前払い費用と前受け収益
「あああー、疲れたー」
講義前半が終わり、ほっと一息できる休憩時間。
フレイはばったりと机に寝そべった。無理もない、今までグダグダと昼を無為に過ごしていた男なのだ。それが急に私塾に行きだし、さらには半日だけとはいえ働きはじめたのだ。実際に働いてみないと分からない疲労は確かにある。
「だらしないよー、フレイ。あたしだって八百屋さんで働いてるのにさ」
「いや、その通りだな。働くって大変なんだよな」
ソフィーの呆れたような声に、フレイは顔をパンとはたいて気合いを入れた。この講座に通っている人間は、大多数が昼間は働いてその後にわざわざ時間を割いて来ているはずだ。自分だけダウンしているわけにはいかない。
(そもそもマレットさんだってそうだし)
体を起こしてマレットを見ると、教壇に添えられた椅子に座って飲み物を飲んでいる。講義用のテキスト片手に器用にカップ付きの容器を傾けて飲む姿は、いかにも才色兼備の女と呼ぶに相応しい。
そうしていると、マレットがこちらにふいと振り向いた。フレイと目が合うと「どうも」とでもいうように飲み物の容器を振ってニコニコしている。
「マレットさんてさ、可愛いよな......」
顔をほころばせてつつ、フレイは同じように手を振りながらぽつりと言った。それを聞いたソフィーが(人の気も知らないで!)と内心かちんときていることなど彼に分かるはずもないが、ソフィーにしてみれば面白くはない。
「そ、そうね。可愛いというより綺麗系だと思うけど」
「ああ、そうだな。理想のお姉さんて感じ」
フレイに罪はない。だが、無邪気に繰り出される言葉が次々にソフィーの心にダメージを与える。(今日はちょっと勇気だして短めのスカート履いてきたのに! フレイの馬鹿!)と心中で八つ当たりしてしまうのも無理はない。
分かる人間が見ているならば、もう止めて! と言いたくなるような光景だった。幸いにも講義再開のベルにより、罪の無い惨劇は終わりを迎えた。
やれやれ、と席に座り直すフレイの横でソフィーは地味にへこんでいたが、気を取り直してこちらも座り直した。
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「まずは前払い費用からお話します。日常でもよく前払いという言葉は使いますよね。現金前払いなど。簿記の世界ではどう使われ、どう仕訳が切られるのかを、勇者様の映像を例に覚えて下さい」
マレットは話しながら映像水晶を動かした。あらかじめ編集しておいた映像がスタートする。
"この城を借りたいな。ランズベルク平原制圧の拠点にするにはちょうどいい"
領主らしき男に言い出す勇者。どうやら地方領主が所有する城を自分の軍隊の駐屯基地にするようだ。
(それにしても城借りるって、どんだけ金持ちなんだよ)
フレイが驚いている間にも映像は進む。領主が口を開いた。そこそこ立派な服を着た中年男性だ。
"勇者様に我が城をお貸しするのは我が家の名誉にございます。どうぞお使いくださいませ。ただ、お貸ししている間、我が一族もどこかへ住まねばなりません。ある程度それはご考慮いただきたく"
"無論ただで借りようなどとは思わんよ。期間は一年間、前払いで300万グランでどうか?"
どっかと大量の金塊やら宝石をぶちまける勇者。300万グランといえば相当の大金だ。城を借りる為とはいえ、そんな大金をためらいなく払えるとは大したものである。
"ようございます。どうぞご自由に"
恭しく領主が頭を下げたところで映像が止まった。マレットの説明が始まる。
「軍隊の規模が大きくなっていたので、その基地として城を借りる必要があったんですね。勇者様の話はスケールが大きすぎて想像しづらいかもしれませんが、店舗を借りる場合に前金で家賃を要求されることはよくあります。あれと同じですね」
そう説明しながら、仕訳を書いていく。単位は1万グランにして書くようだ。
城の賃貸契約スタート時
前払い費用(資産) 300 / 現金 (資産) 300
賃貸最初の月から12ヶ月目まで毎月計上。
家賃(費用) 25 / 前払い費用(資産) 25
「まず前払いで領主に300万グラン払うので、現金を減らします。これをいきなり費用にはしません。何故なら、あくまで費用はそれが便益、つまり費用に対する恩恵を受けた場合に計上するという考え方があるためです」
つまりウォルファートの例であれば、城を借りてそこに住めるというメリットを得ている期間に費用を計上するということである。
これがワンショットの費用、例えば彼がよく利用する綺麗どころがいる店ならそこで飲んだ時に「綺麗なお姉ちゃんと楽しく飲んだぜヒャッハー!」というメリットをその場で享受しているので、前払い費用などは考える必要はないのだ。
"一年間分、先に払っとくからよろしく! 皆愛してるよ!"などと勇者が言い出さない限りであるが。
「そして、この前払い費用を一ヶ月経過するごとに取り崩して家賃に振り替えていくわけですね。12ヶ月、つまり賃貸契約終了時の一年が経過した時には、前払い費用は0になっていなくてはなりません」
300万÷12=一月あたり25万グランの家賃だ。そしてこの一年の損益集計をすると、ちょうど300万グランの費用が家賃として計上される、という結果になる。
(ちょっと難しいけど、物によっては月々の費用としてならす支払いがあって、前払いしたからといってそこで一気に費用化してはいけないんだな)
フレイがペンでメモをとる。今書いた仕訳をなぞると、必ずしも現金がでていった時に費用を計上するわけではないことがわかる。
(現金の出入りだけ見ていたら、本当の損益って分からないってことだよなー。奥が深いぜ)
最終講義に相応しい内容だとフレイは思い、視線を前に向けた。
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(この講座ももう終わりかあ)
チョークの粉を払いながら、マレットはしみじみと考えた。春先に上司のクロックから講座担当を命じられた時には大変そうだ、とプレッシャーに感じたものだが今はちょっと寂しい。10人前後の生徒しかいないとはいえ、最後まで全員ついて来てくれたのは嬉しく思う。恐らく、この中のほとんどの人間とは会うこともないだろうけれど。
(フレイさんやソフィーさんとはどうなんだろう)
この二人とは講座以外で顔を合わせて、ある程度行動を共にしたと言える仲だ。フレイに気があるらしいソフィーは自分をライバル視している。それもあるから別に会いたいとは思っていないかもしれない。だが、フレイからはうっすらと好意らしきものは感じる。
バーニーズ事件の時、机でマレットが突っ伏して寝た時にフレイが毛布をかけてくれたことがあった。あの時まだ熟睡にまで至っていなかったので、マレットは毛布がかけられたことを覚えており、ちょっとだけときめいた。
人間として当たり前の優しさをフレイが発揮しただけといえばそれまでだが、意外とそういう優しさを持っていない、あるいは持っていても適切に見せられない男性は多い。マレットがそう考えているところだったので、余計に印象的だったのである。
(......フレイさんと一度ゆっくり話してみたいな)
このまま二度と会わないのは、ちょっと残念だと思う。しかし自分の方から声をかけるのはやはり気が引ける。厚かましい気がするのだ。
内心でため息をつきながら、マレットは最後の講義をしようと気持ちを引き締めた。
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実のところ、マレットとフレイのお互いの気持ちに気がついていたのはソフィーであった。傍から観察していたから分かるのだが、視線だけで二人は互いにちらちらと意識しているのだ。授業中はもちろん、休憩中も二人は直接は話していない。だがソフィーが見る限り様子がおかしい。
(あうあうあー......!)
講義を受けながら、ソフィーは内心で髪をぐしゃぐしゃにかきむしる。悔しい、しかし彼女は正々堂々とマレットと勝負したかった。姑息な手を使って恋愛に勝利するなどというのは、ソフィーの辞書にはない。
この講義が最終回である以上、どちらかがアクションを起こすだろうと予想はしていたが、それだけにこの空気の読み合いのような状況は針のむしろである。
(ああああ、フレイがこっちを見てくれないのは嫌だけど、煮え切らない二人を見てるのもイライラするううう!)
誤解のないように言っておくとソフィーはマレットが嫌いではない。人間的にはかなり好きである。
もちろん、だからといってフレイのことでは譲る気はないが、ライバルならライバルらしくきちっとしてほしい、と思っていた。
しかも隣に座る自分が好意を寄せている相手も煮え切らないのだ。ソフィーにしてみればいったいどうするのよ、と言えたらどんなにいいか。結果的に一人悶々とせざるを得ない。
そんな彼女の気持ちも知らずに、マレットの授業が次の内容――おそらく最終内容だろう――に移った。
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「最後は前受収益です。さっきの前払い費用と丁度対になる勘定科目といえます。それでは映像を進めましょう」
例によってマレットが水晶を操作する。勇者の映像が浮かび上がった。
"土地の一部を避難民に貸し与えるのですか?"
"正確には彼等の団体全部にだがな。月あたりなら格安にしておくが、一年分全部前金で貸そうと思う"
勇者とその側近が話している。勇者の言葉に側近は渋い顔だ。
"いかに月々ベースなら安いとはいえ、彼等が前金で払いますかね?"
"払うよ。もう行くあてもないのだから、それこそ身ぐるみ全て売ってでも土地を借りて生活基盤を築きたいだろう"
見ていたフレイは(無償で貸してやれよ)と思ったが、勇者は勇者で考えがあったらしい。
"今回もし俺の計算が正しければ、この土地賃貸の前金があればアウズーラ最終討伐軍の遠征費用が全て賄える! あと一年も待たずに勝負がつけられるんだ!"
おおっとどよめく側近達にウォルファートが頷く。
"奴さえ倒せば、魔王軍が持つ全ての軍資金が手に入る。避難民も含め全ての国民にそれをばらまけば生活も潤うだろう。だから、彼等にはそのためにも、今すぐに前払いで土地を借りてもらうんだよ!"
「すげーぜ、ウォルファート様」
思わず呟くフレイ。魔王討伐後のことまで考慮にいれた作戦とは奥が深い。伊達に会計知識と軍略を駆使してここまで来たわけではないらしい。
「いよいよ最終決戦手前というところですね。さて、この土地を一年間貸す際にその賃貸料を先に貰う。さっきお話した前払い費用とよく似ていますね。あちらは先に払って一年間かけて費用にしていく。対してこちらは」
ここでマレットが仕訳を書いた。
現金(資産) 240,000 / 前受け収益(負債) 240,000
「さっきと逆ですね。もらった現金が増え、その反対勘定に前受け収益という負債勘定を置きます。言い忘れましたが、ウォルファート様が前払いでもらった現金は240,000グランでした」
そしてここから、計上した前受け収益の取り崩しが一年間行われるのだ。
一ヶ月ごとに毎月、
前受け収益(負債) 20,000 / 賃貸料(利益) 20,000
と仕訳を切っていく。これが12ヶ月続き、最後には前受け収益の残高はゼロになるのである。一月あたりの金額が20,000になるのは無論240,000÷12ヶ月で計算するからだ。
マレットが説明を補足する。
「売上や利益は何らかの便益――サービスやメリットですね、を提供した時に計上するというルールがあります。今回の場合、土地を貸している期間に合わせて賃貸料を計上しなければいけないので最初前金を受けとった時は前受け収益で計上して、それを一年かけて崩して賃貸料という利益にしていきます」
前払い費用と合わせて覚えちゃってくださいね、と付け加えて、マレットはチョークを置いた。これで勇者様に学ぶ簿記は終わりか、と思うと、講義に参加する全員が何となく寂しい気分に襲われる。フレイやソフィーもその例外ではない。
だが、マレットが最後の挨拶をする気配も、映像水晶を止める気配もない。その代わり、足元に置いた鞄から人数分の紙を取り出した。
あっ、とフレイが気づいて思わず声をあげたのと、マレットが笑顔でパタパタとその紙をはためかせたのは同時。
「講義はこれで終わりなのですが、最後のまとめにテストをします。問題数は五問、制限時間はおおまけにまけて15分。特別に勇者様対魔王軍の最終決戦の映像を見ながらにしちゃいます。今から試験用紙を配ります。私が開始の合図をするまで、試験用紙は伏せておいてくださいね」
(よっしゃ、ここまでの修業の成果見せてやるよ)
(修業ってちょっと違うような......)
妙に張り切るフレイを横目で見るソフィー。そんな二人の前にも試験用紙は配られた。
「全員行き渡りましたか? それでは試験開始です」
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第一問
一個500グランで盾を10個仕入れ、すぐに一個1,000グランで販売した。10個全部売りきったとする。
仕入れから販売までの仕訳全てを記入せよ。なお、仕入れは買掛金、販売には売掛金を使うこと。
第二問
第一問目の仕入れに伴う買掛金を現金で払った。この仕訳を記入せよ。
第三問
30,000グランで買った工房が減価償却の対象となっている。残存価値を3,000グラン、償却期間を10年とした時、二年目が終了した時点での減価償却累計額はいくらになるか記入せよ。
第四問
売掛金4,000グランが計上されていた取り引き先が倒産した。何とか500グランのみ現金を取り引き先から貰ったが、回収出来たのはそれだけだった。この場合、この倒産を適切に表す仕訳を記入せよ。なお、貸し倒れ引き当て金は、十分に計上されているものとする。
第五問
馬を六ヶ月契約で借りることにした。一括前金で6,000グラン払った時の仕訳と、毎月記入する仕訳を両方記入せよ。なお、馬を借りる際の費用は乗馬費にすること。
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マレット先生のワンポイントレッスン
・ここまでの授業の中で、知識としては全て出て来たことばかりです。皆頑張ってください!
・第三問でつまずいた人は、一年分の減価償却がいくらになるかをまず仕訳にしてみてください。それを二倍すれば、二年分になりますよね? あとは問題文をきちんと読むこと。
・正解は次回まで待ってくださいね。
フレイ「きっと全問正解したらマレットさんがキスしてくれるご褒美が――!」デレデレ
ソフィー「横で妄想垂れ流して邪魔しないでよ!」ゲシッ
マレット「そこの二人静かにしてくださーい!」アセアセ