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フレイ、真に受ける

 ソフィーが自宅で召し使いのケイト相手に相談していた頃、フレイとマレットは二人で話していた。場所は講座が行われた教室からほど近いとある料理店である。立ち話もなんだからということで、フレイがマレットを誘ったのだ。


「リストの方、どうもありがとうございます」


「いえいえ、これくらいならお安い御用ですよ」


 フレイの礼を聞いてはいたが、マレットの注意はむしろ自分の眼前の料理に向かっていた。メインの鶏のオレンジソースをかけたグリルは、果物の芳醇な香りが鶏の香ばしさを引き立てている。堅苦しくない程度に小洒落た店だ、雰囲気同様に肝心の料理の味も悪くない。特別食いしん坊なわけではないマレットだが、会計府での通常業務をこなした後で講座もこなせば、やはり人並みに空腹にはなる。


 眼前のフレイも横に置いたリストをちらちらと見ながら、フォークとナイフを動かす手を止めていない。貴族らしく美しい所作であり、それが嫌みにならないのは彼の醸し出す人の良さであろう。


 唇に着いたソースをナプキンで拭う。一息ついたこともあり、マレットが口を開いた。


「私がそこに書いた四つの私塾ですが、会計府の推薦をもらっているところでもあります。学費はそう安いわけではありませんが、いい加減な授業はしないはずですよ」


「誰でも入れてくれるものなんですか?」


「授業料さえ払えば問題ないはずです。断られた話は聞いたことがないので」


 簿記によらず何かしら学問を教えてくれる私塾は大抵そうである。これが王都が運営している学府ならば、入学試験が課されるため一定のレベルに達していない受験者は落とされる。もっとも一度落ちても再受験の回数に制限はないので、学力を上げてから再チャレンジする者も多い。


 大規模な戦乱が去った今、シュレイオーネ王国が力をいれているのは知識層の拡充であった。遠回りになるかもしれないが、それが国力を増強し、税収の増加につながるだろうという現実的な考えが根底にある。そして学ぶ機会が比較的オープンなのは悪いことではない。



 私塾の名前と住所、主催者が記されたリストさえもらえば、フレイにすれば十分なはずだった。けれども、色々と便宜を図ってくれたマレットへのお礼も兼ねて食事に誘ったわけである。そこに全く下心がなかったかと問われれば本人も「......いや、どうなの?」と困りながら答えるしかないところではあろう。


「会計府の仕事って忙しいんですか?」


「そうですねえ、時期によります」


 パンで皿のソースを拭いつつ、マレットは答えた。かなり美味だ。とりあえずこの店を教えてくれた分に応えるだけの情報は、素直に答えるつもりであった。


「まだあの講座では教えていないんですけれど、帳簿をつけていくとある時点でその帳簿を締めるんですよ。その締めの時期は忙しいですね」


「締めるって?」


「ああ、そうですね、こう言えば伝わりやすいかしら。ある一定期間に記録した全ての仕訳を全部集計します。具体的には、同じ勘定科目ごとに数字を合計して、勘定科目ごとに最終合計値を出すことを指します」


 フレイは少しだけ考えた。


「何となく分かります。それをしないと一定期間の間の売上とか費用が分からないから商売で儲かったか損したか分からないし、期間が終わった時点で資産がいくらあるとかも分からない。だからそれを行うわけですね」


「フレイさんは察するのが早いですね。別の言葉で言えば、その締めた時点での国や商会の実力、あくまで会計的な意味での実力ですね、を測るということです」


 そうか、とフレイは気づいた。仕訳一つ一つだけでは何が起こったのかを記録するだけだ。実際には幾つも幾つも仕訳を起こすのだから、それをどこかの時点で合計しないと意味がないのだ。


 (点を線にするイメージかな)とフレイは考える。


「で、その締めの時期は何で忙しいんですか?」


「単純に記録する仕訳が多いからですね。通常の締めは一ヶ月単位で行いますが、会計府は他の府が使った費用の計上も行ったりもします。それもあって、月末にならないと使った費用の連絡が会計府まで届かないんです。他にも一ヶ月が経過してある勘定科目が集計されてからその数字を基に作る仕訳もありますから、結構大変なんですよ」


 大変と口ではマレットは言っているが、表情は楽しそうだ。自分の仕事のことを聞いてもらうのが嬉しいからだとは、本人も気づいていない。


 そんなマレットの表情を見て、フレイは羨望とも焦りともつかない感情に駆られていた。(充実しているからこんないい顔になるんだろう)と勘違いしたからだが。実のところ、マレットも仕事でそんなに良い思いはしていない。けれども彼女は職場の愚痴をよく知らない若い男性に話すほど常識しらずではないので、それはフレイの知るところではない。


 フレイの質問が続く。


「締めはその一ヶ月単位のものだけですか」


「いえ、他に三ヶ月ごとの四半期締め(クオータークロージング)と年末締め(イヤーエンドクロージング)があります。基本が月締め(マンスリークロージング)ではありますけどね」


「はー、大変なお仕事ですねえ」


 そう言いつつも、フレイは会計府独特の仕事はあるにせよ、簿記を業務の中心にした職業につくと、その締めというサイクルで仕事をすることになるんだろうな、と考えた。極端な話、帳簿を締めるだけなら毎日仕訳をつけなくても、その月締めの時に一気につければ締まるのである。


 それをマレットに言うと「極端に言えばそうですね。ただ一気にやると量が量なのでオーバーワークになってしまいますが」と少し困ったような顔で言われてしまった。




 食事はそのまま進み、最後のデザートが出てきた。木苺を潰したペーストが載せられた小さなパンケーキは、この店の自慢のデザートである。その甘酸っぱさを楽しみながら、フレイが質問する。


「あの勇者様に学ぶ簿記に通ってるうちに、多少仕訳の作り方は分かってきたと思うんです。ただ、紙の上だけで理解しているだけだから実感がないんですが、どうしたらいいですか?」


 マレットは同じようにパンケーキをもぐもぐしながら考え、飲み込んでから答えた。


「本当は実際に商売をしてみて、その中で覚えるのが一番なんですよね。だけど、そうもいかないですからね......あ、例えば」


「例えば?」


「ウォルファート様と同じように、魔物を倒してみてそこから得るグランを仕訳にしてみてはどうですか? まさに体で覚えるから絶対忘れないと思います」


 実のところ、マレットはこの時本気でフレイがそんなことをするだろうとは思っていない。なるほど、このシュレイオーネにも減少したとはいえども、まだまだ魔物は生息している。街道から外れた地域ならば王都の近くでも遭遇することがある。


 ほとんどは低レベルの弱い魔物だが、深い森や山奥、魔物が生じやすいダンジョンの奥などには結構強い魔物がうろうろしていたりもするのだ。人が普通に生活している限りは遭遇しなくて済むが、言うことを聞かない子供に「言うことを聞かないと谷底に放り込んでドラゴンの餌にしてしまうよ!」と警句すれば、一定の効果は期待出来る。その程度の現実感を持って、魔物が人の生活圏の周辺に存在している世界だった。


 そして魔物と戦うというのは真剣勝負。すなわち命のやり取りだ。それはこの世界に住む人間誰もが知っていることだった。


「勇者様と同じように、か......」


 だからマレットの言葉を聞いたフレイが妙に真剣な顔になっているのを彼女が見逃しても、それは責められないことであろう。



******



 翌朝。


 朝日と共に起き、フレイは屋敷の庭に出た。いつもの素振り用の木刀は手にとらず、庭の片隅にある倉庫に向かう。フレイの片手にあるのは一本の古い鍵。

 それを倉庫の錠に差し込み、ぐいと捻ると古ぼけた錠は簡単に開いた。


「うっわ、かびくせえな。掃除してないだろ」


 手で埃を払いながら、薄暗い倉庫に踏みこんだ。目の前のうっとうしい蜘蛛の巣をどけて、隅に押し込まれている重そうな箱を手に取る。人一人入るサイズの大きな木箱だ。鍵はかかっていなかったので、フレイは力をこめてその蓋を押し上げた。


 ギィと古ぼけた音を立てて蓋が開く。倉庫に差し込む朝日に照らし出され、箱の中身がフレイの眼前に現れた。


「ああ、前に聞いてた通りだな。この剣と鎧、借りていこう」


 鞘に包まれた両手持ちのバスタードソード(柄が長く片手でも両手でも扱える長剣)が一本、それに黒い艶消しが塗られた革鎧が一式鎮座している。

 フレイは慎重に手を伸ばして触れる。今まで真剣は手にしたことはないが、両手なら無理なく扱えそうであった。鎧もサイズ調節すれば着れそうだ。


「勇者様に学ぶ簿記っていうなら、まんま実体験して学んでやるよ」


 昨日マレットから言われた冗談を真に受けたのである。ハイベルク伯爵家に使われていない武器、それも高位の魔力付与(エンチャント)がかけられた逸品があったのを思い出し、それを借りて魔物討伐を決意したという訳だ。


 ブライアンとリーズガルデにも承諾はとったので、そのあたりは心配ない。流石に、せいぜい街道に近い辺りで出る弱い魔物だけを相手にするようには言われたが。あるいは、フレイが本気だとは思っていないのかもしれない。



 フレイは生まれて初めて真剣を手に取るが、最低ランクの魔物ならば、ど素人の農民が農機具を振るって勝てるような強さだ。装備さえしっかりしていれば負けることはないだろう。




 一時間後、装備を整えたフレイはリーズガルデに見送られて屋敷を出た。彼の決意を讃えるかのように、空はどこまでも青い春の朝のことであった。




******




「確かこのバスタードソードが10,000グラン相当で、革鎧が8,000グラン相当とリーズ姉が言っていたから、仕訳は、ええっと」


 フレイは王都から東へ延びる街道を歩いている。ぶつぶつと呟いているのは、仕訳のことを考えているからである。


 ウォルファートも冒険の最初に武器を貰った時、それを帳簿に計上していたので、見習おうというのだ。


 剣 10,000 / 利益 10,000


 鎧 8,000 / 利益 8,000


 これが、彼が借り受けたバスタードソードと革鎧を記録するために必要な仕訳である。しかし、フレイは左側に剣や鎧(勘定科目としては資産に属する)を記録するのは理解していても、右側が利益か資本かで悩んでいた。


「確か勇者様は資本で計上してたけど、あれは王様から貰ったからだったっけ? 俺の場合は一時的にとはいえ手に入れたわけだから、資産の増加を利益で記録すればいいのか?」


 簿記を知らない者からすれば、全く意味不明の独り言である。ちなみに装備の質だけをとれば、フレイの装備はとてつもなくハイレベルだ。


 バスタードソードは、魔鉄を精練しそこに切り裂き(スラッシュ)の魔力付与をかけて攻撃力を増加した代物だ。分かりやすい表示をするなら、バスタードソード+5という武器になる。ちなみに伝説の武器が+10表示になるので、それに比べればまだまだではある。とはいうものの、一般的な近衛騎士でもせいぜい+3までしか持っていない。+6以上の武器を持っている者は騎士団長や凄腕の冒険者くらいなので、フレイのバスタードソード+5は間違っても平凡な武器とは呼べない。


 黒い革鎧も相当な逸品である。下等竜(レッサードラゴン)の革をなめし、腐敗防止と耐熱の魔力付与(エンチャント)が施されており、レザーアーマー+4に相当する。


 装備だけならば、既に中堅を脱し上級の下くらいというど素人には過ぎたるスタートを切ったフレイ。恵まれすぎている。



 だが、彼の目的はあくまで魔物を倒してみてそこから手に入ったグランを仕訳計上してみることであり、延々と冒険を続ける気は全くない。その為、今回の遠出は一応一週間を目処に帰るつもりであった。


 (何回か魔物と戦ったら疲れるだろうから、街道に戻って近くの村の宿屋に泊まればいいよな。で、現金払ったりしたら全部仕訳にしてみよう)


 道ゆく冒険者が見れば垂涎の装備に身を固めつつ、頭の中は簿記のことでいっぱいのフレイであった。




 王都から歩くこと二時間。

 水筒から水を一口飲み喉を潤す。街道を脇へとそれた。細い脇道の両側は人の腰までの草が茫々と繁り、時には脇道まではみ出して足元の視界を悪くしている。


 都市と都市を繋ぐ街道は人もそこそこ通るし、随所に国から派遣された警備兵もいるため魔物が出没することは滅多にない。だが、こうしてそこからそれる脇道、そしてその周辺の草原や林に入れば魔物が出没する領域となる。


 つまりフレイが脇道へと入ったということは、彼が魔物と戦う気構えが整ったということだ。



 そして脇道を行くこと20分。さっそくフレイは魔物と遭遇することとなった。


 ガサガサと彼の目の前の草むらが鳴ったかと思うと、一匹の獣がフレイの前に現れた。茶色の毛並の四足獣といえば強そうだが、一言で言えば見た目はただの中型犬だ。ただ飼い犬と異なり、その目つきは爛々としフレイを狙っている。


野犬(ワイルドドッグ)か。俺の初陣の相手としちゃ適当だな」


 フレイは呟き、背中からバスタードソードを引き抜いた。魔鉄製の刀身が妖しく輝く。


 ウォオオオンと吠声を響かせ、野犬がとびかかってくる。これを身を捻り難なくかわし、フレイはいったん距離をとった。かわしざま攻撃することも出来そうだったが、どの程度自分が実際の戦闘で動けるか試してみたかったのだ。


 二度、三度と野犬がその牙を突き立てようと突進してくるが、その度にフレイは難なくその攻撃をかわす。毎朝行っている素振りくらいしか剣術の訓練はしていなかったが、その賜物なのか足運びの基礎も鍛えられていたおかげであろう。


「もう十分だ、いくぞ!」


 今度はこっちから仕掛ける。踏み込みながら放った左からの横薙ぎをかろうじてかわした野犬だが、その勢いにびびったらしい。足がすくんだのが命取りになった。間髪入れない右斜めからの斬撃で真っ二つにされる。


 上がる悲鳴と血飛沫。溶けかけたバターに刃を沈めた程度にしか剣に抵抗はなく、呆気なくフレイは生まれて初めての実戦に勝利した。


 (あ、あれ? 簡単に勝てたな)


 正直拍子抜けである。もう少し苦労するだろうと覚悟していたのだ。足元の野犬を見下ろす。血だまりに倒れたその目には既に光はなく、ただ力無くだらんと口から飛び出した舌のピンクだけが鮮やかだ。


「成仏しろよ。おっと、こいつお(グラン)持ってるのかな」


 自分が命を奪った敵の冥福を祈りながら、フレイは野犬の死体を探った。首のあたりからチャリチャリと音がして、銀貨が一枚こぼれ落ちる。フレイは慎重にそれを拾った。


「まずは10グランか」


 仕訳は

 

 現金 10 / 利益 10。


 生まれて初めての戦闘で得た金は--奇妙に重かった。

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