第8話
「り~ん~!学校行こー!」
「はーい!今行くからー!」
玄関に置いていたランドセルを引っ掴んで玄関から飛び出せば、そこにはいつもの笑顔を浮かべて俺が玄関から出てくるのを待っている愛美ちゃんがいた。
「お待たせ。それじゃ行こっか」
「うん!」
愛美ちゃんと並んで小学校に向かう。その光景だけを見れば、いつもとなんら変わった事はない。でも、俺と愛美ちゃんの間。つまり、手と手が繋がっていなきゃだけどね。
「ね、ねぇ愛美ちゃん?」
「ん~なに~」
「えっとさ……そろそろ学校に着くし、手を離さないかなぁって…」
俺がそう口にした瞬間、隣で機嫌良さそうにしていた愛美ちゃんの顔に悲しみがどっと溢れたような表情が浮かぶ。よく見れば、目にもうっすらと光るモノがあるような気も……。
「…………」
無言の圧力を目に込めて、俺の目から一瞬も逸らしてくれない。その表情とその目で見られたらこっちが先に折れるしかない。今日もやっぱり俺の負けか……。
「……学校が見えるまでだからね?」
「うん♪」
苦笑と共に妥協した答えを口にすれば、それまで悲しい表情だった愛美ちゃんの顔には一瞬で笑顔が戻るんだから、女の子ってズルい生き物だとつくづく思う今日この頃…。
どうして、愛美ちゃんが俺と手を繋ぐようになったのか。それは、先週の遠足の時まで遡らなければならない。あれは、そう……。聡美ちゃんをおんぶして、東屋に着いてしばらくしてからだったと思う。
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冷やかしの言葉を口にする男子と女子。それに彼等が求める良い反応を返すわけもなく、俺はおんぶしていた聡美ちゃんを下ろして長椅子に座らせた。
「ちょっと待っててね」と言ってから手洗い場に行き、プラスティックの容器に水を入れて聡美ちゃんの所に戻る。
聡美ちゃんの足の指に巻いていたハンカチを解いて、容器に入っている水で傷口を洗っていく。
痛そうな顔を浮かべる聡美ちゃんに、お昼前に拾っていた貝殻について話を振り、聡美ちゃんが話に気を取られている隙に絆創膏を貼り終える。ふぅ…前世の記憶が役に立ったな。
俺と聡美ちゃんを冷やかしていたクラスの奴らも、聡美ちゃんが怪我をしている事に気付くと自然と静かになり、女子に至っては口々に「大丈夫?」「痛くない?」と聡美ちゃんの傍に駆け寄ってくる。
男子は駆け寄りこそしないものの、心配なのは同じみたいで治療を終えた俺の方に寄ってくると、「聡美ちゃんの傷深くないのか?」「だから、おんぶしてたのかよ」と話しかけてくる。いや、怪我もしてない女の子をおんぶするとか普通しないって。
と、そこまでなら良かったんだけど、そこからが予想外だった。聡美ちゃんが女子に囲まれてしまったから、後は先生に任せようと思い男子達の輪から抜け出して、保健の先生を探す為に東屋を離れた時だった。
「凜……」
「ん?あ、愛美ちゃん。どうしたの?」
声を掛けられたので後ろを振り返ってみると、スクール水着から私服に着替えた愛美ちゃんが仁王立ち?で俺を見ていた。顔にはいつも浮かべている笑顔はなく、そこには何の感情も見出せないそんな『無』の表情があった。
「聡美ちゃん……おんぶしてたね?」
「え?う、うん。聡美ちゃんが怪我しちゃったから仕方なくね。男子におんぶされるなんて恥ずかしかったと思うけど、岩場だったしおんぶしなきゃもっと悪い事になってたかもしれないから」
「楽しそうだったよ?」
「そ、そうかな?なら良かったかな」
「私には『二人』がそう見えたの」
「えと……愛美ちゃん?」
愛美ちゃんってこんな娘だったか!?何か怖いんだけど!目を左右に走らせても近くに誰もいないし……。
ヒタ、ヒタと一歩一歩近づいてくる愛美ちゃんを、俺は腰を引いた状態でただ待つことしか出来なかった。
「私とは手も繋いでくれないのに……」
「いや、この年で女の子と手を繋ぐのは恥ずかしいし……」
「幼稚園の時は毎日繋いでたよ?1年生の時も、2年生の一学期も。でも、二学期からは繋いでくれなくなったもん」
うわぁ……そんな事覚えてたのかぁ。幼稚園の時は小っちゃい子どもと手を繋ぐ感覚だったし、それは1年の時も同じだった。
でも2年、3年ってなってくると愛美ちゃんも女の子になってくるわけで……普通の男子なら嫌がって当然の筈。まぁ、俺自身普通の男子じゃないとは思ってるけどさ。
「……私とはもう手を繋いでくれないの?」
泣きそうな顔でそんな事言われたら、男なら無理なんて言えないと思う。それに、薄ら寒さも感じるし……。これは、頷かなきゃ後で何が起こるか分からない。
「わ、分かったから。お願いだから泣かないで?学校の中だと流石に恥ずかしいから出来ないけど、登校する時と下校する時なら……手繋ご?」
「……約束だよ?」
「う、うん。約束するから」
「…ありがとね、凜♪」
それからはまぁ大変だった。学校の中は駄目。そして、登下校の時は大丈夫。その言葉の意味を理解した愛美ちゃんの暴走は止められなかった。あの時俺達がいたのは『アクアアリーナ』。
確かに『学校の中』ではない。よって、手を繋ぐ事に何の問題もないと判断した愛美ちゃんは、学校へと帰るその時になるまで俺の手を離してくれなかった。
愛美ちゃんに好意を持っている男子達。それから何だかんだ言って俺に良い感情を持っている女子達。おおよそクラスの3分の2から、視線を集める事になったのは言うまでもない。
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愛美ちゃんと繋いでいた手を学校の校門が見えたところで離し、愛美ちゃんに不満な顔をされつつ生徒用玄関に急ぐ俺達二人の前方で、ポニーテールをフリフリしながら歩くクラス最強の女を見つけた。愛美ちゃんに恋だよと告げてから、小走りで近寄っていく。
「恋、おはよう」
「ん?凜…と愛美か。おはようだ」
「おはよう恋ちゃん。今日はどうしたの?いつもはもっと早く学校に来てるのに」
恋を俺と愛美ちゃんで挟んで歩く。確かに愛美ちゃんの言うとおり、恋はクラスの中で一番早く登校して、クラスで飼っているミドリガメに餌やりをしているのが日常だった筈だ。
そもそもミドリガメを飼おうと言いだしたのは、学年が変わって初めての学活でいいところを見せようとしたまさのり先生だった。嬉々として黒板いっぱいにミドリガメの絵をポップ調で書き、名前は皆で決めるんだぞと言った時のまさのり先生の顔はそれはもう輝いていた。
今じゃ見る影もないんだけど。ま、その時は男子のリーダーの雅司が仕切り役となって、名前とか世話役を決めたわけなんだけど……。一週間もしない内に世話役となった男子が飽きてしまい、それから三日程餌を貰えなかったミドリガメは傍目からでも元気がなくなっていた。
そして餌をやっていない事を白状した男子を怒ったのは、まさのり先生ではなく恋だった。怒髪天とはこういう事かと思わせる勢いだったとその時の俺は感じたのを覚えている。それからはミドリガメの餌やりは恋が担当になり、今まで続いているというわけだ。
当初餌やりを任されていた男子というのが、琢磨だった事が後の恋と琢磨の関係を決定付けたと言っても過言じゃないな。あれから恋は琢磨が口を開くたびに「黙れカス野郎」って言うようになったし。
「いや、今朝は父様が稽古に随分と熱心でな。私としては父様とする稽古はとても勉強になるから嬉しいんだが、今日は父様の機嫌がいつもより良かったのか長引いてしまったのだ。みぃくんには悪い事をした」
みぃくんとは、件のミドリガメの名前だ。これには女子の力が大きく働いたのは言うまでもない。
「恋ちゃんのお父さんってあの怖そうな人の事だよね?」
「む…私の父様は威厳のあるお顔をしているのだ。愛美は本当の男の顔を知らないみたいだな」
「えぇ~男の人の顔って本当とか嘘とかあるんだぁ!じゃあじゃあ、凜も本当の男の顔やってみてよ」
「おお!それは良いな。凜、お前は頭も良く運動も出来る。だが、顔に締まりがないのが少々アレだったのだ。威厳のある顔をしてみろ。何、私の父様のようにとは言わない」
…………恋に声掛けて失敗した。こんな事になるなら、教室に着くまで愛美ちゃんと話してれば良かった。って、マジでそんな顔しなくちゃなんねぇの?
「えっと……男の顔に本当も嘘もないんだけど…それに『威厳のある顔』っていうのも良く分からないんだけど…」
「威厳のある顔とは威厳のある顔の事だ。口を一文字に結んで、眉を中心に寄せ、キリッとした目で相手を見る。琢磨のようなヘラヘラした顔には一生出来ない顔の事だ」
「凜の威厳のある顔、私見たいなぁ」
だから、出来ないって言ってるじゃん!てか、恋も具体的に言ってるけどそれってお前の父ちゃんだから出来る顔だっての。てか、そっち系の人じゃなきゃ出来ない顔だってあるんだぞ!?でも、やらなきゃもっとうるさそうだし…仕方ない。やるだけやってみるか。
マジな話をする時の事を考えて……。目に伝えたい意思を込めて、恋を、愛美ちゃんを見る。
「……ほぅ…」
「ふぁあ……」
二人の口からそんな言葉のようなそうでないような音がしたのを見計らって、マジな顔を止めてさっきまでの苦笑を混ぜた顔にする。
「えと…ど、どうだった?」
「凜って、そんな顔も出来たんだね!何か、いつもよりカッコよかった!」
「うむ。父様には敵わないが、凜も中々男の顔をしているな。良い事だ」
評価は上々…って事で良いんだよな?はぁ……早く教室行こっと。