視線に気づいたのか、フレイが横目でマレットを見る。


「何ですか?」


「顔、真っ赤ですよ。大丈夫ですか?」


「大丈夫なわけないですよ。あー、もう本当ならもっと格好よく告白するつもりだったのにな。なんかグダグダになっちゃったし」


 ため息をつくフレイ。その視線の先では、まだ雨が降っている。シトシトと降り注ぐ雨が先程までの恥ずかしい会話の熱を冷やしてくれるようで、何故か心地良い。


 何だかおかしくなって、マレットは笑った。


「格好よかったですよ、フレイさん。今までで一番」


「それはどうも」


 照れたのか、素っ気ない返事がマレットに返ってきた。だがその声音は、いつもと同じように優しいフレイの声だ。


「ね、雨が止むまでずっとお話していましょうか。止むまでどこにも行けませんし」


「そうですね。きっとまだ止まないし」



 夏の雨が王都中央公園を包む。それはあたかも、雨宿りする一組の男女を祝福するような、とても優しい雨だった。

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