フレイ、簿記を志す
* この小説に書かれている簿記は複式簿記を対象にしています。作者の知識により書かれているため、実用や試験に耐えうるものではないことを先にお断りしておきます。
「 勇者様に学ぶ簿記」
シュレイオーネ王国会計府の開く、そんな奇妙な名前の無料講座がある。フレイがそれに目を止めたのは、本当に偶然だった。
会計府のみならず王国の政務・軍務を司る各府が身分を問わずに開く無料講座。元々は国から国民への無償の還元として始まったというが、中には希望者が多すぎる為に、受講者倍率が10倍を超える講座もあるらしい。
(簿記、って何だっけ?)
フレイは首を捻った。一応子爵家に生まれた彼は基礎的な学問は納めている。しかし、簿記という学問は名前しか聞いたことがない。確か帳簿をつける為の学問では無かったか、と記憶の断片を取り出した彼は「暇だし受けてみよーかな」と呟き、次の瞬間には掲示板に貼られている講座説明用の用紙を一枚剥ぎ取っていた。
眠そうな顔をしている、と評されることは多い、だが時たま見せる瞬発力は、その淡々とした表情を裏切る。
フレイ・デューター18歳。簿記と初めて出会った春の午後であった。
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大陸中央にその領土を構えるシュレイオーネ王国。国土を乱した戦の日々も今は昔、肥沃な穀倉地帯に加え良質の金銀を産出する鉱山によって富を成している。その国富の分配にあたり、この王国は四段階に分かれた身分制度を敷いていた。
一つ、国の頂点に立ち王権により政治的判断の最終決断を下す王族。言うまでもなくこれが最も尊いとされる。
一つ、領土を保有し、国の為に働き政治や経済を動かす貴族。王族の次に位置する身分だ。
一つ、市や街のある程度重要なポジションにつき庶民をまとめる上級平民。貴族より身分は低いが、庶民よりは上という微妙な立場だ。
最後の一つがいわゆる普通の納税義務を背負う国民である平民である。数の上で最も多く、また国の礎と呼ばれることもある。
これら四つの身分制度を縦軸にし、それぞれの身分に応じた役職や職業を横軸として個人個人が自分の居場所について社会の歯車となり、シュレイオーネの一員となっているのであった。
しかし、中にはなかなか自分の居場所を見つけられずにぽやーっとしていたり、見つける必要に迫られていない立場の者もいる。フレイはまさにその適例のような男であった。
「大体、名家でもない貴族の端くれに生まれて特に取り柄も無い三男だよ、俺。だから、こんなもんかもしれないけれどね」
カードを切って偏りが無いように混ぜつつ、ぼやきとも自慢ともとれないことをフレイは呟く。その対面に座る女性は、そんなフレイを見て微妙な表情になっている。
「私が言うのもあれだけど、あなたって呑気よね。いいの、18の若さでそんなこと言っていて?」
どことなくフレイに似た顔つきをしているこの赤毛の女性の名はリーズガルデ。フレイにとっては年上の従姉妹(以下、従姉)にあたり、現在寝泊まりしている部屋の貸主でもある。
事の始まりは一月前、フレイの父であるデューター子爵がリーズガルデに「不肖の息子を王都で勉学させたいので泊めてやってくれないか」と依頼してきたことに始まる。リーズガルデは王都の総督府に勤務するハイベルク伯爵家に嫁いでおり、その程度の依頼であればさほど負担にもならない。加えて、個人的感情でも別に嬉しくも嫌でもない。そして、幼少の頃遊んだことのあるデューター家の従兄弟、つまり、フレイだ、ならば信用はおける。考えた末、デューター子爵の親心を汲んだ次第であった。
そうして、フレイ・デューターはハイベルク伯爵家の居候となった。馬鹿でかい屋敷の使っていない一室を借りて日夜勉学に励んでいる......というわけでは無かった。
そもそもどこの王立学府への入学願書を持っているわけでもなく、かといって王都にある私塾に入り、そこで学ぶという方針があったわけでもない。本当に"ただ来ただけ"というフレイの一日はモラトリアムそのものだった。
規則正しい時間に起きるのはいいとして、朝から夜までだらだらと本を読むか、王都をふらふらしているか、あるいは屋敷の庭掃除をしたりなど雑用をしている。その姿は、とても勉学の為に地方からやってきた子爵家の子息の姿では無い。かといって、この年代にありがちな悪い遊びを覚えて身を持ち崩したという感じでもない。
まさにただ単に「暇をつぶしている」のである。
今日は自分が手持ちぶたさなので、カード遊びに付き合わせているが、このままではまずいのではないか。リーズガルデは、家主としてこの年下の従兄弟の現状を危惧してはいる。しかし、実の姉でも無い身であり、どこまで忠言していいものかためらっていた。それに居候させてもらっている礼として、デューター子爵からは相応の礼金を前払で貰っている。そうした諸々の事情により、キツイことは言いづらいという側面もある。
そんなわけでリーズガルデに出来ることと言えば、時折フレイをたしなめ少しは有意義に時間を過ごしてほしいと願うくらいが精々だった。
かといって、フレイ自身がまるでやる気の無いどら息子かというと、そうでもない。本当にダメな男ならば、子爵から送られてきた小遣いを無駄に消費して身を持ち崩しているだろう。けれども、フレイは日夜ふらふらしていても外食や本に少し使うくらいである。むしろ年頃の青年の割には財布の紐は固い。
総じて"毒にも薬にもならない地方子爵の三男坊"という単語がフレイの全てを表していた。
だがフレイもただ単にふらふらしていた、と言われるのは面白くないだろう。彼はこの一ヶ月、己が興味を惹かれる物を探す為にその時間を使っていたのだから。
元々フレイの頭は悪くない。子供の頃から家庭教師の手を煩わせたこともなく、そこそこの成績は納めてきた。燃えるような情熱こそないものの、知的好奇心はそこそこであり、それをゆっくりと満たしていきたいというスタンスがフレイの基本スタンスといえよう。
そんな彼の興味をひいたのが、昨日見つけた王立会計府の無料講座、すなわち「勇者様に学ぶ簿記」だったのである。
「というわけで俺、明日の夜遅くなりますから」
「わざわざ無料講座なんて行かなくても、ちゃんとした学府なり私塾なり行けばいいんじゃないの?」
しれっとした顔で言うフレイに、リーズガルデは思わず小さなため息をついた。顔も性格も悪くないのに、何でこの子はこんなにぽやーっとしているのだろうと思わずにいられない。
「いやー、簿記ってどんなものかちょっと知りたくて行くんだよね。いきなり学府とか行くのは怖いってゆーか」
「まあ、あなたが自分から興味を示したことを前向きに捉えるべきよね」
とりあえずフレイを快く送り出そう。そう決めてリーズガルデは召し使いを呼んで、明日のフレイの晩御飯は帰ってきてから出してあげるよう指示した。なんだかんだいって彼女はフレイに甘いのである。
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翌日の夜、街の片隅の三角屋根が特徴の建物の一室にフレイはいた。いや、正確にはフレイだけでは無い。彼の他に10名ほどの人間が机に座り「勇者様に学ぶ簿記」の開講を待っている。
(俺だけ場違いだったかな?)
フレイは周りを見渡しながら、密かに自分の服装を悔やんだ。一応子爵という貴族の端くれに属するため、フレイにとっての普通の服装は上級平民や平民の服装よりかなり良い。そもそも無料で開講される講座に来る人間は大概が懐に余裕の無い平民である、という基本事実を忘れていた自分が悪いのだが。
ま、いいかとフレイは気にしないことにした。そもそも彼に言わせれば、権力がまるで無い子爵の三男坊など貴族と呼ぶのも恥ずかしい存在に等しい。そこまで自己卑下しているわけでもないが、かといって自分にどこか尊敬出来る点があるかといえばそれも怪しい。一日の仕事の後、こうやって勉強にきている君達の方がよっぽど上等な人間だよ、と言ってあげたくなった、しかしそれも面倒なのでフレイは黙って座っていた。
時計が七時を指して丁度、部屋の扉がガチャリと開いた。蝶番に油を注していないらしく、少し耳障りがする音だ。
開いた扉から入ってきた人物にフレイは少し驚いた。簿記などという堅い学問の講師なので男性だろうと予想していたのだが、見事にそれは裏切られた。鳶色の長い髪を背中に流し、ほっそりとした体を灰と茶のチェックというやや地味なワンピースに身を包んだ若い女だった。自分より少し年上に見える。
「皆さん、初めまして。今回勇者様に学ぶ簿記にご参加いただき、ありがとうございます。私はこの講座の講師を務めさせていただくマレットと言います。どうぞよろしく」
部屋の前方に回った女--マレットが挨拶をする。澄んだアルトの声に聴講生がもごもごとよろしく、と挨拶を返す。フレイは礼儀正しく「よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げた。
府が開く無料講座の講師はたいていの場合、その府に属する若手役人が行う場合が多い。これは人に知識を教えるという行為を通して、人前で話すことに慣れたり知識のブラッシュアップを期待出来る為、半ば研修のように若手にそれを任せるという慣習がある。つまりこのマレットという女性は会計府の役人の可能性が高いのだ。
シュレイオーネは比較的男尊女卑が無い国ではあるが、それでも女性で政権の中央である府に勤務する人間は少ない。なのでフレイが驚いたのも無理は無かった。
「今日は最初なので、簿記とは何かについてご説明するところから始めたいと思います。この中で、簿記という学問のことを耳にした方はいらっしゃいますか?」
マレットの問いにパラパラと二、三人の手が上がった。フレイも手を上げる。軽く頷いて、マレットは言葉を続ける。
「ほとんどの方はご存知ないようなので、説明させていただきますね。簿記とはお金で表せる事柄を記録し、後で検証する為の学問です。例えば、皆さんが子供の頃にお小遣を貰ったことがあると思います。あのお小遣の使い道を記録する為のお小遣帳が発展した物が、簿記だと考えて下さい」
昔、家庭教師がそんなこと言っていたなとフレイは思い出した。部屋の前方の壁には黒板がかけられているが、マレットはまだ何も書いていない。そのうち講義が進めば板書するのだろうか。
「この勇者様に学ぶ簿記では、50年前に魔王を倒しこのシュレイオーネ王国に平和をもたらした勇者、ウォルファート様の実際の行動を通して簿記の基礎を学ぶことを主眼にしています。無味乾燥の文字の羅列よりは学びやすいでしょうから」
勇者ウォルファートの名はこの国の人間なら誰もが知っているだろう。マレットが言った通り、50年前に大陸に突如現れた魔王こと大悪魔アウズーラを打ち倒した伝説の勇者である。文武に優れたウォルファートと暗黒の力を縦横に振るうアウズーラの戦いは幾多の物語や歌劇の題材となり、老若男女がそれに心躍らせていた。
それがどのように簿記という学問になるのだろう? 幼い頃見たウォルファートとアウズーラの華やかで激しい戦いを表現した歌劇の舞台を思い出しつつ、フレイは心の中で首を傾げた。
「では手始めに」
マレットが黒板の方を向いた。チョークを握った右手がカカッと硬い音を立てて踊り、黒板に文字を書き連ねる。
「まずはこれを覚えて下さいね」
・資産=お金、あるいはお金に換えられる物。自分の所有物。基本的に目に見える。例えば金貨、銀貨、銅貨、自分の武器、鎧、盾、移動用の馬車など。
・負債=返さなくてはならないお金、またはお金に換えられる物。返済しなくてはいけない事柄。基本的に目に見えない。例えば借金の発生。
・資本=返す義務がないお金、またはお金に換えられる物。返済する必要がない事柄。基本的に目に見えない。例えば過去の利益の蓄積、冒険開始時の王からの贈り物の発生。
フレイは持ってきたノートに羽根ペンでこれを書き記した。書き記したのだが正直ちんぷんかんぷんである。
(資産は何となくわかるけど、負債と資本が分からん)
借金をした場合は負債が増える、ということなのだろうか。借金は返さなくてはならないからそれは資本ではなく負債になるのだろう、フレイはそう推測した。そうすると、自力で稼いだお金や贈り物を貰った場合は資本になるのだろうか?
「まず冒険開始時点でウォルファート様が王様から100グラン相当の剣と200グラン分のお金を貰った場合、次のように仕訳を起こします。あ、仕訳というのは何か取引が発生した場合にそれを記載することを言います」
グランとはシュレイオーネ王国の通貨単位だ。銅貨一枚で1グランとなる。銅貨十枚で銀貨一枚、銀貨十枚で金貨一枚だ。だから金貨一枚は100グランとなる。
マレットが黒板に次のように書いた。左側に資産 100(剣)、資産 200(お金) 、そして斜めに直線を引いて右側には資本 300だ。
資産100(剣)、資産200(お金) / 資本 300
フレイはまじまじと黒板を見つめた。どうも資産を手に入れたらこの仕訳という記載の左に記すようだ。その対照となる右側には資産の発生原因を書けばいいのだろう。今回の場合、借金して買ったわけではない。その為、負債ではなく資本になるのだろうか。
「すいません、質問いいですか?」
フレイは手を挙げた。マレットがこちらを振り向く。
「どうぞ! いつでも質問は歓迎ですよ」
「あの、今は資産となる剣とお金が増えて、それを左側に書いたのですよね。資産は増えたら左側に書くと考えていいんですか」
「はい、そうです。資産や負債、資本という物の性質を示す項目を勘定科目と呼ぶのですが、資産は増えたら左側、減ったら右側に書きます。負債と資本は逆ですね。増えたら右側、減ったら左側です」
「資産が増えたのは何となく理解出来るんです。でも資本が増えたというのがイマイチ分からないんですけど」
続けてのフレイの質問にマレットはうーん、と一度腕組みをして考えた。他の聴講生も真剣にその様子を見ている。
「資本は目に見えないものなんです。ただ、行為としては存在するんですね。この場合、ウォルファート様にとっては王様がプレゼントしてくれたという行為がプラスされたので、それが資本の増加となります」
「はあ、なるほど。じゃあ誰かが物をくれた時にはくれた物を左側に書いて、資本を右側に書けば仕訳が出来ますか?」
「凄く惜しいです。ほぼ正解なんですけど、資本という勘定科目は基本的にあんまり使わないんです。今回は勇者様の旅の始まりなので、特別に資本を使いましたが、旅の途中で何かを貰ったり得たりした場合は利益という勘定科目を使います」
マレットの説明は続く。それによると、この勇者様に学ぶ簿記ではウォルファートの冒険をなぞる形で簿記を学ぶのだが、資本はこの冒険の開始と一年ごとに行う決算という全ての仕訳を合計して帳簿を作る時にしか使わないらしい。
そして勘定科目には資産、負債、資本の他に大まかに売上、売上原価、利益、費用の四つがある。これら七つの勘定科目を使って仕訳を作るという。
「売上などについては次回から出てきます。今日は資産、負債、資本の三つだけ覚えて下さいね。資産は左、負債と資本は右です」
今日はこれでおしまいです、とマレットが締め括った。他の聴講生と同じように立ち上がり、フレイは「ありがとうございました」と頭を下げた。
お金に置き換えられることを記すのが簿記、とフレイは口に出さずにマレットの言葉を復唱した。ウォルファートの冒険なら子供の頃から何度も読んだり聞いたりしている。馴染みのあることから学問が学べるならば、悪いことにはならないだろう。
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「あー、疲れたわ~」
マレットはうーんと伸びをしてベッドへと寝そべった。ここは彼女の下宿部屋だ。誰の目も気にする必要はない。無料講座の初日を無難に終えることが出来た安堵感が、心地好い疲労となっている。会計府へ無事に報告出来るのが何よりだ。エールの一杯くらいは、自分へのご褒美として認めてもいい。
誰に気兼ねする必要もない狭いアパートが、彼女の住まいである。一年前、以前の広い住居から引っ越してきた時はひどく狭く思えたものだが、今は逆にこの狭さに救われていると思えるから不思議なものだ。手に届く範囲にだけ馴染みの物があれば良いと心からそう思う。
グラスに注いだ冷えたエールを少量口に含む。鮮やかに炭酸が喉を駆け抜け、胃へと滑り落ちる瞬間がたまらない。別に量が飲める方では無いので、せいぜい小瓶を開ける程度のかわいい量だ。日常の密かな贅沢である。
グラスを側机に置いて、マレットは額に手を当てた。脳裏に呼び出すのは今日の講義のことだった。
始めて見知らぬ人の目の前で講義をしたが、あれで良かっただろうか。わかりづらくは無かっただろうか、と反省めいた思いもあるにはある。けれども、どうにか初日を予定通り切り抜けたのは大きい。
(これもまあ、簿記を学ぶ人への道しるべよね)
ぐたんとベッドに横になる。部屋の壁のフックに吊したワンピースへと視線を投げた。今日着た灰と茶のチェックのワンピースだ。裾がくるぶし近くまであり同僚には野暮ったいだの、せっかく素材はいいのにもったいないなど言われたが別にいいのだ。
今の自分は、それほど出会いを求めているわけではない。日々の糧を得る為の仕事があり、ささやかな幸せがあればそれで十分だった。
それにしても。
はたしてあの「勇者様に学ぶ簿記」に何人の人間がついてこれるだろう。極力分かりやすく説明したつもりだったが、そもそも簿記なんて数字を扱う辛気臭い学問と考える人間の方が多い。無料で開講しているだけに、途中で聴講生がゼロになってしまってもマレットの仕事の評価に傷はつかない。つかないのだが、やはり自分の努力が少しでも世の役に立てばいいと願ってはいる。プライドは傷つきそうだな、と心の中で呟いた。
(ゼロにはならないか)
ふと、講義の途中で質問してきた若い男の顔を思い出した。端正と言っていい顔つきをした黒髪に青い瞳の青年だったが、どこか眠そうな目つきが覇気が足りなさそうな印象を与えているのが惜しい。だが、全くの簿記初心者なのに理解が早いのには驚いた。
(最悪、彼だけでも最後まで受講してくれたらいいわ)
マレットは寝巻きに着替え、部屋の明かりを消した。一人寝にもずいぶん慣れてしまったと思ったのもつかの間、すぐに春の夢の淵へと落ちていった。