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貸し倒れ引当金

「ようやく講座再開かよ。この前来たの、いつだ?」


 まだ日中の熱気を含んだ空気が残る中、フレイは教室の扉を開けた。質素な教室ではあるが、冷気呪文を利用した冷却装置はセットされており、教室の空気を幾許か心地好いものにしている。それが無ければ頭がゆだるのは間違いなかった。


「おー、兄ちゃん、久しぶりだな」


「あ、どうも。こんちわっす」


 講座で顔なじみになったおじさんが声をかけてきたので、フレイは返事をした。ちなみに自分が子爵家の三男というのは話していない。説明が面倒なのと遠慮されるのが嫌だからだ。


「前の回から結構あいたから忘れちまってるわ、ハッハッハ。早く覚えなおさんとな」


「や、ほんとそうですね」


 当たり障りの無い相槌をフレイは打つ。だが、相手はそれでフレイを解放してくれなかった。


「ところで兄ちゃん。あんた、マレット先生とソフィーちゃんのどっちと付き合っとるんだね?」


「......え?」


「まーたまた! とぼけた顔しよってからに!」


 おじさんの話すところによると、例のバーニーズ家の調査で三人一緒にいたところを偶然目撃した人が、この講座に通っている聴講生にいたのだ。平均年齢が比較的高めの聴講生の間で、これは格好の噂の的となり、講座再開までの期間で噂はおひれをつけて広がっていたのである。


 (何という面倒なことに)


 内心頭を抱えるフレイをよそにおじさん、いや、おっちゃんは機嫌よく話しかけてくる。


「あと二年くらいしたら、そりゃもうソフィーちゃんはいい女になるよ。じゃけど、マレット先生のあの大人の魅力も捨て難いわな。年上女房もなかなかええもんじゃぞ?」


「そ、そうですか」


「そうじゃよ。うちの母ちゃんもわしより二才上じゃ、けど今でも仲はええわ。特に夜の方も」


 そういう話はもっと夜が更けてからやれー! 声に出さずに突っ込むフレイ、そういえば心なしか周囲の男性陣の視線が冷たい。「リア充氏ね」「もげろ」という嫉妬の呟きが背中に刺さる。


 (どっちともつき合ってないんだよ! 何故俺がこんな目に)


 講座が始まる前に既に疲労感を覚えるフレイであった。



******



 三週間ぶりに教壇にマレットが立つ。途端に教室にピリリと緊張感が走る。一つ席を空けて左隣に座ったソフィーにフレイが軽く手を振ると、向こうも手を振ってくれた。


「色々ありまして間隔が空いてしまいました。申し訳ありません」


 まず深々とお辞儀をしてマレットが詫びる。講義が始まるまでガヤガヤしていた聴講生達も、今は静かになっていた。


「私が勤務する会計府から呼びだされまして、講義の方をお休みにせざるを得ませんでした。その分残す後二回をしっかりやって締めたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします」


 そういえば、そんなことをバーニーズ家の調査にかかっていた時に言っていたな、とフレイは思い出した。そろそろ無料で教えられる範囲は越えつつあるのだろう。知らなかった聴講生が軽くざわめいたが、幸い大きな混乱は無い。


「それだけ内容的には濃くなりますから、きちんとついてきて下さいね。今日はまず、貸し倒れ引き当て金についてお話します」


 例によってマレットが水晶球を操作した。勇者ウォルファートの姿が立体映像となり呼び出される。勇者は街の中に立ち、何軒か並ぶ店を眺めているようだった。


「そもそも貸し倒れるとは何の事か、からご説明します。売上を上げた時の仕訳は覚えていますよね。売掛金 xx / 売上 xx です。分かりやすく数字をいれるとこうですね」


 マレットが黒板に記す。1,000グランの売上が計上された時の仕訳だ。


 売掛金 (資産) 1,000 / 売上(収益) 1,000


 となる。


「通常、取引先は期日が到来するまでにこの売掛金分を払ってくれますが、不幸にもこの取引先が潰れてしまったり、又は何らかの事情でもう支払い不可になってしまった場合、この売掛金を取り消します」


 その場合の仕訳は


 貸し倒れ引き当て金(資産) 1,000 / 売掛金 (資産) 1,000


 とマレットは書いた。だが、これだと資産と資産が左右にくるのでプラスマイナス0だ。もう現金が回収出来ないので、事態としては明らかに損だ。なのに仕訳はそうなっていない。


 (そう、この説明だけならそういう理解になるのよ)


 マレットにすれば聴講生の困惑は織り込みずみである。フレイやソフィーでも、まだこれは知らないはずだ。


「実は、こういう不測の事態に備えて先に貸し倒れ引き当て金を計上しておく、というルールが簿記にはあります。なぜ事前に計上するかというと貸し倒れ、まあ多くの場合は倒産ですよね、の発生する理由や要因というのは、売上が発生した時には既に存在しているからです」


 ここは講義のポイントとなる。その為、マレットもじっくり説明することにした。


 倒産というのは、もう商人や商会が取引を続けられなくなった状態だ。現金が足りなくなるほど商売が立ち行かなくなったというのが、最もありふれている倒産の形である。残念ながらこうなってしまい、倒産というステータスに切り替わるのはある日ある瞬間を持ってなのだが、その倒産に至るまでの原因がどこにあるのか。それは日々の商売の流れの中にあるのだ。


 価格設定がまずかった。

 販路拡大が十分ではなかった。

 仕入れの価格が高すぎた。

 無駄な経費を使いこんだ。


 つまり入ってくるお金が少なくなり、出ていくお金が大きくなるという事態が恒常化する。それが何日も何週間も何ヶ月も続き、マイナスが蓄積された最悪の結果が――倒産なのである。


 倒産という破滅の根っこは、日常の中に生まれ徐々にはびこるのだ。


「それを考慮して、貸し倒れ引き当て金の計上は以下の通りです。ある時点の売掛金の残高に応じて計算し、それに対して仕訳を切ります。つまり恒常的にこの貸し倒れ引き当て金の計上は行わねばなりません。ちょっと例を書いてみましょう」


 マレットがサラサラと黒板に仕訳を書いていく。フレイはそれを理解しようと努めた。


・1月末、売掛金が80,000グランありました。

このうち2%が将来貸し倒れると考え、貸し倒れ引き当て金を計上する。


 貸し倒れ引き当て金繰入(費用) 1,600 / 貸し倒れ引き当て金(資産) 1,600


 ちなみに貸し倒れ引き当て金は普通は右側にくる。その為、負債と思いそうだが、資産のマイナス勘定として考えるのだ。


・2月末 売掛金の残高は75,000グラン。

同じように2%を適用する。


 マレットが教室を振り返った。ひょいひょいと注目を集めるようにチョークを振る。


「この時、この75,000グラン×2%で仕訳を切ると


 貸し倒れ引き当て金繰入 1,500 / 貸し倒れ引き当て金 1,500


 になります。でも、これだけだと半分だけ正解です」


 聞いているフレイの頭はクエスチョンマークでいっぱいだ。何故だ? 半分だけ?


「1月から2月まで取引先の倒産が一回も無い場合、計上した貸し倒れ引き当て金 1,600はそのまま残りますよね。そこに更に追加で1,500を計上すると合計で3,100が右側に残ってしまいます。ね? おかしいでしょ? 必要な貸し倒れ引き当て金は1,500でいいのに」


「そういう場合どうすればいいんですか?」


 挙手して質問したのはソフィーだ。普通にしている限り賢そうな美少女なんだが、とフレイは思う。


 ソフィーの質問にマレットが答えた。


「1月に計上した貸し倒れ引き当て金1,600を一回戻すんです。こんな感じで」


 貸し倒れ引き当て金 1,600 / 貸し倒れ引き当て金繰入 1,600


「つまり、2月はこの1,600を戻す仕訳で一旦貸し倒れ引き当て金の残高をゼロにして、また新たに1,500を計上し直すんですね。続けて書きましょうか」


・1月

 貸し倒れ引き当て金繰入(費用) 1,600 / 貸し倒れ引き当て金(資産) 1,600


・2月

 貸し倒れ引き当て金(資産) 1,600 / 貸し倒れ引き当て金繰入(費用) 1,600・・・1月の仕訳の逆仕訳


 貸し倒れ引き当て金繰入(費用) 1,500 / 貸し倒れ引き当て金(資産) 1,500・・・2月に改めて貸し倒れ引き当て金を計上


 (ほほう。なるほど)


 これで理解出来たとフレイは思った。要はその時々で最適な貸し倒れ引き当て金のバランスをキープするために一回計上→それを戻す→改めて計上、を繰り返しているのだ。


 2月だけ見れば、戻しの仕訳と改めて計上の仕訳の合計で


 貸し倒れ引き当て金(資産) 100 / 貸し倒れ引き当て金繰入(費用) 100


 となる。貸し倒れ引き当て金の必要残高が減った分だけ、費用の減少につながったということだ。


 マレットの補足説明によると、どういう基準で毎月必要な貸し倒れ引き当て金の金額を計算するかはケースバイケースだという。今回の例では簡便化のために売掛金全額に2%と適当な割合をかけて必要金額を算出したが、もっと複雑にしようと思えばいくらでも出来るらしい。


「勘定科目でいえば売掛金は一つですが、実際には各取引先ごとに枝番を用意して、売掛金をもっと細かく分けているのが普通です。なので、その細かく分けた枝番単位で貸し倒れ引き当て金を計算することも出来ます」


 やはりこういう話をする時のマレットは生き生きしている。


(例)

 売掛金ーバート薬店 は健全、1%で計算。売掛金残高 2,000グラン。

 売掛金ーアリティアのパン屋は普通、3%で計算。売掛金残高 1,000グラン。

 売掛金ーロクス工務店はちょっと不安定、6%で計算。売掛金残高は1,500グラン。


 この条件で必要な貸し倒れ引き当て金を計算すると20+30+90=140グランとなる。


 当然仕訳は


 貸し倒れ引き当て金繰入(費用) 140 / 貸し倒れ引き当て金(資産) 140


 とこのようになる。


「手間がかかるので取引先別に計算するのはあまりメジャーでは無いですけど、覚えておいて損はないですね」



******



 だいぶ前フリが長くなったが、勇者がこの貸し倒れ引き当て金について何をしたのかが重要だ。水晶球から映し出された立体映像を見ながら、マレットが話し始める。


「これらの店舗はウォルファート様の重要な顧客だったのですが、先日倒産してしまいました。残念なことに」


「倒産の原因はなんですか?」


 聴講生の一人が質問する。振り返ったマレットが答えた。


「魔王軍が組織的にこれらの店の仕入れルートを襲撃し、店に品物が並ばなくなったのです。仕入れが出来ないと当然売上もできません。結果として早晩立ち行かなくなります」


 えげつねえっ......!


 フレイは眉をひそめた。なるほど、武器や魔法をぶつけ合うことだけが戦いではないのだ。


「この時、これらの取引先にウォルファート様が持っていた売掛金の残高は25,000グラン。しかし、あらかじめ計上していた貸し倒れ引き当て金は20,000グランしかありませんでした。それだけ今回の倒産は痛手でした」


 ええー、と全員から声が上がる。回収不能になった売掛金を消込み、その反対勘定を今まで積んできた貸し倒れ引き当て金を取り崩して仕訳を切るのに、これでは貸し倒れ引き当て金が足りないのだ。


 (ソフィー、どうすればいいかわかるか?)


 (わかんない。あと足りない5,000だけ追加で計上するのかな?)


 ヒソヒソ声でフレイとソフィーが話す中、マレットが正解を出した。


 仕訳としてはこうなる。


 貸し倒れ引き当て金(資産) 20,000、貸し倒れ損失(費用) 5,000 / 売掛金 25,000


「貸し倒れ引き当て金が回収不能になった売掛金の金額に足りない分は、追加費用の発生ということで貸し倒れ損失という費用勘定を使います。これが必要になる事態になるということは、通常想定していた倒産発生の規模を上回る倒産が発生したということです。かなりよろしくないですね」


 貸し倒れ引き当て金を定期的に計上していくのは保守的に先行きを見込み、先に費用を計上しようという考えが会計の基本にあるからである。にもかかわらず、そのせっかく先に積んだ貸し倒れ引き当て金を越える取引先の倒産というのは、想定を越えるマズイ事態ということを指すわけだ。


 そこまで言ったところでマレットが水晶球に手を触れた。勇者の映像が動き始める。一時停止させていたらしい。


 "くっそ、魔王軍め......こちらの防備の隙をついて仕入れを妨害するとは。こうなればこちらも容赦しないぞ。奴らの武器の供給地を直接叩いてやる!"


 映像から漏れるウォルファートの呻き。歯ぎしりが聞こえてきそうだ。そして怒りの余りか、鎧に身を包んだその全身を白い光が覆い始める。雪のような純白のオーラは魔を払う清浄な光として平均的なシュレイオーネの国民なら皆知っているが、さすがは勇者、その放出量が桁違いだ。


 (あ、あれ?)


 映像内の勇者が放つ光を見ていた時、フレイの目に困惑が浮かんだ。その爆発的に広がる真っ白な光が、つい最近見た光景に重なってゆく。


 (あの俺を助けてくれた銀色フード、同じ光を放ってなかったか?)


 闘気や魔力を精錬してオーラにするのは、そこそこのレベルの冒険者なら持っているスキルだ。だからフレイがウォルファートの放つ光と謎の銀色の人物の光が同じ色だから、と同一視するのは早合点の可能性も高いのだが。


 なぜかその光景は、妙にフレイの脳に焼き付けられ離れなかった。



******



 ちょうどいいところまで進んだので休憩時間となった。冷却装置が働いているとはいえ、じっとりと空気が重く熱いことには変わりない。外に飲み物を買いにいったり涼みに行く者が殆どだ。


 飲み物を買ってくるというソフィーを見送り、フレイも外に出た。建物の外の空気もまだ昼間の熱気の残りを含んでいたが、幸い風があるだけまだましだ。夏は苦手なんだよ、と愚痴りながら、フレイは壁に背中をつけてもたれ掛かる。その視線がふい、と動く。


 (今は話しかけられないか)


 彼の視線の先、マレットが聴講生数人に話しかけられていた。休み時間の間の質疑応答というところだろう。声は聞こえないが、表情だけは見える。


 誰にも分け隔てなく丁寧に接し、教え方もわかりやすい。本業は会計府の役人なのだが、教師になってもやっていけるだろう。


 (今日も含めても、あと二回しかこの講座ないんだよな)


 そう考えると自然とマレットに会える機会は無くなってしまう。どうしようか、とフレイは迷った。


 ダンスも踊った。二人でご飯も食べた。バーニーズの件では一つ屋根の下で眠った(何も無かったが)。

 だが、それもこの講座が無くなれば自然消滅していく程度の関係でしかない。もし今後もマレットに会いたいと望むならば、自分から何らかのアクションを起こさない限り無理だ。


 会わなくてもフレイの人生は続く。もう簿記を覚えてこれから先の仕事を選ぶ上での主軸にするのは決めたし、私塾も選んだ。特にマレットと会う機会がなくても大丈夫だと思う。


 (けど、俺はそれを望んでいるのか)


 自問する。答えはノーだ。彼女が疲れて机で突っ伏した時に見た横顔や機嫌がいい時の笑顔を思い出してしまう自分がいる。


 恋と言い切るほどの自信は無い。だがまたマレットに会いたい、話したいという気持ちに嘘は無かった。


 (......まあ、声かけて断られたら、そん時はそん時か)


 具体的に何をどうやって誘うかはあとから決めよう。そう考えたところでちょうど休み時間は終わった。

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