フレイ、ソフィーと私塾を回る
マレットが昔を思い出しながら家路についていた頃、一人の男と一人の女は顔を見合わせていた。双方の顔に疲労が浮かんでいる。
「やっばり、一日に四つ全部見て回るのは無謀だったな」
「そうね、相当歩いたし」
げっそりした顔で言う男はフレイ、同じような顔で答える女はソフィーだ。フレイが手に持つ鞄を見れば、わんさか資料らしき紙が突っ込んである。随分と重そうだ。
事の発端は単純だ。前回の講座が終わった後、フレイがソフィーにもう少し専門的な簿記の私塾に入ることを考えている事を話したのだ。
「マレット先生に幾つかお勧めの私塾は教えてもらったんだけど、どれにしようか全く決め手がない」
「見学させてもらえば?」
迷うフレイをソフィーが後押しする。日を改め、二人は候補となる私塾を見学することにした。四つあるが、王都に点在している為、中々に大変である。
私塾に入ることを考えているのはフレイなので、ソフィーが付き合う義理はない。理由の半分はフレイにくっついていたいから、残り半分はもしかしたら自分も簿記を志すなら私塾に入るかもしれない、と漠然と考えたからである。
各私塾のスタイルは様々だが、座学と実務のコンビネーションという部分はどこも変わりがない。実際問題、簿記に必要な知識は基本的な仕訳の考えが頭に入っていればいい。それを応用する部分は無論あるが、帳簿をつける為の実務的な部分はまた別だ。
そのため、会計を生業とする職業人を育てることを目的とした私塾では座学だけではなく、実務かあるいはそれに即したテストケースを作成して塾生にやらせる。これはほとんどの私塾が、自分で会計担当者を雇う方針が無い貴族や商会の会計業務代行を請け負ったり、アドバイザーをしているから可能なことだった。
「塾生っていうか兼見習いなんだな」というのがフレイの感想だ。
そして、朝から駆けずり回った二人は足を棒のようにしてようやく夕暮れの王都を帰路につき、今に至る。
(自分から言い出したことだし、俺が気にかけることじゃあないが、大分疲れてるみたいだな)
ちらりと横を歩くソフィーを見ながら、フレイは考えた。
最初ソフィーが自分も一緒に見て回ると言い出した時は、ちょっと邪魔かもと思った。だが、いざこうして肩を並べて歩くと、自分の理解者が出来たようで悪くない。
少しは好かれているのか、とフレイ自身思わないでもないが、残念ながら現時点でフレイは恋愛感情をソフィーに抱いていなかった。
(結構かわいいけど、そもそも俺そんなことにうつつを抜かしてる場合じゃないんだよ)というのがフレイの本音である。とはいえ、自分の用事についてきてくれたソフィーに気遣い出来ないほど、フレイは空気の読めない男ではなかった。
「おごるから飯行こう」
「はい? 今なんて?」
ソフィーは耳を疑った。ピクンと眉が跳ね上がった。
「おごるから飯行こうって言った。朝から付き合わせて悪かった、ありがとう」
「やったー、フレイ大好きー」
現金な奴だと思いつつ、フレイはソフィーを伴い足早に適当な店に入っていった。
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適当にオーダーした後、二人はほっと一息ついた。座ると気が抜けたのか、背中から腰にかけてどっと重い物が椅子の座面に落ちていくような気がする。
「入ってからいうのもなんだけど、おごってもらっていいの?」
「気にするなよ。臨時収入があった」
「臨時収入?」
いぶかしげな顔になるソフィーだが、すぐに思い当たる。講座の折に、フレイが冒険者の真似事をしていたと言っていたではないか。なるほど、フレイの少し日焼けした顔はそのせいか。
商人の娘であるソフィーは、残念ながら戦いの雰囲気や気配というものに疎い。けれども見る人が見れば、フレイが少しだけレベルアップしたことを言わずとも察することは出来ただろう。
「あたしはあんまり魔物の強さとか詳しくないけど、ゴブリン20匹を一人で相手にするってずいぶん無茶なんじゃない?」
「装備が良かったからな。でも、ちょっと過信してたかもしれない」
「まあ、その依頼報酬のおかげでこうしておごってもらってるんだしね。お説教は出来ないわ」
「そうだろ? けどやってみて分かったね。実際に自分の身に起こったことじゃないとさ、知識が上滑りするってことが」
これはフレイの本心である。ごく短期間とはいえ、実際に命をベットして冒険を行った。そこで発生したやり取りを仕訳にするのは、中々に緊張感があった。紙の上だけで仕訳を目にしても、現実感が薄いのだ。
ソフィーもそれには同意する。
「そうね。今日実際に実務に近い形で講義受けてみて、知識だけじゃ実践には足りないって分かったし」
見学させてもらった私塾で二人は講義だけではなく、そこで行っている実務形式の勉強にも参加させてもらっていた。ケーススタディで発注書、請求書、発注した物の受取確認書の三点をマッチさせ、その上で必要な仕訳を計上したのだ。これは買掛金業務の実務の基礎である。
仕訳だけなら二人とも出来るが、実際には棚から棚へ必要な書類を集めて、かつ仕入業者ごとにそれらをファイリングするという手を動かす業務は慣れの問題が大きい。「これらを繰り返すのが会計を生業とする仕事の大半を占める」と私塾の講師は言っていた。
「どんな仕事でもそうじゃが、知識だけじゃ会計は出来ないんじゃよ。必要な知識が根底にあるのは前提、日々繰り返される単調な実務を安定してこなす粘り強さも、会計担当者には求められるのう」
ある私塾の講師はそう言ってホッホッと笑った。老人といって差し支えないその講師はフレイとソフィーに「入塾する気があるならいつでも歓迎じゃよ、若い人がこういう地味な仕事に興味を持ってくれるのは嬉しいのう」と送り出してくれた。
それを思い出しながら、フレイは言う。
「結局さ、今あの講座で教わってることって簿記という学問であって、仕事自体じゃないんだ。この先何をやるにせよ、実務に近い形で学べた方が為になるとは思った」
「それはそうよね。将来的に会計を中心とする仕事をするなら、私塾はいいと思う。あの先生だって私塾の塾生が評価されて会計職に就くケースは多いって言ってたし」
「一種の職業斡旋所のような側面があるからな、私塾ってのは」
フレイとソフィーの言う通り、専門的な学問を実務に即した形で教える私塾の塾生は、採用する側から見れば魅力的だ。学問の知識と実務的な部分両方を、彼らは持っている為だ。
だから私塾に入るということは、そういった職種に就くことを目的とする者も多い。フレイの言うように、現在フリーの人間にとって職業斡旋所に近い性質があるのも事実である。
ソフィーが口を開いた。
「フレイは学府には行かないんだ? 行こうと思えば行けるんじゃないの?」
「んー、そりゃ、無理すりゃ行けなくはないけどさ。推薦状は義兄さんに書いてもらえばいいし」
どことなく歯切れの悪いフレイ。ソフィーは紫色の瞳を細めた。いつの間にか頼んだエールのグラスを片手に質問を重ねる。
「学府に行った方が将来性あるんじゃない? やっぱり王立の機関卒の肩書は大きいと思うわ」
「......俺の求める道じゃないんだ」
フレイはグラスを掴む。彼のグラスの中身は濃い飴色の酒だ。強い芳香が店の空気と混じる。
「王立学府卒という肩書はそりゃ強力さ。きっちり体系だって学ぶことが出来るし、簿記の知識をより経営に生かす為の経営学だって修めることが出来ることは知ってるよ」
そこまで知ってるなら何故行かないのか。ソフィーの疑問は当然である。だが、フレイがまだ何かいいたげなので敢えて黙った。エールを一口啜る、ほろ苦い、だがお子様向けの淡い味わいだ。
「学府卒の時点で次に来るのは、国関係の仕事に就くことだ。より貴族に近い立場で働かなきゃいけないし、権力争いや根回しなんかにも気をつけなきゃいけなくなる。子供っぽいかもしれないけど、それが好きじゃないんだよな」
実家(デューター家)が貧乏子爵だったから、とフレイは付け加え、グラスの酒をあおった。強い香気が喉ではじける。
フレイ自身、学府に行くことに何故強い抵抗があるのかはよく分かっていない。あえて口にすれば、さっきソフィーに言ったようになるだけだ。だが一つ分かっていることは、自分が貴族というものに憧れなど一つも持っていないということだった。
老いた父を想う。総じて豊かとはいえないデューター家の領地を想う。それが才能の限界だったと言われればそれまでだ。けれども、貴族だからといって一概にいいものだとは、フレイにはとても考えられなかった。
「大切なのはさ、自立を可能にする技術や知識なんだよ。俺は多分、権威や権力が好きじゃないんだ」
そういうフレイの目になんとも言い難い感情が混じっているのを認め、ソフィーはどう声をかけていいか分からない。だが、気づかないうちにその目にひきこまれそうになる。自覚――ハッと意識を引き戻す。
(フレイ、こんな顔もするんだ)
とくん、と心臓が鳴ったような気がする。慌ててお子様向けのエールを含んでごまかそうとしたが、なかなかその感覚は収まらなかった。