引当金 x 3
(今日で勇者様に学ぶ簿記も終わりか)
教室に入りながら、フレイはしみじみと教壇を見た。まだマレットは来ていない。ソフィーもまだだ。少し早く来すぎたのか、数人の聴講生がばらばらに机に座っているだけである。
(この講座に通ってなかったら、俺どうしてただろう?)
あの偶然見かけたチラシが全てだった。もっとも簿記でなければ他の何かをやってはいただろうけど、やはり運命の女神とやらに感謝せざるを得ない。
将来の道はなんとか見つかったと思う。あとは、これを自分のスキルに昇華させていけばいい。そしてあと一つ。
(神舞祭にマレットさんを誘おう!)
ある意味、今日1番のタスクである。この講座以外に接点が無い以上、もし今後も会いたいなら機会を自分から作りにいく。リーズガルデの援護を受け、フレイはそう決めたのだ。
ほんとに好きになるかどうかなんて分からないが、とにかく一回二人で会ってみたいという願望が心の中で疼いている。
「勇者様、もし貴方が俺に目かけてくれるなら、ちょっと勇気と幸運を分けてくれよ」
小さな声でフレイは呟いた。"俺は神様じゃないぞ!"というウォルファートの抗議の声が聴こえたような気がした。きっと幻聴だろう。
******
「幻聴じゃなかったぜ......」
「どうかしたの?」
「なんでもない」
左隣に座ったソフィーが怪訝な顔をしたのを、フレイは素早くごまかす。左をチラ見すると膝上15センチくらいのミニスカートから健康的な脚が伸びており、慌てて目を逸らした。
(こいつ、なんで今日はこんな格好なんだよ)
煩悩を振り払う。水晶球から飛び出した目の前の勇者の映像を、フレイはもう一度見る。先程自分が聞きとがめた台詞を、再びウォルファートが発する。
"俺は神様じゃないぞ! 辞める奴は引き止められない!"
部下からの報告を聞きながらため息をつき、ドカッと机に座り込む勇者。勇者というよりはむしろ、為政者のような風格があった。
"しかし、これ以上辞める者が出てくると、軍の維持が困難になりますよ"
"命が惜しいのは皆同じだ、残った者でやるしかないさ"
部下の悲痛な意見に腕組みをして答えるウォルファート。ある程度覚悟は出来ていたのか、そこまで慌ててはいない。
"辞める奴にはちゃんと退職金を払ってやれよ。引き当て金は計上してたはずだ"
「はい、いったん映像止めますね」
勇者が言い終わった後で、マレットが水晶球を操作した。ぴたりと映像が止まる。
「今、勇者様が言及した退職金引き当て金についてご説明しましょう。前回、貸し倒れ引き当て金について説明しましたよね。原理的にはあれとよく似ています」
「すいません、そもそも退職金って何ですか?」
聴講生が手を挙げた。(そこからかよ!)とフレイは思ったが、給料は全て日当で払われる職も世の中には多いのだ。知らない人間がいてもおかしくない。
マレットもそういう質問を予期していたらしく、丁寧に答え始める。
「仕事によっては一定期間勤めると、そのお仕事を辞める時にまとまったお金を貰える給与制度があるお仕事があるんですよ。その辞める時にもらえるお金を、退職金といいます」
へー、いいなあという羨望ともぼやきともとれる呟きがあちこちから上がる。退職金制度を導入している職種は、まだそれほどメジャーではないのだ。
「この退職金が発生する権利というのは、在職期間内に発生します。つまりお金がもらえるのは退職した時ですが、その理由自体は毎日の勤務なわけです」
その為、貸し倒れ引き当て金と同じ理由で、こつこつ退職金引き当て金を毎月計上していく必要がある。
マレットが黒板に向かう。
「次の例で覚えて下さいね」
退職金引き当て金繰り入れ(費用) 2,000 / 退職金引き当て金(負債) 2,000
(金額は仮)
「貸し倒れ引き当て金は資産のマイナス勘定でしたが、退職金引き当て金は負債です。どちらも通常右側に発生することには変わりありませんよ」
ここまで説明してから、マレットは水晶球を再度スタートした。
"今月の給与総額に一定レートをかけて、退職金引き当て金を計上だ。この前算定したように1.5%でいい"
いつもと違い、映像内の勇者が帳面に数字を記入していく。
今月の給与総額 200,000グラン
退職金計算レート 1.5%
今月の退職金引き当て金計上金額は3,000グラン(200,000 x 1.5%)
仕訳は
退職金引き当て金繰り入れ(費用) 3,000 / 退職金引き当て金 (負債) 3,000
なるほど、貸し倒れ引き当て金とよく似ているなとフレイは思った。月々計上するためのレートはまた別の複雑なロジックで組むらしいが、この講座では原則が分かればそれで十分だ。
勇者の映像を見ながら、マレットが話す。
「実際に退職する人が出て退職金を払う時の仕訳はこうなります。退職金を1,500グランとしましょう」
退職金引き当て金(負債) 1,500 / 現金(資産) 1,500
マレットが仕訳を書き終えたのを見計らってから、フレイは質問した。
「実際に退職金って、ウォルファート様の軍隊で支払われたんですか? なんか、戦死する人が多いイメージがあるんですけど」
「戦死も退職として扱われたみたいですね。実際、満期まで勤めて退職される兵士は稀で、大抵は戦死か自分から耐え兼ねて辞めるかがほとんどだったようです」
遠い目をしてマレットが答える。いつの間にか動き出していた映像には、ずらずらと並ぶ盛り土が無数に並んでいた。それらを前に勇者とその側近達が呆然と立ちすくむ。
"......何人死んだ?"
"およそ1,000人です"
答えた側近の胸倉を、ヒュッと伸びたウォルファートの手が掴んだ。そのまま宙に吊り上げる。慌てて他の側近が止めるが、勇者の目が恐い。
"正確に答えろ! 死者の一人一人が俺に命を預けて戦った大切な兵士だ!! 人の命はな、およそなんて言葉で説明つくもんじゃないんだぞ!"
ウォルファートの怒声を浴び、側近達が青ざめる。ああ、こういう人だから勇者なんだなあとフレイは感心した。単に武勇知略に優れただけでは、勇者には値しないのである。
******
講義は続く。今回が最終回なので、マレットも熱が入っていた。教える内容が多いのだ。映像水晶を展開すると違う場面に移った。立ち並ぶ兵士にウォルファートが何やら呼びかけている。
"諸君、常日頃よく頑張ってくれている。君達のその奮闘に応えて賞与を奮発することにした!"
その勇者の言葉に喜びを爆発させる兵士達。マレットが解説を加える。ちなみに今日は暑いので、ノースリーブの膝丈ワンピースに通期性のいいカーディガンという服装だ。大人可愛いとフレイは密かに思っていた。
「賞与とはボーナスとも呼びます。何ヶ月かに一回定期的に貰える特別な給与か、あるいは特別にご褒美として弾まれる給与のことを指し、通常の給与とは別に考えられます」
この賞与も、毎日の仕事の積み重ねにより発生する。故に、引き当て金の計上が求められる。
仕訳としては
賞与引き当て金繰り入れ(費用) xx / 賞与引き当て金(負債) xx
となるのだ。
「今の映像のウォルファート様が賞与を出す前に、それを払う為に引き当てていた賞与引き当て金があるわけです。このようになります」
毎月月末に
賞与引き当て金繰り入れ(費用) 1,200 / 賞与引き当て金(負債) 1,200 (数字は仮)
こう説明している間にも映像は進む。側近が何やら勇者に耳打ちしていた。
"ウォルファート様、今回の賞与ちょっと弾みすぎでしたな。今まで計上してきた引き当て金が足りませんでしたぞ"
"すまん。だが彼らの奮戦が無ければ、この度の勝利もなかった、やむを得んだろう"
とりあえず勇者はあまり反省していないようだ。しれっとした顔をしている。
「このように、急な賞与で引き当て金が足りない場合がしばしばあります。こういう場合は、不足分について、その時点で人件費を計上します」
マレットは振り向いて黒板に向かった。さらさらとチョークを走らせる。
例
今月末までに計上された賞与引き当て金 40,000グラン
今月支払われた賞与の金額 50,000グラン
「この場合、10,000グランだけ賞与引き当て金が足りないので、仕訳は次のようになりますね」
賞与引き当て金(負債) 40,000、人件費(費用) 10,000 / 現金(資産) 50,000
足りない分だけ追加費用が発生するわけだ。出来れば避けたいが、場合によってはやむを得ない。
「いやあ、賞与がある給与制度とかいいよなあ」
「素直に羨ましい」という声が聴講生の間からあがるのは、まだ賞与という概念がシュレイオーネ王国でも浸透していないからだろう。たまたま利益が多額に及んだ場合は、事業主が従業員に何か現物でプレゼントをあげたり、パーティーで還元したりする方が一般的なのだ。
(それを50年前に取り入れてるって、ウォルファート様は先見の明があったのかな)
フレイにしてみれば驚きだ。退職金も賞与もどちらも単なる給与の与え方の問題ではない。兵士のモチベーションを左右する大事な人事政策の一部である。つまり、彼の私兵団の生死に直結するのだ。
「アンクレス商会って賞与とかあるか?」
「確かあったような気がするわ。夏と冬の二回、業績連動で金額決めてたはず」
フレイが尋ねるとソフィーがさらっと答えた。彼女の実家は先進的な方らしい。
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「引き当て金について貸し倒れ引き当て金、退職金引き当て金、賞与引き当て金と三種類説明してきましたが、まだ別の種類があります。今度は製品保証引き当て金です」
マレットが映像水晶を進める。別の画面に切り替わり、ウォルファートが一本の槍を手に難しい顔をしていた。
"ああ、この穂先と柄の接合部分が緩かったのか。確かに不良品だな。修理の手配は?"
"はい、それはもう直ちに"
部下の報告に仕方ないというように頷き、勇者は首を振った。
"修理にかかる費用は、製品保証引き当て金から捻出しろ"
「残念ですが商会から販売した商品に不具合があり、それが保証により修理されることはあります。その場合は無料での修理になりますね」
マレットの説明はなくても分かるであろうが、こういうものはしつこいぐらいでちょうどいいのだ。
「こういう不良品の不具合に備えてあらかじめ計上しておく引き当て金を、製品保証引き当て金といいます。負債ですね。仕訳を書くとこうなります」
マレットが黒板に向かった。今まで計上してきた引き当て金とほぼ同じようだ。
製品保証引き当て金繰り入れ(費用) xx / 製品保証引き当て金(負債) xx
「では、実際にウォルファート様の映像を参考にしながら例を書いていきますね」
毎月ウォルファートは一定金額の製品保証引き当て金を計上していた。具体的には毎月3,000グランである。
製品保証引き当て金繰り入れ(費用) 3,000 / 製品保証引き当て(負債) 3,000
これがちょうど半年続いた時に、初めての製品不良が発生した。製品保証期間であったので、不良が発生した槍は無料修理対象となる。
この時点での積み上げた製品保証引き当て金は18,000グラン(3,000 x 6)
修理の為にかかった部品代や鍛冶屋に勇者の商会が負担した金額は、合計1,000グランだった。
製品保証引き当て金(負債) 1,000 / 現金(資産) 1,000
ということになる。
マレットが補足説明を入れる。
「この仕訳が終わった段階では、製品保証引き当て金の残高は17,000グランとなります。半年間で計上した18,000グランから商会が負担した修理費用の1,000グランを引きますから」
(なるほどねえ、要は販売した時点で修理の要因となる売上が発生しているから毎月計上するわけか。貸し倒れ引き当て金と基本の考えは同じだな)
仕訳を書きながら、フレイは頷いた。しかし、もし修理にかかる費用がそれまでに計上していた製品保証引き当て金の残高を超えたらどうするのか、と疑問に思う。
フレイの疑問を察した訳でも無いだろうが、この場合の仕訳はマレットが既に追加で板書していた。
パターン 1
足りない分を追加で製品保証引き当て金を積む。
足りない金額を500と仮定すると
製品保証引き当て金繰り入れ(費用) 500 / 製品保証引き当て金(負債) 500
製品保証引き当て金(負債) 500 / 現金 500
パターン2
足りない分を修理費という形で補う。
修理費(費用) 500 / 現金 500
「どちらも間違いではありませんが、簡単なのはパターン2ですね。パターン1だと仕訳二つ必要ですから」
マレットの説明の間に映像が切り替わっていた。次々寄せられる不良品の報告に、ウォルファートが頭を抱えているのだ。
"最近多いな。引き当て金は足りているが、このままでは我が商会の評判悪化につながる。工房の生産ラインを一度調べてみるか?"
そこまで考えた勇者は腕を組んだ。うむむと唸ると、自分の考えを否定する。
"ダメだな。一旦生産ラインを止めねば調査はできん。製品出荷前のサンプルチェックを厳重にして対応しよう"
眉を寄せて考えこむ勇者の映像を見上げながら、マレットが付け加える。
「勇者様が話していることは、生産管理や品質管理と呼ばれる類のことですね。簿記の知識には直接関わりないですが、将来的に学ばれる方もいるかもしれません。工房の管理をされる人は必要な知識です」
簿記を経理部が行う事務方の知識とするなら、生産管理や品質管理はまさに製品が製造される現場での知識だ。どちらもあるのが望ましいが、実際には両方理解しているものは少なく、実はマレットでさえこうした生産サイドは得意ではない。
また物作りにかかる費用を製造原価といい、これは売上原価とはっきり区別される。また在庫も原料、仕掛り品、製品と細かく区分される。それは勇者様に学ぶ簿記の範疇を超えているのでここでは教えられない、ということだけマレットは付け加えてから「休憩時間にします」と告げた。
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マレット先生のワンポイントレッスン
・製品の修理の為にかかる現金を製品保証引き当て金を使って落とす、と説明しましたが、修理用の部品を在庫から放出する場合もあります。その場合は
製品保証引き当て金(負債) xx / 在庫(資産) xx
で仕訳を切りますね。
・現金であれ在庫であれ、保証期間中の修理の為に減少した資産を仕訳の右側、左側に製品保証引き当て金と覚えれば難しくありませんよ?
・フレイさん、ちゃんとついてきてるかしら? ちょっと心配......ってダメダメ、講義中は特別扱いしないんだから。
物作りに関わる会計は管理会計といい、またちょっと違うのです。