第二幕 幻想召喚
◆
ありとあらゆる物語をこよなく愛するアイルだが、誰にでも特別というものはある。アイルにとっては、『イヴァン・ベーメルと魔界の冒険』に登場する炎の竜がそれだった。
この竜は、イヴァンの冒険の導き手として登場したにもかかわらず、とても傲慢な気まぐれ者で、事あるごとに彼を困らせる問題児だった。しかし同時に、イヴァンの一番の親友であり、理解者であり、保護者であり、そして何より、ピンチのときには我が身を顧みずに戦火の盾となる、誰よりも頼もしい守護者であった。
その名は《ルシファー》。火炎を操り、空を飛び、弱い魔法くらいならその雄叫びだけでかき消してしまう、全身を赤い鱗に覆われた、人語を話す灼熱の竜。
その存在は、幼い頃から今に至るまで、ずっとアイルの胸を高鳴らせ続けてきた。
いつか僕も、ルシファーのような竜を探して世界中を旅するのだ――、と。
「……あの声が、ルシファーのものだったらよかったのにな……。そうしたら、僕も連れて行ってもらうんだ――お伽話の世界へ」
誰もいない部屋で一人、アイルは呟く。
本日最終の授業が中止になったあと、《声》の正体を突き止めるべく、アイルは学園中を探し回ったのだが、途中で運悪く教師に見つかり大目玉を喰らってしまったのだ。仕方なしに家に戻ったアイルは、それから三時間以上も書庫に引き篭り、一心不乱に本を読み耽っていた。
薄暗い書庫の中には大量に書物が詰め込まれた本棚が並べられているが、そのほとんどは魔法の指南書やクラウゼ
ン王国の歴史について記されたものだ。アイルが好きな《物語》は、たぶん全体の冊数の数十分の一程度しかないだろう。
それにしても……、
『ああそうだ、この程度のことでみっともなく涙するなど許さんぞ』――
あのとき、突然教室に響いた、低く、しかしよく通る声……あれは、紛れもなく《アイルに
向けられた》言葉だった。あの状況ではそれ以外に考えられない。
あの、聴覚ではなく頭の中に直接話しかけられるような感覚。もしもあの声が、アイルが渇望してやまなかったもの――即ち、小説や童話、お伽話に出てくる《魔物》の類だったなら、どん
なに良かったことだろう。
『魔法の存在は発見されたのに魔物はいない』、そんなつまらない現実が、アイルにはどうしても許せなかったのだ。
『七聖人物語』
『オルレアンの少女』
『魔法戦士デドア・グレムル』
『グルトニール王国戦記』
『フェーレンシルトの妖精』
そして――
『イヴァン・ベーメルと魔界の冒険』、などなど。
目の前にうず高く積まれた本の山。これらはすべて、アイルが少ないお小遣いをやりくりして買い集めた本たちだ。何年もの月日をかけて何度も何度も読み込まれ、繰り返し繰り返し読み返されたそれらはどれもボロボロで、所々修繕を施された痕跡が見受けられる。アイルはきっと、ここにある本のことなら作者自身よりもその内容を知り尽くしていることだろう。
それほどまでに、アイルは物語を愛し続けてきたのだ。
何十回も何百回も、延々と物語ばかりを読んできた。
『学術書』ではなく『物語』を。
『伝記小説』ではなく『伝奇小説』を。
アイルの人生は物語と共にあったといっても過言ではない。
それなのに、それなのに――……、
「ここにいたのか、アイル!」
咎めるような怒鳴り声と共に、三時間以上も固く閉ざされたままだった扉が開かれ、アイルが最も苦手とする人物が現れた。
「父さん……」
アイルの実の父親にして守護団の幹部、《ハワード・エアハート》。
常に何かしらに対して怒っているかのような険しい表情と声。十数年も一緒に暮らしているのにもかかわらず、今でもアイルは、彼と数時間何気ない日常会話をしただけで、緊張のあまり疲弊してしまう。
その理由は、アイルが五歳の誕生日を迎えるより前から一日たりとも欠かすことなく行われてきた、ハワードによる魔法の特殊訓練にあった。少しでも弱音を吐けば蹴られ殴られ、酷い時には丸々二日も食事抜きにされたこともある。父は『これもお前のため』と言うが、アイルには、初めの頃はそれが到底理解できなかった。
――が、今は段々と、父のことが見えてきた。
「たった今、魔法学園の先生から連絡があったぞ……! お前は何度私に恥をかかせれば気が済むんだ!」
――つまり、父はアイルのせいで自分の評価に泥を塗られることを恐れているだけなのだ。あの辛く厳しい特訓も、常軌を逸した体罰も、すべてはアイルのためを思ってのことではなく、自分のために他ならない。聖なる守護団の幹部として、息子の出来が悪ければさぞかし鼻持ちも悪かろう。
アイルはとっくの昔に、その悲しい結論に行き着いていた。
「……ごめんなさい」
「学園での成績は中の上程度……しかも未だに魂幹魔法すら発現しない! 私の教育を受けておきながら、その体たらくはどういうことだ!」
「でも、魂幹魔法の発現には個人差があるし、それに……」
「十四歳にして未だに発現していないなんてクズは、パール魔法学園が設立されて以来お前一人だけだ!」
「…………っ」
次々と投げつけられる実の父からの罵詈雑言の数々を、アイルはいつからか聞き流すことにしていた。それはきっと、アイルが人格破綻者として育たないためには有効な判断だっただろう。ハワードの悪罵はとても親のものとは思えない。まともに耳を傾けていれば、今頃アイルの心は間違いなく破綻していたはずだ。
いや――もしかしたら、アイルの心は既にどこかおかしくなっているのかもしれない。
ハワードがもはや呪詛とも言える暴言を吐き続けている間、アイルがそれらから自己の精神を守るためにとった手段は――現実逃避、だった。
父の怒鳴り声を聞き流すべく、アイルは耳に蓋をして、創作の世界へと意識を飛ばすようになったのだ。そこで彼が夢想するのは、創作上のキャラクターたちと共に笑い、泣き、そして力を合わせて異世界を冒険する、痛快にして波乱万丈な毎日。涙はあっても嘆きはなく、喧嘩はしても隔絶はない、そんな、アイルが現実世界でついに手に入れることのできなかった《友達》と、一緒に過ごす日々。
人語を話し、灼熱の火炎を吐く竜。
凄まじい突風と共に駆ける銀色に輝く狼。
幾つもの世界を自由に行き来できるという妖精。
飛び去ったそのあとには雷が降るという伝説の怪鳥。
その他、美しい姿をしたものから、アイル以外の人間ならば一目見ただけで吐き気を催すような醜悪な外見の怪異まで、ありとあらゆる異形たち。
そんな妄想をしていれば――ハワードの説教など、大した苦痛にはならなかったから。
「話を聞いているのか貴様ッ!」
「――うわっ!」
ハワードの右手から閃光が迸ったかと思うと、次の瞬間アイルの身体は落ち葉のように宙を舞い、冷たく固い書庫の床に思い切り叩きつけられた。肺の中の空気が吐き出され、アイルは一瞬絶息する。
苦しさのあまり咳き込んでいると、その無様な姿により強い怒りを感じたのか、ハワードは倒れているアイルの髪を乱暴に掴み、無理矢理視線を合わせた。
「ひっ……」
妄想の世界から急激に現実へと引っ張り戻されたアイルは、目の前で自分を睨みつける、憎悪を球形に凝縮したかのような双眸に、心の底から恐怖した。
「俺の話を無視して何を呆けていたのだお前は……! よもや、また《物語》などという低俗なものに気を取られていたのではないだろうな?」
「………………ッ!」
アイルの大好きな《物語》を低俗と罵られること。それは、自身を罵られること以上の屈辱だった。けれど、このタイミングでアイルが反抗すれば、きっと父は今以上に苦痛の伴う魔法で、アイルを痛めつけてくることだろう。今以上に憎しみと憤怒の入り混じった目でアイルを見据えることだろう。
ハワードは、アイルにとって恐怖の象徴だったのだ。父に逆らったら殴られる――それは、長い月日をかけてアイルの脳細胞にインプットされ、口答えしようとする度脳裏に蘇る呪いのようなものだった。
そうだ、認めてしまえ。物語が至極くだらないものだと認めてしまえ。そうすれば、少なくとも今この場で痛い思いをすることだけは避けられる――……、
「僕は……」
『おい小僧。貴様、長年に渡って抱き続けた我らへの気持ちが、まさかその程度の軽いものだったとは、口が裂けても言うまいな?』
薄暗い書庫に朗々と響いたその声に、一瞬、時が停止した。
「……え!?」
――まただ……! また、あの声が聞こえた!
脳内に直接働きかけるような声――それは紛れもなく、教室で聞いたものと同じだった。
そして、またあの時と同じように――この声は、アイルに向けて話しかけている。
「今の声は誰だ!? 出て来い!」
ハワードの怒声も、今のアイルには気にならなかった。
『長年に渡って抱き続けた我らへの気持ち』――?
アイルが長年に渡って抱き続けた想いは、たった一つしかない。
そして、あの声が、それらを代表してアイルに話しかけてきたのだとしたら――?
その声の主は……、
「君もしかして……! ル――」
その名前を、アイルは最後まで発音することはできなかった。
窓の外が一瞬赤く光ったかと思うと、猛烈な爆発音と爆風が、書庫をガタガタと揺さぶったからだ。その振動で机の上に高く積み上げられた本の山は崩れ、本棚からは無数の本がバサバサと音を立てて床に落下する。
「い、今の音、すぐ近くだったよね……?」
「チッ、次から次へと……! おい誰だ!? この私を守護団の幹部と知ってのことだろうな!」
怒りのあまり顔に青筋を浮かべたハワードは、万が一に備えてか、腰のベルトから長い杖を引き抜いて、いつ建物ごと魔法で吹き飛ばされたとしても即座に防護魔法で対応できるように身構えた。
強盗か――そうでなければ、ただの愉快犯か。どちらにせよ、その辺にいる魔法使い程度のレベルでは、ハワードには決して太刀打ちできはしないだろう。
アイルは父を恐れると同時に、その実力もよく知っていた。聖なる守護団とは、クラウゼン王国全土から寄せ集められた選りすぐりのエリート魔法使いたちが、国防のために常日頃からあら
ゆる事態に備えて厳しい訓練を積んでいる組織なのだ。しかもハワードはそこの幹部である。もし襲われたとしても、ハワードなら赤子の手を捻るかの如く返り討ちにしてしまうだろう。
やがて書庫の扉がゆっくりと開き、深紅のローブを着た中年の男が、ゆっくりと姿を現した。
くすんだ茶髪と、表情がそのまま顔に張り付いたかのような取ってつけた笑みが特徴的なその
男は、不自然なほど慇懃な仕草で一礼して言った。
「わたくし、聖会からの使いとして参りました、聖なる守護団パール支部所属のサルマ・ローゲルと申します。突然ですが、アイル・エアハートさんの身柄は聖会の方で預からせていただくことになりました」
◆
じっくり話を聞くためだろう、ハワードは聖会からの使いで訪れたというローゲルを応接間に案内した。アイルは部屋の外に放り出されてしまったが、かといって、それですごすごと引き下がるほどアイルは聞き分けが良いタイプの人間ではない。ましてや、それが直接自分に関係のあることとなれば尚更だ。
しかし、そんなときでもアイルは本がギッシリ詰まった鞄を小脇に抱えていた。もはや本はアイルの半身も同然の存在であった。
応接間の扉をほんの少しだけ開くと、アイルは息と気配を殺し、盗み聞きすることにした。子供だと思って油断しているのだろう、幸い盗み見・盗み聞き等を防止する魔法はかかっていない。
壁の隙間に耳を押し付けながら、アイルはなぜ自分の身柄が聖会に預けられることになったのか、必死で考えを巡らせていた。
まったくもって身に覚えがないのだ。仮に自分が何かとんでもない大失態をやらかしたとして、その時に罰を下すのは国防組織である聖なる守護団の役目であり、わざわざ聖会という名前を表に掲げ、そのくせ守護団を使いとするのは不自然な話である。
〝だとすると、誰かが僕の命を狙っているとか……。それで聖会は僕を保護しようと……?″
それもおかしい、とアイルは即座に頭の中で否定した。
一介の魔法学園の生徒というだけである自分を殺したところで、そいつになんの得がある? それに、その場合もやはり聖会が絡んでくるのは変な話だ。
本ばかり読んでいたおかげか、アイルはこういった違和感には特に敏感だった。
『物事は常に論理的に考えよ、ただし窮地に陥った時は直感に従え』
『人の真意を暴きたくば、その行為によって誰が得をするのかを考えろ』
『表で大きな騒ぎが起こった時にこそ、裏で蠢く小さな不自然を気にかけよ』
すべて、周囲が嘲り馬鹿にする《物語》で培った考え方だ。――と言っても、この考え方が実際に役に立ったことは、未だにないのだけれど。
「ローゲル……、確かパール支部の隊長だったな。守護団である貴様がなぜ聖会なぞの使いを任される? 答えろ、一体どこの馬鹿の差し金だ?」
ハワードの口調が咎めるようなそれになるのも無理はない。聖なる守護団ということは、つまりこの男はハワードの部下なわけだ。口ぶりを聞く限りではこの二人に直接の関係はないようだが、上司を通さずいきなり支部などという末端の団員に話が行くなど、本来ならありえない。
ありえないことだというのに――ローゲルと名乗るこの男は、穏やかな笑みを浮かべたままハワードの追及にもまったく動じる様子はない。
「ハワード殿。いくら幹部といえどそのような暴言はお控え願いたい。これはラルフ・ザックス様直々の命令にございます」
「ラルフ・ザックスだと!? 元王族がアイルになんの用だ!?」
――ラルフ・ザックス!
その名前にはアイルも聞き覚えがあった。もともとは、なんらかの理由により王族を追放され、現在は聖会のどこかの部署に飛ばされてしてしまった人物――だったはずだ。それ以上詳しいことは知らないが。しかし王族を追放されたとはいえ、彼がその代わりに所属しているという聖会の持つ権力は尋常ではない。ましてや父をこれほどまで驚かせたのだから相当のものだろう。
「アハハ……あまり詳しいことは申し上げにくいのですが……」
「ローゲル、俺は守護団の幹部だぞ? いくら貴様が支部隊長とはいえ、末端の団員が聖会からの命令で勝手なことをしているとなれば、俺にはそれを確認する義務が――」
部屋の中で交わされているのであろうハワードとローゲルの会話を聞きながら、アイルは一人、途方もなく虚しい孤独感に囚われていた。
父は、ハワードは、守護団の幹部として聖会の裏の意図を探るばっかりで――アイルが聖会に連れて行かれることについて、慌てたり焦ったりする素振りを、未だに見せていないのだ。
確かにハワード・エアハートの息子・アイルには、彼の期待に応えるだけの実力がなかった。魂幹魔法の発現も同期で一人だけ大幅に遅れているし、そもそも魔法自体にあまり興味を持っていない、魔法使いとしては半人前もいいところの存在だ。
しかし――しかし、だ。ハワードにとって《息子》としての価値とは、魔法の素養だけなのだろうか? アイルの母は、アイルを生んだその直後に亡くなっている――つまり、ハワードにとってもアイルにとっても、血を分けた肉親は互いだけ。その肉親が今、国家の中枢機関に連れて行かれようとしているのに、ハワードはアイルのことなどどこ吹く風だ。気にする素振りすら見せようとしない。
そして、それが息子を苦しめているということにさえ、まったく気付いていない。
「なんでもザックス様は、以前なんらかの用事でパールの町を訪れたとき、アイル君に助けられたことがあるとかで、それ以来、アイル君のことをとても気に入っておられまして! ぜひとも彼を弟子にしたいと仰っているのですよ」
――嘘だ……! そんなの嘘だよ父さん、気付いて……!
そんなアイルの心の叫びも――
「……確かラルフ・ザックスは、王族というだけでなく魔法使いとしてもかなり優秀であると聞く……なるほど、不出来の息子を弟子に出すには最高の相手かも知れんな。いいだろう、アイルは聖会に預けることにする」
――まったくハワードには届かない。どころか、ハワードは納得したように頷いた。
王族に目をかけられたとなればこれを断る道理はあるまい。これで自分は聖会ともコネクションができる。いずれは守護団の団長に任命されるのも夢ではない――そう、ハワードは考えていたのだろう。ローゲルの言葉の不審さなど、初めから疑いもせずに。
そして、彼はついに気付くことはなかった。
〝父さんは……僕のことなんて、本当にどうでもいいんだね……″
扉にギリリと爪を立てながら、絶望という名の剣先で貫かれた胸の痛みにただただ打ちひしがれる、我が子の声なき慟哭に。
「本当ですか! ありがとうございます、きっとザックス様も喜ばれることでしょう! それでは、ハワード様――」
アイルは見逃さなかった――ローゲルの顔に張り付いた笑みが、礼儀的なそれから邪悪なものへと変わるのを。
「――言質さえ取れれば、あなたはもう用済みです」
次の瞬間、ローゲルの右手から迸った紅の閃光が、ハワード目がけて襲い掛かった。正式な果し合いの上で闘うならまだしも――自宅の応接間で完全に気を抜いていたハワードにとって、ローゲルが口早に呪文を唱えて右手を標的に向けるまでのタイムラグは、あまりにも短すぎる一瞬だった。ハワードはその一瞬の間に防護魔法を唱えるどころか悲鳴を上げることすらもままならず、無言でその赤き洗礼を受け入れた。
そしてその結果――ハワードはあっけなく床に倒れ伏していた。
◆
「え……。嘘、父さん……?」
あまりに一瞬の出来事だった。話が急すぎてなんの感情も湧いてこない。あの父があっという間に倒されてしまった
のだ。それも同じ守護団とはいえ、彼よりも遥か下の階級の者に。
「…………さて、これで邪魔者はいなくなった」
ローゲルがパチンと指を鳴らすと、アイルがこっそり二人の会談を盗み見していた応接間の扉が、蝶つがいも吹っ飛ぶかと思うほどの勢いで開かれた。
身を隠そうとするがもう遅い。完全に父に気を取られて不意を突かれたアイルは、ついにあの男と真正面から相対する羽目になってしまった――サルマ・ローゲルと。
聖なる守護団の正式なユニフォームである深紅のローブを纏った痩身。艶の抜けた茶色い髪に、顔に刻まれたシワから想像すると、年齢は三十代前半といったところだ。しかし、その不気味な笑みの裏に潜んだ殺伐とした雰囲気が、彼がただものの魔法使いではないことを声高に主張していた。
「あ……、僕、僕は……!」
「それじゃあ改めて――初めまして、アイル君。私は聖なる守護団パール支部隊長のサルマ・ローゲル。よろしく」
父を攻撃しておいてなお、それまでとまったく変わらぬ態度。それを直に見たアイルは、ローゲルのにこやかな挨拶に、まともに応じることはできなかった。
「ああ、大丈夫――お父さんには、ちょっと眠ってもらっただけだよ。全部終わった後には、ちゃんと目が覚めるだろうさ」
「なんで……僕になんの用があるっていうんですか……!」
わけが分からない。聖なる守護団――しかもその支部隊長が、どんな目的・目論見があってアイルに近付こうとする
のか。アイルはただ、いつも通り学園に行って、いつも通りの授業を受け、いつも通り父に怒鳴り散らされていただけなのに――
――いつも通り? ……いや、完全にはいつも通りではない。
《声》だ。どこからともなく突然アイルに向かって発せられた、あの地獄の底から響いてくるかのような声だけは、間違いなく非日常の出来事だった。そしてこの男が現れたのも、あの《声》が鍵のような――そんな予感がするのだ。
――まるで、あの声をきっかけに、すべての歯車が動き始めたような――
――そんな、異世界へと誘ってくれる予感が。あるいは、何か信じ難いものが異世界から誘われて来るような予感が。
けれど、そんな予感にワクワクする楽しみも――このローゲルと名乗る男がいては半減だ。
「……警戒しているようだね? 無理もない。……けど、さっき私が言ったことは概ね本当だよ。ラルフ・ザックス
様は君に会いたがっている」
「僕に……会いたがってる人がいる……」
それは不思議な響きだった。
今の今まで、アイルに興味を示してくれる人なんて、一人としていなかったのだ。魔法学園の同級生や教師たちはもちろん――実の肉親であるハワードまでもが、物語に没頭するアイルのことを嘲笑い、不気味がり、そして異常者だと罵った。頭がおかしいと罵倒した。
そんなアイルに会いたがっている――もし本当だとすれば、それはなんて素敵なことだろう。
アイルの顔に、少しばかりの期待の色が浮かぶ。
「さあ、私と一緒に来たまえ。ザックス様がお待ちだよ」
差し伸べられた手。
――この手を取ったその先には、僕を必要としてくれる人がいるのかな……?
アイルは、ローゲルが差し出した手に自らの手を伸ばし――そして、
『このたわけめが……其奴は貴様の父親を攻撃した張本人だろうが!』
部屋に響き渡る怒声。もちろん、それはアイルのものでもローゲルのものでもない。
「チッ、余計なことを……!」
そうだ――なんで今まで全然気付かなかったんだろう。ローゲルの言っていることは、さっきからおかしいところばかりじゃないか! 本当にちゃんとした理由だったなら、父さんを攻撃なんかするわけない!
「……ハッ! これが教師からの連絡にあった《謎の声》ってヤツかぁ? なるほど、これは確かに研究の余地があるかもな」
突然の謎の声に看破されたというにもかかわらず、しかしローゲルは落ち着いたものだった――が、その顔にはついさっきまでの穏やかさはない。落ち着いた雰囲気を醸し出していた目は今やギラギラと怪しく光り、口元は意地悪そうに吊り上っている。口調からも礼儀正しさは跡形もなく消え去り、本性を現したかのように下品な言葉遣いとなっていた。
「……! 騙そうとしたんですか……?」
「……できるだけ穏便にことを進めようと思ってたんだが――こうなった以上は仕方がねえな。ブチのめしてでも連行させてもらうぜ、ガキィイイ!」
言うが早いが、再びローゲルの手から赤色の閃光が放たれた。ハワードをして一撃で気絶せしめたその魔法は、直撃こそしなかったもののすぐ傍の壁に命中し、アイルはその衝撃の余波を受けて応接間から廊下へと吹っ飛ばされた。
「くははははははっ! 親子揃って情けねえ奴らだな!」
……これで、ようやくはっきりした。この男は紛れもない敵だったのだ。今思い返せば怪しいところ、不自然なところは山ほどあったというのに、何故自分はこの男の手を取ろうとしたのか。
だが、敵だと分かったところでどうすればいい? ローゲルは魔法使いのエリート集団、クラウゼン王国が誇る国防組織、聖なる守護団の支部隊長だ。魂幹魔法さえ発現していない未熟なアイルにどうこうできる相手ではない。
――なんで……なんで僕がこんな目に合わなくちゃいけないんだ!
痛む身体に鞭打って、なんとか辿り着いた廊下の突き当たりの物置に隠れながら、アイルはその小柄な身を震わせた。
『……隠れたところで大した時間稼ぎにはならんぞ小僧。実力であの男を打ち負かせ』
「無理だよ……アイツは魔法戦闘のプロなんだ! 魂幹魔法も使えない僕なんかが戦ったところで勝ち目はないよ!」
「おいガキィ、俺はかくれんぼに付き合ってる暇はないんだよ。こっちはお前のあとにあの化物女も捕まえなきゃならねえんだからな」
廊下を進んでくるローゲルの声と足音が、徐々に徐々に近付いてくる。これでは見つかるのも時間の問題だ。そして見つかるということは、即ち何か得体の知れない目的のために聖会に連れ去られることを意味する。
下手に動けば勘付かれる。しかしこのまま隠れていればまず間違いなく見つかってしまう。
「どうすればいいんだよ……!」
『戦え。それしか術はあるまい』
「他人事だと思って……。さっきから随分偉そうにしてるけど、君は一体誰なのさ……」
『小僧、それは貴様が自力で見つけるべき答えだ。そうでなければ意味がない』
アイルは思わず歯噛みした。
――もう嫌だ! 誰か助けてよ……!
そのとき、物置の扉が轟音とともに吹き飛ばされた。
「見つけたぜ、ガキィ!」
「うわぁあああああっ!」
意地の悪い笑みを浮かべるローゲル。
もう完全に状況は絶望的だった。逃げる手段などない。抗う術などもっとない。こんな、こんなところで、自分は捕まってしまうのだろうか。こんなところで、何者になることもなく。
「おら、来いガキ。それとも魔法で手足もぎとられて無理矢理連れてかれたいか?」
腹部に激痛が走った。ローゲルに蹴り飛ばされたのだ。魔法すら使わないということは、アイルを舐めきっている証拠の現れに他ならない。
――ああ、もう、僕はここで終わりなのか……?
『……仕方があるまい』
また、頭の中に直接響いてくるような謎の声。
『小僧、余が時間を稼いでやる。貴様はその間に、己の魂幹魔法を見つけ出せ!』
「……僕の……魔法を?」
「ガキ、いいからさっさと――」
――その時だった。
『――――グァアアアアァアアァアアァアアアアァァアアァアアアアッッッ!!!』
もはや《音》ではなく《衝撃》とも言うべき破壊力の咆哮が物置を軋ませた。まさに文字通りの爆音が物置の中を上へ下へと跳ね返り、アイルとローゲルの鼓膜をズタズタに引き裂かんとばかりに暴れ回って荒れ狂う。
「う、ぐあっ……! 何だこの声は! ぐああっ……頭が……!」
チャンスは今、このわずかな間だけだ。謎の声の咆哮でローゲルが無力化されている間になんとかするしかない。なんとかして、この間に魂幹魔法を発現させなければ――
「無理だよ」
無理だ。こんな絶望的な状況で都合よく自分の真の力が発動して敵をやっつけるだなんて――そんなの、
『――物語じゃあるまいし、か?』
「なんで……なんで僕の言おうとしたことが分かったの?」
『馬鹿者が……余は貴様が物心ついた時からずっと貴様の中にいたのだぞ。アイル・エアハート、まだ気付かぬか? 余の正体に。貴様の魂幹魔法に』
「僕の……」
アイルは目を閉じた。ローゲルのことなんて、今はどうでもいい。そして魔法学園で何十回となく教えられてきた、魂幹魔法の特性を思い出す――
《魂幹魔法》――それは、魔法使いの個性や価値観、アイデンティティがそのまま魔法として具象化したものだ。術者の魂の情報を元にして発動する、魔法使い最大の切り札となる術。それはつまり、『自分とは一体どういう人間なのか?』――この、魔法使い・非魔法使いに関わらず、全ての人類に対する永遠の命題とも言える問に対する答えが《魂幹魔法》であると言える。魂幹魔法とは、すなわちその魔法使いの象徴――なのだ。
たとえば、今日の授業でテレサ・ラドフォードが手本を見せた、《光の舞踏会》という魂幹魔法――あれは一見、テレサの持つ華麗さを表しているように見えるが、それと同時に『目立ちたがり屋』『見栄っ張り』といった一面もあることを意味している。
つまり魂幹魔法の起こす奇跡とは、自分自身を表しているも同然。
『お前は誰だ?』――そう聞かれているのと、一緒なのだ。
――それじゃあ、《僕》はどういう人間なんだろう? 《僕》を象徴するものってなんだろう?
『僕は誰だ』――アイルは自問する。
物心ついた時から今まで、ずっと物語の世界に強い憧憬を抱いて生きてきた。暇さえあれば物語ばかり読んでいた。いつどんな時だって本を手放したことはなかった。
お伽話のような魔物や魔獣がいればいいのにと願い続けて、でもやっぱりそんなものはどこにもいなくて。だったら自分で探しに行こうと考えた。いつか大人になって、凄い魔法をたくさん覚えたら、その時は、物語に登場するような幻獣や聖域を自分から探しに行こう。
そしてその時は、一番初めにアイツに会いに行くのだ。
あの灼熱の竜・ルシファーに。
――なんだ、僕はもう、ずっと前からその答えを見つけていたんじゃないか。僕はずっと、自分の魂幹魔法を知っていたんじゃないか。
「……余計な邪魔が入ったみてえだが、今度こそ覚悟しろよガキ! 俺は必ずテメエを聖会に連れ帰って、ザックス様から恩賞を貰い受けるんだ!」
何やら下品な叫び声が聞こえるが、そんなもの、今のアイルには気にならない。アイルはローゲルの方を見ようともせず、必死に鞄の中を探ると、そこから一冊の本を取り出した。
『イヴァン・ベーメルと魔界の冒険』――ボロボロになるまで読み込まれた革表紙の本に、アイルは手を置いた。
手順など知らない。これで本当に魂幹魔法が発現するという確証もない。けれど、アイルの想いはただ一つ。『僕は誰だ』――その問いに対する答えはただ一つ。
「これで終わりだガキ――」
『僕は誰だ』――ローゲルの怒声、そして今にもアイルに襲い掛からんと迫る呪文の閃光――これらすべての情報を頭から追い払い、自ら投げかけたその問いにアイルは自答した。
「僕は――『僕は物語だ』! 来たれ灼熱の竜・ルシファー! 魂幹魔法《幻想召喚》!」
その詠唱に一瞬遅れて、地獄の底から這い上がってくるかのような低い唸り声とともに、アイルが手を置いた本から真紅の光が溢れだした。血と比べてもなお赤く、炎と比べてもなお紅い、猛烈な鮮烈さの光は、今まさにアイルに呪詛を投げかけようとしていたローゲルを威嚇するかのように輝きを増していく。
『イヴァン・ベーメルと魔界の冒険』からあふれ出た真紅の光――それは物置の中に充満し、やがてアイルとローゲルの間に立ちはだかり、誰もが知るある生物の姿を象った。そしてある生物を象っただけに過ぎなかった真紅の光は、赤い鱗に巨大な翼、大蛇のように太く長い尻尾を持った、伝説の幻獣へと姿を変える。
そしてそれを包んでいた幽かな光の残滓が消し飛んだとき、ついにアイルの魂幹魔法の権化たる幻獣が、その姿を現した。
「童話『イヴァン・ベーメルと魔界の冒険』より出でし、灼熱の竜・ルシファー、主の命に従い、確かにここに参上した。さて我が主、アイル・エアハートよ。まずはどいつから焼き殺してくれようか?」
◆
一方、ローゲルの呪文によって一時的に昏倒させられていたハワードは、地獄の底から脳に直接語りかけてくるような恐ろしい声で、ようやっと目を覚ました。未だに軋む身体に鞭打ち、その長身を部屋の床から引き剥がす。
「ぐ……この私が、あんな若輩の呪文に遅れをとるなど……!」
頭を振りながら窓の外に視界を向けると、そこに映った光景に、ハワードは目を剥いた。なんと、つい今しがた自分を攻撃した張本人であるローゲルと、我が息子――アイルが相対しているではないか。
「何だあの怪物は!? まさかドラゴン……!? 馬鹿な……空想上の生物だったはずでは……」
もう何十年も昔、まだハワードが四つの年だった頃、何かの機会で読んだ物語に登場する紅の竜――それが、まるでアイルを守るかのように鎮座しローゲルを睨みつけている。
「……! そうか……さてはローゲルの奴め、これを狙っていたな……」
あの竜は恐らくアイルがようやく発現させた魂幹魔法だろう……とハワードは目星をつけた。
つまりあの食えない若輩者は、何らかの手段で我が子に秘められた魂幹魔法の可能性を見出し、先にその力を手に入れようと考えたわけだ。本当に希少・強力な魂幹魔法を発現させた者は、その研究への協力と引き換えに莫大な恩賞を受けられる。大方世間知らずの小僧を騙くらかして、その報酬を独り占めしようとでも思ったのだろう。流石、パールなどという片田舎に派遣されているだけのことはある。それほどまでに金と名誉を求めていたか。
(しかし、アイルがまさかあんな魔法を発現させるとはな……)
あれが一体どういう魔法なのかは知らないが、ハワードは、通常魔法でも魂幹魔法でも、あんな類の魔法魔術は見たことも聞いたこともなかった。
実に私の気分を害する息子だった――とハワードは歯噛みする。どんなに厳しい魔法教育を施そうと、彼の成績は平均して中の上、良くて上の下といった具合だ。生まれながらのエリートとして愚昧どもを蹴散らし続け、ついには聖なる守護団に入団し、今やクラウゼン王国の首都カーティスにある守護団本部を任せられる身となった自分とは、あまりにも不釣り合いだ。
お前など生まれて来なければよかった、迷惑だから自分の目の前から消えてしまえと、そう言ったことだって何度もある。しかしアイルはそんな暴言を受けても、心ここにあらずといった様子で虚ろな目を向けるばかりだった。それが余計に気にくわない。
役立たずの馬鹿息子だ。
「だが……お前は初めて、私に幸福をもたらしてくれそうだよ」
ハワードは窓の向こうに映る我が子の、これまで見たこともないほどに活き活きとした顔を見つめながら、呟いた。
「ローゲルより先にこのことを聖会に報告すれば――私の地位と名誉は絶対不動のものとなる! 喜べアイル……私は
貴様が胸を張って誇れる存在となるのだ……。くくっ……はははははははははっ!」
高らかな笑い声をあげ、ハワードは裏口から気付かれないようにエアハート邸を出た。アイルはきっと、ローゲルが捕えるだろう。自分はそれよりも先に聖会の専門部署へと駆け込み、事実を伝えるだけでいい。そうすれば自分がアイルの魂幹魔法の第一発見者となれる。
そしてその先には富と名声が――
「あははっ……ははははははは!」
ハワードは狂ったように笑いながら、聖会の本部がある首都カーティスへと向けて、夕闇に染まり始めた空の彼方へと飛んで行った……。
◆
小山のような巨躯でそびえ立つ紅の竜を目にして、アイルの心は歓喜に打ち震えた。ついに自分にも発現した魂幹魔法……自分だけの魔法。それがまさか、こうも自らの願望を完璧に叶えた形で発現するとは、思ってもみなかったのだ。
アイルは思わず、本が大量に詰め込まれた鞄をぎゅっと抱き締める。
「感動の体面に浸っている暇はないぞ、小僧」
「え――」
「え、ではない。全くお前という奴は、そういうところまでイヴァンにそっくりだ……」
ルシファーは呆れたように言った。
「そこにいるローゲルとかいう男は間違いなくお前の敵だぞ。それをこの余が、直々に始末してやると言っておるの
ではないか」
そうだった――と、アイルは思い出す。感動のあまり、目の前の男のことなど今のアイルには完全に眼中の外だった。慌てて視線をローゲルに向けると、彼はいつの間にか右腕をルシファーに向け、早口で何かを捲し立てるように呟いていた。
「……prissims ignis……」
「ッ! ルシファー避けて! 何か来る!」
「もう遅えよ! くたばれ化物が!」
ローゲルが突き出した右腕からリンドウ色の火球が放たれる。その火球は渦を巻きながら猛烈な勢いでルシファーへと直撃し、瞬く間に紅の鱗を包み込んだ。
「ルシファーーーッ!」
「はっ! 驚かせやがって! 所詮はガキの未成熟な魔法――結局見かけ倒しじゃねえか! はっはははははははは――――」
ローゲルの高笑いを他所に、アイルは先刻自分が召喚したばかりの竜の元へと駆けよろうとした――が、ローゲルが放ったリンドウ色の炎はとんでもない温度に達しており、近付こうとするアイルをその熱で牽制している。
アイルは改めて、自分を捕えようとする男――サルマ・ローゲルの実力を痛感した。これだけの威力のある魔法など、そんじょそこらの成人魔法使い程度では扱えない。彼は紛れもないエリートだ。
「さあ、頼みの綱の赤トカゲはご覧の通りの有様だ……。だが、テメエのその希少な魔法だけは評価してやる。大人しく俺について来い。ザックス様がお待ちかねだぜ」
「――――ッ!」
下劣な笑みを浮かべながら、一歩一歩、ローゲルが近付いてくる――が、
「……そこの愚物、赤トカゲとは誰のことだ?」
その身を炎で焼かれながらもなお平然とした口調で喋るルシファーに、ローゲルはもちろん、アイルまでもが愕然とした。
アイルは燃え盛る竜の鱗に目を凝らす。リンドウ色の炎は確かにルシファーの身体を踊るようにして舐めていたが、しかしそれが彼の紅の鱗を傷つけている様子が一切ないのだ。焦がすわけでも焼くわけでもなく――そしてそのうち、リンドウ色の炎はルシファーの鱗に吸収されて消えてしまった。
「なっ――ふざけんな……。今のは火属性の魔法の中でも高位に位置する呪文だぞ! それが、なんで……!」
ローゲルは情けないほどに狼狽え取り乱していたが、アイルは冷静だった。
(そっか……ルシファーの強さは原作とまったく同じなんだ……!)
それなら確かに……灼熱の炎を放つルシファーがたかが人間の魔法使い風情の炎を喰らって倒れるわけがない。たかが人間程度に負けるわけがない!
アイルはただ、その感動に浸っていた。
たとえローゲルを倒し、何とかこの場を退いたとしても聖会は追撃の手を緩めはしないであろうことなど、この時は考えてもいなかった。
「……くそ! この後はソーラ・シュヴァルツも捕まえなきゃならねえってのに、何だってこんなガキなんぞに……!」
「ソーラ・シュヴァルツ……?」
どこかで聞いたことのある名前だ、とアイルは首を傾げた。そうだ……今日の最期の授業で、クラスメイトたちが確かにそんな噂をしていた。
曰く、元クラウゼン王国最強の魔法使い――その名も《ソーラ・シュヴァルツ》。
「現実と常識だけを後生大事に抱きかかえ、空想の世界を全否定する石頭どもが……。おいアイル、お前の望みとあらばこの男、すぐさま火葬で消し炭にしてやるがどうする?」
「だっ……駄目だよそんなことしたら!」
アイルは意気込むルシファーを慌てて制止する。
「貴様……余を召喚した以上、この程度のことで臆病風を吹かれては困るぞ」
「駄目だよ! この人はたぶん、聖会と――国家と繋がっているんだ。なんでこの人が僕を狙うのかは分からないけれど――もしそんな人を殺しちゃったら、聖会が僕たちを追いかける大義名分を与えてしまうじゃないか!」
「ほう……なるほど、確かに理は通っておる。流石、余を召喚しただけのことはあるな」
何とかルシファーの殺意を収めることに成功し、アイルは安堵した。豪胆に見えて意外と戦略眼に長けているのもこれまた原作『イヴァン・ベーメルと魔界の冒険』の通りだと、冷静に分析する。
「クソが……! 何なんだよこのガキは! ふざけやがって――、……なんだあれは……!?」
それまで散々に悪態を吐いていたローゲルの声に驚愕の色が見え、彼は東の空を見上げていた。それにつられてアイルも上を見る――、
すると。
「……ventus,im……sagittal,a,f……!」
東の上空から何かの呪文の詠唱が聞こえてきたかと思うと、無数の風の矢が、アイル目がけて勢いよく襲い掛かってきた。
「うわぁああああっ!」
その刹那、何か強い力に腕を引っ張られたアイルの身体は宙を舞い、空高く飛翔していた。下方を見下ろすと、アイルがほんの一秒前まで立っていた地面が、さっきの風の矢による攻撃で吹き飛ばされてしまっている。
「こっ、これってもしかして……!」
「フン……お前の夢のひとつでもあっただろう?」
そう、風の矢がアイルに直撃する瞬間、ルシファーがアイルの手を引っ掴んでその翼を羽ばたかせ、空へ飛び上がったのだった。
アイルは今、空を飛んでいた。
◆
「う、うわあ、すっごい……! ルシファー! 僕、空飛んでるよ! 空!」
ルシファーの硬い背中によじ登りながら、アイルは身を切る風を肌で感じた。地面はもう遥か下、ここからなら夕闇に沈み始めたパールの町中が見渡せそうだ。
「浮かれている暇などないぞ愚か者めが……後ろを見てみろ!」
「後ろ……? ――うわっ!」
言われるがままに背後を振り返ってみると、そこには――
「tonitrus,us,m……unguis,is,m」
「aqua,ae,f……」
「tonitrus,us,m……sagittal,a,f……」
「……diffusio lucis……imber,bris,m」
深紅のローブに身を包んだ、十人ほどの魔法使いたちが小声で呪文を口ずさみながら、空を駆けるアイルとルシファーを猛然と追いかけてきていた。ある者は箒に跨り、またある者は絨毯に乗り、またある者は何にも頼らず己の身一つで空を飛んでいる。
「なっ――さっきの攻撃はやっぱりあの人たちだったの!? なんで――さっきまではローゲルって人しかいなかったのに!」
アイルは金切り声をあげる。
(このタイミングでの登場――もしかして、ローゲルの仲間……?)
あまりに唐突すぎる展開に脳がついていかない。魔法使いの家では大抵不法侵入者避けの結界魔法がかけられてある。それはもちろん、エアハート家も例外ではなかった。しかも家主はあの完璧主義者の父、ハワードだ。結界の作成中にくだらないミスを侵したとも思えない――ならばなぜ、こうも簡単に侵入を許したのか?
「……余が召喚されて間もなく、エアハート邸から人影が東の空へ飛びだして行くのを見かけたが……犯人は恐らくお前の父親だ。アイル、お前の父親が自ら屋敷の結界を解いたのだ」
「父さん――父さんがってどういうこと?」
「ローゲルはお前の身柄を狙っているのだろう? 余とお前がローゲルに構っている間に気絶させられていたハワードが目を覚まし、聖会とやらに情報を流したのだ!」
〝そしてそれを知った聖会は僕を捕えるため、ローゲルに増援を送った……〟
アイルの頭の中で絶望の方程式が組み立てられ、最悪の結論を導き出していく。
「そんな――つまり父さんが僕を売ったってこと……うわっ!」
ルシファーが急激に高度を落とし、アイルは舌を噛みそうになりながらも振り落とされまいと必死で竜の鱗にしがみついた。そして間一髪、一秒前までアイルの脳天があった場所を雷撃の矢が掠めていく。どうやらアイルたちを追撃している魔法使いたちが放ったもののようだ。
「こっ――攻撃してきたよ!」
一度捕まってしまえばゲームオーバー、まさに命を懸けた空中鬼ごっこ。
「どうやら無駄口を叩いている暇はないらしいな……。アイル、お前どこか身を潜めるのに都合の良い場所など知らぬか?」
「えっと……それならここから南東にちょっと行ったところに大きい森が……ルシファー! 右からなんか来たっ!」
「案ずるな。威嚇射撃だ」
アイルが警告するまでもなく、ルシファーは攻撃を予期していたようだった。巨体に見合わぬしなやかな動作でサファイア色の閃光を躱す。
「ではひとまずはこの追っ手を振り切ることに専念するとするか……」
ルシファーは再び飛んできた閃光を回避しながらやや南よりに進路を修正する。
と、そのとき。
「……告! アイ……―ト! ……イル・エア――……!」
後方から何やら自分たちを呼びかける、かすかな声が聞こえた。アイルは耳を澄まし、その声に集中する。
「……警告! アイル・エアハート! おとなしく投降しその身柄を聖会に預けよ! さもなくば、総勢十二名の聖なる守護団《魔犬討伐隊》が総攻撃を仕掛け、即座に貴様を無力化する!」
(魔犬討伐隊……?)
アイルは思わず身震いした。
昔、父から聞いたことがある――《魔犬》とは確か、『国家反逆魔法使い』の隠語であったはずだ。どの組織にも所属していない者を《野良》と言い表すことがあるが、それから連想される単語として《野良犬》、それに魔法使いを示す《魔》の字がついて、縮めて《魔犬》。つまり《魔犬討伐隊》とは、聖なる守護団の中でも国家に仇なす魔法使いを狩るために作られた、《異端狩り》を専門職とする特殊部隊の事なのだ。
「繰り返す! アイル・エアハ―ト! おとなしく投降し身柄を聖会に預けよ! さもなくば即座に総攻撃を仕掛ける!」
「うああああ……どうしようどうしよう!」
繰り返される警告に、アイルは頭を抱えた。
もしアイルを確保する理由が穏やかなものであれば、初めからもっと友好的な手段で接触してくるだろう。間違っても父を気絶させ、あまつさえ追い詰めるかのような迫り方はしないはずである。ここで投降したら、奴らに何をされるか分からない。かといって向こうの要求を拒めば、エリート中のエリート魔法使いたちによる一斉攻撃、複数属性上級魔法の集中砲火……。
最悪の二択を迫られ迷っているうちに、いつの間にかアイルたちは、パールの町南東にある森の真上まで来ていた。アイルが潜伏場所に提案した場所だ。
「でも、追っ手を振りきれてないんじゃ隠れようがないよ……」
「これが最終警告だ! 投降せよ、アイル・エアハート!」
魔犬討伐隊たちは、容赦なくアイルを追い立てる。
(そんな……一体どうすれば……!)
「フン……。答えなど一つに決まっておろうが」
空を掻っ切るようにして飛行していたルシファーは速度を落とし、なんと後方を振り返って追っ手と真正面から対峙した。
「……え? ルシファー?」
アイルの背筋をヒヤリとしたものが滑り落ちる。
「標的が止まったぞ! A班は攻撃呪文、B班は捕縛結界の準備をしつつ包囲しろ! 一部の隙も作るなよ! 竜の挙動から目を離すな!」
隊長らしき若い男が出す堅実な指示に、アイルはますます焦った。奴はローゲルのようにターゲットが子供だと思って油断する馬鹿ではないらしい。
追っ手は凄まじい勢いで向かってくる。あと十数秒もしないうちに追いつかれる――!
「何やってるのさルシファー! 囲まれたらお終いだよ!」
「そうなる前に一掃する。アイル、自分の耳に魔法で防護膜を張れ!」
「え、なんで――」
「早くせんかたわけが! 貴様に万が一の事が起きれば、所詮は魔法の産物でしかない余まで消滅するであろうが!」
「う、うん……」
アイルは一時的に忘れていた。もう昔からここにいるのが当たり前みたいに振る舞っているが、ルシファーはアイルの《幻想召喚》によって生み出された魔法的現象だったのだ。
頭の中から遥か昔に習った防音魔法の呪文の記憶を引っ張り出し、つっかえながらも何とかを詠唱を終えた。自分の耳にうっすらとした膜がかかるのを、アイルは感じた。
そうしている間にも、魔犬討伐隊はアイルたちとの距離をもの凄いスピードで詰めてくる。
「準備できたよ!」
「よし! 念のために防音魔法の上から手で耳を塞いでおけ! 行くぞ――」
迫りくる魔犬討伐部隊に向けて、ルシファーが深く深く息を吸い込むのを見て、アイルは慌てて手で両耳を強く抑えた。アイルの直感が正しければ、ルシファーは間違いなく《あれ》を使うつもりだ。
「A班、攻撃呪文発射準備――」
討伐隊の一人が号令をかけるが、アイルの心はさっきよりもずっと余裕を保っていた。
『イヴァン・ベーメルと魔界の冒険』、その第四章において、主人公イヴァンを敵の手から逃がすために、彼の相棒・ルシファーが使った大技――
「《焦熱の咆哮》」
ルシファーは肺いっぱいに溜まった空気を灼熱の気体に変えて一気に吐き出した。
「グォオォオオォォオォオオォオオォオォォォオオオオォォオォオオォオオォオァアアッッ!!」
防護膜を張った耳の上からさらに手で固く抑えつけたにもかかわらず、ルシファーの雄叫びはアイルの鼓膜を盛大に揺るがした。空を割らんばかりの大咆哮とそれに伴う熱風は、この場の空間さえも歪めてしまったかのようだ。
「なっ……何だこれは……! ぐああああっ!」
防御措置を施していたアイルでさえその様だったのだから、いくら一定の距離があったとはいえ、不意を突かれまともな対策もできていなかった魔犬討伐隊はたまったものではない。
「すごい……!」
感嘆の一言が、アイルの口から零れ落ちる。
ルシファーの《焦熱の咆哮》は、アイルの想像を絶する破壊力だった。ヤジリ型に組んでいた隊列はバラバラに崩され、そのうちの何人かは、乗っていた箒や絨毯から転がり落ちて、真下の森へと落下していく。
何とか空中に踏みとどまった八人の討伐隊。しかしアイルの目には、《咆哮》の際に発生した熱にやられて満身創痍のように見えた。
(『イヴァンの冒険』に書かれてた通りだ……)
アイルがこよなく愛する物語、『イヴァン・ベーメルと魔界の冒険』。その作中では、ルシファーの雄叫び《焦熱の咆哮》は、爆音による衝撃とその熱風で、一時的に敵勢力を行動不能にまで陥れていた。
まさにそれが、現実に再現されたのだ。
「今度は余の方から貴様らに警告してやろう」
怒りを露わにしたルシファーに、討伐隊たちの表情は恐怖に歪む。
「退け。力の差は明らかだ。もし貴様らが、己の力量も弁えられぬ大馬鹿者だというのなら――」
ルシファーは続けた。
「貴様ら全員灰も残さず焼き殺すが、その覚悟はできていような?」
みっともなくも狼狽え動揺するような真似こそしなかったものの、討伐隊たちに走った戦慄の一端を、アイルは見逃さなかった。
指示を飛ばしていた討伐隊のリーダーらしき若い男は、数秒の間、眉根を寄せて黙考すると、
「…………一時本部に撤退。ザックス様に報告する」
とだけ告げ、彼はローブを翻し部下を引き連れて、あっという間に夕闇の彼方へと消えて行った……。
「……フン。根性論でも振りかざして玉砕覚悟で突っ込んでくるかと思ったが……存外冷静な奴らだったな。賢いことだ」
空中でアイルを背に乗せたまま、ルシファーは言った。
「……どこかに隠れて隙を窺ってるとか、ないよね?」
アイルは魔犬討伐隊が去って行った方角を見渡す。
「索敵は余の専門外だ。そこまでは知らぬ――が、余の《咆哮》の衝撃で幾人か下の森に落ちて行ったからな。そのう
ち回収しに来るやもしれん」
「そっか……。じゃあこの森も、潜伏するには適さないかなあ……」
アイルは嘆息する。早急にこの場を離れなければ、あの魔犬討伐隊はさらに増援を引き連れてアイルたちを追って来るだろう。そうなる前にここを離れなければならない。
(……それにしても、今日は一度に色んなことが起きたなあ……)
アイルは一日の出来事を思い出す。
教室で普通に授業を受けていただけなのに、突如として聞こえた謎の(ルシファーの)声。家に帰れば聖なる守護団のサルマ・ローゲルなる者が訪ねてきて父を攻撃、アイルを聖会に連れて行くと言い放った。
(そして――)
アイルは鱗を掴む手に力を込める。頬は緩み、笑みが零れていた。
(ついに僕にも発現したんだ……! 魂幹魔法が、ルシファーが……!)
なぜ聖会や魔犬討伐隊は自分を狙うのかとか、ローゲルが言っていたソーラ・シュヴァルツという魔法使いのことなど、分からないことは色々あったけれど、それはこの場所を離れてから考えていけばいい。
「だがなアイル。どうやら我々は、この森に身を潜めるしかなさそうだぞ」
「――え? ルシファー、それどういうこと?」
アイルの頬を冷や汗が伝った。
この状況でのそのセリフ。
もしかして、もしかすると――
「うむ。まあ平たく言ってしまえば――魔力切れだ」
「魔力切れ――って、ぇえ!? ちょっと待って! それってまさか――」
アイルが最悪の可能性に行き着いた、その瞬間だった。
ぼん、と小さな音がしたかと思うと、今までアイルが腰かけていた竜が消え失せ、代わりに彼の視界には夜の闇に沈んだ森が目いっぱいに広がった。
魔力切れとはそういうことだった。長時間による飛行と《焦熱の咆哮》により大幅に魔力を消費したルシファーは、現界を維持できなくなったからだろう、煙のようにアイルの下から消えてしまったのだ。
そしてそのあと、ルシファーの背に乗って空を飛んでいたアイルに待っているのは、とても物理的な自然現象、即ち――
「あ、え、ちょっと、う、うわ……」
――――自然落下だった。
「うわああああああああああああああああああああああっっっ!!」
夜の闇に染まる町外れの森に向かって、アイル・エアハートは吸い込まれるようにして真っ逆さまに落ちて行く。
高所からの落下による死への恐怖の中で、アイルの意識は急速に遠のいていった……。
◆
一方その頃、首都カーティスの宮殿で、ラルフ・ザックスは床に跪く一人の男を冷ややかな目で見下ろしていた。その男とは、アイル・エアハートの実の父にして聖なる守護団カーティス本部構成員の一人でもある、ハワード・エアハートだ。
当初の予定では、ローゲルにアイル・エアハートを追い詰めさせてその精神を極限状態まで追い込み、未成熟な魂幹魔法を発現させたあと、ザックス自身の手でアイル・エアハートを口車に乗せ手中に収める……、そういう計画のはずだったのだ。そしてそれは実際に途中までは上手く進んでいた。しかし――
「……我が子を聖会に売り飛ばそうとする親のせいで、我が計画が破綻するとはな……」
ザックスは憎々しげに毒づいた。端正な顔が苛立ちに歪む。
「申し訳ありませんザックス様! 息子のアイルの魂幹魔法発現に伴い、少しでも聖会のお役に立てればと思いまして――」
「……勝手に魔犬討伐隊の出動を要請したのはやはり貴様か、ハワード・エアハート」
無様に床に跪き許しを請うハワードに、ザックスはまるで汚物を唾棄するような侮蔑の視線を向ける。ハワードの往生際の悪さと醜さに吐き気すら覚えたほどだ。
〝――このクズのおかげで、余計に状況が混乱してしまった……〟
ザックスはハワードの企みを完全に看破していた。
ザックスが求めているのは、より優れた魂幹魔法の使い手だ。ハワードはそれをローゲルの来訪から察して、息子を自ら聖会に差し出すことで褒賞を貰い受けようとしていたと、大方そんなところだろう。
ザックスは元王族にして現聖会の実力者だ。ハワードにそれなりの地位と名声を与えてやれるだけの権力は持っている。
しかし欲に目が眩んだハワードは正常な判断能力を失い、自ら魔犬討伐隊の出動を要請した挙句、無理矢理にアイル・エアハートを確保しようとしたが……それすらも失敗し、あの少年に聖会に対する不信感を植え付けるだけの結果に終わってしまった。
「……ハワード、とりあえずは俺の計画を水泡に帰した貴様の処遇を決めねばならんな」
「そっ……そんな! この失敗は本当にたまたまで――お願いします! お望みとあらばなんでも――アイルのことでしたら、必ずや捕まえてみせます! だからどうか――」
『処遇』と聞いて余程嫌な想像をしたのだろう、ハワードは必死に弁解とも命乞いとも言えぬ言葉を並べ立てる。
その姿を見て、ザックスの脳裏にある《考え》が浮かんだ。
「……そうだな。アイル・エアハートや《レジスタンス》の連中を捕獲する上で、父親の貴様という存在は多少なりとも役に立つかもしれん。……いいだろう、貴様を俺の計画に加えてやる」
「あ……ありがとうございます! それでザックス様、私の褒賞の件なのですが――」
その瞬間、ハワードは手足の一本たりともまともに動かせなくなっていた。どころか、口を開くことすらままならない。
「…………っ! …………! ……っ!?」
この先に待ち受ける運命を悟ったのか、ハワードは床に横たわったまま身を捩じらせて、必死にザックスとの距離
を取ろうとした。
しかしそんな抵抗、ラルフ・ザックスの前では何の意味も持たない。金髪の美丈夫は死にかけの芋虫さながらに床でのたくるハワードを見下ろしながら、不気味な微笑を浮かべると――
ある魔法の詠唱を始めた。
「pupa,ae,f……cor,cordis,n.……neco,are,avi,atum,……guberno,are,avi,atum……!」
「……………!? ~~~~~~~~ッッッ!! ――――――…………っ!」
その詠唱はハワードの脳内に直接語りかけ、精神をズタズタに引き裂き蹂躙した。声なき苦悶の非鳴を上げるハワードだったが、しかしその程度で怯むザックスではない。
「混沌魔法……《操り人形》」
「――――――……っっ!!」
脳内を流れる呪詛の最期の一節を聞き終えたとき、ハワードの心は、永遠に失われた。
彼は人形と成り果てていた。
◆
ソーラ・シュヴァルツは、パールの町の外れにある森の中を歩いていた。その足取りからは、うっかり枯葉や木の枝を踏んで音をたてないようにと慎重さが窺える。
背負った『大荷物』の重みを改めて再確認すると、ソーラはひとつ溜息を吐いて、右手で軽く髪をかき上げた。
女性にしては高めの背丈に凛とした顔立ち、そして美しいルビーレッドの髪は肩甲骨の辺りまで伸びており、持ち主の気高さを表している。徹底的なまでに機能性を重視した服装、肩からマントを羽織り、さらに腰には二振りの剣を下げ、一見するとどこかの国の傭兵のような格好でさえあった。
しかしソーラ・シュヴァルツはれっきとした魔法使いだ――ただ、まともな魔法が使えないというだけで。
もし自分にも通常魔法が使えていれば、この背の『荷物』も魔法で簡単に運べたのに――という後ろ向きな思いを、ソーラは首振って打ち消した。
「また厄介な『大荷物』を拾ってしまったな……」
ソーラの背中に抱えた『大荷物』。それは十四、五歳くらいの少年だった。
というのも、現在ソーラは《魔犬討伐隊》の追っ手の目を欺くためにこの森に潜伏しており、今は夜のパトロールのため、森に不審なものがないか見回っている最中だったのだ。パトロールを終え、さあアジトに帰ろうとしたところで、身の毛もよだつ怪物の咆哮がソーラの耳をつんざいた。何事かと上を見上げてみれば――なんと、それは神話・お伽話の類でしか見たことのなかった《竜》だった。そしてその竜を従えた少年が、魔犬討伐隊の連中を一掃し、自分めがけて真っ逆さまに落下してきたのだ。
無視するわけにもいかず、ソーラはなんとか少年を抱き留めた。雪のような白髪に整った目鼻立ちの、まだ幼さが残る少年――見れば、高所からの落下による恐怖からか、気を失っている。
悩んだ末、ソーラは少年をアジトまで連れて行くことにした。今はアジトまでの道程を歩いているところだったのだ。
(この子が乗っていたあの《竜》は魂幹魔法によって生み出されたものだ……)
ソーラには、なんとなくそれが分かった。
もしかしたら『この少年』も自分と『同類』で、物語の世界に憧れた口なのかもしれない。そう考えるとなおのこ
と放っておくことはできなかった。
「……物語の世界は美しいだろう? 私もお前と同じだよ……」
背中で静かな寝息を立てる少年に向かってそう呟くと、ソーラはアジトへと歩く足を速めた。
◆
泥のように混濁した意識の片隅で、不意にアイルは自分が何か、とても温かくて柔らかくて、しかし力強い誰かの
背中に背負われていることに気が付いた。
母を幼少の頃に亡くし父に忌み嫌われてきたアイルには、誰かに甘えたり、おぶってもらったりした経験がない。
(誰のだろう……この背中)
その正体を確かめようとうっすらと目を開けてみれば、ルビーレッドの美しい髪が、アイルの目と鼻の先でさらさらと揺れている。
たぶん女の人なのだろう、とアイルは思った。そしてふと視線を下ろしたその先、女の人の腰に差された剣の柄に、達筆な字体で文字が刻まれている。
《ソーラ・シュヴァルツ》
どこかで聞いたことがあるような名前な気がしたが、それを思い出す前に、アイルの意識は再び闇の中へと呑み込まれていった。
ここまでの登場人物がほとんど主人公とオッサンだけって……。
次回はキャラいっぱいでてきます。