マレット、夕陽に思う
会計府に勤務するマレットの日々は、単調といえば単調だ。
朝起きる、朝食を摂り薄い化粧をしてみだしなみを整える。彼女は王都の自分の部屋を出て、会計府の建物へと急ぐ。やってくる書類と格闘しながら帳簿を手にとり、必要とあらば他の府の担当者と話をする。
昼食と午後の短い休憩を覗けば、彼女は大抵自分の机にいる。良く晴れた春の一日など、ふと目を上げれば窓から差し込む柔らかい日差しに目を細めることもある。だが大抵彼女は気にもとめず、仕事に没頭しているのが常だった。
(でも仕事一色で塗り込められた人生、というほどではないか)
ある日の午後、休憩時間となり中庭に出た時のこと。マレットは首をゆっくりと回しながらふと考えた。確かに自分の生活は仕事が中心にはなっている。だが寝食を忘れて没頭するほど心身が摩滅しているわけでもなく、休日にはきちんと休みをとっている。一応趣味もあった。
せいぜい仕事熱心な女という評価が妥当なところではあるまいか、というのがマレットの自己評価であり、彼女なりに人生を楽しんでいた。
だが、同僚や上司から言わせると、それでは足りないらしいのだ。何か重要な物が。
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「マレット君、マレット君」
背後からかけられた声、それに反応してマレットは振り返った。視線の先には、よく見知った小太りの中年男性の姿があった。
人の良さそうな笑みを浮かべ、男はマレットの向かいに座る。特に許可を得ない程度には、男とマレットは面識がある。どころかほぼ毎日会っている。
「......何か、クロック所長」
鳶色の目を向けながら、同色の髪が風で乱れそうになるのを手で抑える。風薫る季節になったと思いつつ、マレットは男のニコニコした顔を正視した。
そう、この男、クロックはマレットが勤務する会計府の上司なのだ。だから会うのは職場限定であり、怪しい意味は特にない。愛妻家のクロックがマレットを危ない関係に引きずりこむこともなく、仕事をするという意味ではやりやすい上司であった。
ただ一点を除いては。
「君、見合いはどうかね? この前のパーティーで出会った男性との仲が芳しくないようなら、私が良い相手に声をかけて席を設けるよ」
「別にいいです」
せわしなくぷにょぷにょした手を動かしながらクロックは話しかけてくる。だがマレットの返答はにべもない。上司に対して素っ気なさすぎるとすら言える返答だが、こういったやり取りはマレットとクロックの間では日常茶飯事だった。
「そう邪険なことを言うものではないよ!? いいかね、人として生まれた以上、愛する人を探し、結ばれ、家庭を持つのは当然求めてよい権利なんだよ、マレット君。仕事だけに埋没している部下の姿を見て、心痛に悩む私の身にもなってくれたまえ」
「その割には、最近またふくよかになられたようにお見受けしますが」
「これは幸せ太りだよ」
所長、幾つですかと喉まで出かかった言葉を、マレットはぐっと抑えた。いくら言ってもこの人には通じないし、堪えまい。
(これさえなければ、ほんと良い上司なんだけど)
そう、クロック所長の困ったところは、善意の押し売りをする点である。全く見返りを求めず、だが相手の言葉を聞かずにごりごりと押し込んでくる馬力にしばしば負けそうになる。最近は慣れてきたので何とかいなしてはいるが、強敵には違いない。
だが相手もさるもの、そんな部下の抵抗は露ほども気にはせず、あの手この手で幸せの伝導師となっているのだ。世間一般から見れば、クロックの過剰な親切はむしろ微笑ましい部類に入るのだが、これでもかと言われるマレットにしてみれば、正直ありがた迷惑だった。
「まさかマレット君、うら若い君が好きな相手を探す気もないほど――その、枯れているわけじゃないだろうね」
「そんなわけないじゃないですか。ただ無理にしゃかりきになれないだけで」
この柔らかい反論は、クロックの耳に入らなかったようだ。
「そうか、そうか! ならどんどん進めよう、がんがんトライしよう! 挑戦の数だけ良い相手に巡り会う可能性は広がるからね、遠慮することはない、私がその機会をばんばん作るよ!」
擬音だらけの言葉が弾けた。目をキラキラさせて説得しにかかる上司を前に、マレットは反論するのを止めた。するだけ無駄だと分かったからだ。黙ってスルーするに限る。
一人で盛り上がる上司が向こうを向いた隙に、マレットはそっとその場を離れた。「お先に失礼しまーす」と小さく呟いて。
今年の春も心地好い暖かさだ、とマレットは職場から家への道を歩きながら思う。ここのところ日が落ちるのが遅くなったおかげなのか、まだ夕焼けの最後の残滓が西の空にたゆたっている。
ブルーに染まりゆく空に抵抗するように、赤く燃える太陽がじりじりと地平線にしがみつきながらも落ちていく。夕暮れという光景は儚い美しさに満ち溢れている、といつもマレットは思う。
(あの日もこんな夕焼けだったわ)
歩きながらマレットは記憶の底を辿る。甘く、そして苦いそれは――今もマレットの心を刺激してやまなかった。
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とある私塾で会計を学び終え、マレットは18歳の時に地方の貴族に仕えることになった。領地経営の為に商会を作った貴族がおり、都合良く経理担当者を募集していたのだ。それに応募したマレットは実務は未経験だったにもかかわらず、運よく採用された。
後から聞くと、会計の基礎知識さえあればとりあえず最低条件はクリアと判断し、あとは面接の印象で採用を決めたとのことだった。
もともと勤務先にさしたる希望も無かった。だから、マレットにとっては若い女性が渋りがちな地方での勤務も、苦では無かった。両親に「行ってくるわ」とだけ告げて赴いてから、彼女は初めて自分の力でお金を稼ぐ厳しさと楽しさを、初めての職場で学んだ。
百枚近い伝票を一人で処理し手が荒れたこともあれば、棚卸をした時に数えた数量を帳簿に間違えて記入し、それで大目玉を食らったこともある。
「知識だけじゃあ一人前の経理担当者には足りないんだよ。手と頭、両方動かせ」と当時の上司には口すっぱく言われたものだ。
やがて季節がうつろい一年が経過した頃、ふとした弾みでマレットは恋に落ちた。相手は商会のオーナーである貴族、その人。華やかではないが、堅実に自分の領地を経営するだけの手腕のある地方領主の伯爵。
親しくなったきっかけはありがちだ。お使いで何度か書類を運んでいるうちに一言二言は挨拶するようになり、やがて伯爵がマレットに目をかけるようになった。
「君にあげたい物があるんだ」という言葉と共に渡されたトパーズのついた銀細工のブローチは、伯爵にとってはほんの些細なプレゼントだっただろう。けれども19歳のマレットの心を強烈に揺さぶるには十分過ぎた。
自分でも分からない感情が胸の内で燃え上がり、それが全身に広がる。初恋ではなかったものの、それに勝るとも劣らない鮮烈な恋の味覚はたちまち彼女を魅了した。
(......伯爵(あの人)に奥様がいることさえ、どうでもいいと思ってしまう程に、ね)
回想の淵に心を泳がせつつ、マレットは口許を僅かに歪めた。それが自嘲か、あるいは悲しみなのか自分でもよく分かっていない。
分かっているのはただ一つ。己が何も見えていない小娘だったということだ。
立場ある貴族ならば、正妻の他に公認の愛人を持つことはよくある。男の甲斐性として奨励されることさえあるくらいだ。ましてや遊びで使用人に手をつけるくらい、それこそ掃いて捨てるほどあること。
それをマレットは分かっていなかった。いや、頭では分かっていたのだろうが、体と感情は理解を拒んだ。その結果、伯爵との関係に溺れてしまった。
今思えば、伯爵の妻も知っていて黙認したのだろう。伯爵自身も若く、それなりに知的で健気なマレットとの恋愛ごっこを楽しんでいたのだろう。残念ながら、それを察したのは伯爵家を去った後の事である。
そういう視点で見るならば、伯爵は一緒にいる時は優しく、無理にマレットに迫ることもない良く出来た貴族の方だと今ならマレットも分かる。
だが――まだあの頃の彼女には無理だった。伯爵との関係は魅力的で、楽しく、時に官能的な色彩を彼女の生活に添えてくれた。けれども甘い蜜は毒となる。会う度に苦い感情を感じるようになったのがいつ頃だったのか。はっきりとは覚えていない。
ただ、自分はもう無理だなと自覚した瞬間は別だ。伯爵と同じベッドで目覚めたある冬の日だった。隣で眠る伯爵の裸の胸に自分の頬を擦り寄せ、その体温を味わいながら、頭の片隅でマレットは(もう止めよう)と誓った。
こういう関係を続けていける人も、世の中にはたくさんいる。
それを知っていて尚、マレットは自分には無理だ、とその時はっきり考え、そして決断したのだ。
「辞めたいと思います」
そう告げてからの日々は飛ぶように早かった。自分に一から経理の基礎を叩きこんでくれた上司は、マレットと伯爵の関係を薄々知っていたようだが、表にはそれをださず「そうか」とだけ言ってマレットの出した辞表を受け取った。
「辞める理由、聞かないんですか?」
「お前が辞めるというなら、それなりの理由があるんだろう。俺はお前を信用している。だから気持ちよく送り出してやることが、上司としての最後の仕事だ」
上司はそう言ってくるりと向こうを向いた。 不覚にも目に滲ませかけていたので、それが有り難かった。泣き顔など――この上司に見せてはならない。
「三年間、良く頑張ったな。マレット」
「......ありがとうございます」
幾分返答する声が湿っぽくなったのは、仕方がないだろう。
最後の日の夕方、マレットは商会の建物を出た。餞別の品を入れた鞄を背中に、彼女は王都まで走る乗り合い馬車の停留所へとてくてくと歩いた。一人そこで最終便の馬車を待つ時間は、嫌でも感傷を呼び込む。
なんとなく首を巡らせると、遥か遠くの地平線に沈みかける太陽が映る。赤く燃える最後の残光が濃紺の空とコントラストを描くのを見ながら、マレットは目から零れた水滴がツツーと透明な跡を頬に残していくのを感じた。
「さよなら、私の職場......さよなら、私の過ごした日々」
その短い言葉だけを残して、彼女は馬車に乗り込んだ。
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「若かったのね」
暮れかけた春の街を歩きながら、マレットは昔を思いだしていた。そう、若かったのだ。
王都へと移り、運よく会計府の仕事について早くも三年が経過する。今年で24歳になるマレットは世間一般の基準でいえば、やや結婚適齢期を過ぎかけている。それが全く気にならないわけでもない。
だが、それはそれとして、今の自分をそれなりに気に入っているのも事実。
仕事に打ち込めば、あの時の痛みは忘れられた。それなりに評価もしてもらっているようだ。
あの時はもう二度と恋などするもんかと思っていたが、月日の移ろいが心を癒してくれたのだろうか。最近は新たな出会いにも少しは興味が出てきた。
流石にクロックのこれでもかと言わんばかりの恋愛至上主義は受け入れられないが、恋愛自体を否定するつもりもない。そこまで枯れてはいない。
ぼちぼち自分も踏み出す時だろうか。そう考えつつ、マレットは毎日を過ごしている。
(三年もあれば、結構人も変わるものよね)
あの日を思い出させる夕日が沈みきるのを見届けながら、マレットは家路を急いだ。王都の交通を支える石畳が敷き詰められた大通りを、彼女は歩く。同じように、職場から家へと歩く人々の群れに混じりながら。
今回は主人公が不在です。