第一幕 竜の呼び声
◆
『嫌だよ……。僕はまだ帰りたくない。ずっとこの世界にいたい!』
雪のように真っ白い髪をした少年は、必死に叫んでいた。
彼を見送るために《世界旅行の扉》の前まで見送りに来ていた魔物たちは、揃って悲しそうな表情を浮かべている。
『甘ったれたことを抜かしおって――お前はこの世界で何を学んだ? お前は元いた世界へ帰らねばならん。人間は魔界では暮らせない。さっさと行け、馬鹿者め』
魔物の群れの中から一頭の赤い鱗の竜が進み出て、少年に告げた。
少年は今にも泣きだしそうな顔をして、扉に手をかける。この扉を通って現実世界へと変えてしまえば、もう二度と魔界には来ることはできない。それが分かっていたからだ。
『安心して。君はこっちに来ることはできないかもしれないけれど――いつの日か、きっと魔物たちが君を迎えに行くから』
少年の手の平ほどの大きさしかない妖精が言った。
『本当? 約束だよ……。いつかきっと現実に来てね……』
少年は泣き笑いしながら、ゆっくりと扉を押し開ける。
その奥は白い光で満たされていた。
『魔界を救ってくれて本当にありがとう、イヴァン・ベーメル。いや――』
少年の姿が白い光の中に消え、扉が閉まるそのとき、千頭を軽く超える魔物たちが、声を揃えて呼んだ。
少年の名を。
『――アイル・エアハート――』
物々しい音を立て、扉は完全に閉まりきった。
それとともに、白い髪の少年、アイルはベッドで静かに目を覚ます。
彼の大好きなお伽話の夢は、いつもそこで終わってしまうのだ。
◆
竜が火を吐く。怪鳥が人を乗せ大空を舞う。森の精霊が祝福の歌を口ずさむ。洞窟のような大口を開けて人を飲み込む大蛇がいれば、それらの魔獣を打倒せんと勇猛果敢に挑みかかる伝説の剣士がいる。
お伽話や作り話の世界は、いつどんな時だって夢と希望に満ち溢れていた。人間の空想が築き上げた奇跡のドラマ。綿密に作り込まれた世界観は読者の心を創作の世界へと釘付けにし、壮大に張り巡らされた伏線は、時には驚愕、そして時には絶望を与えてくれる。
そのページをめくる度、彼は心の底から思うのだ。
「…………こんなことが、現実に起きたらいいのになあ」
思わず口から漏れ出た本音にさらに落胆しながら、白髪の少年、アイル・エアハートは読みかけの本をぱたりと閉じた。
題名『イヴァン・ベーメルと魔界の冒険』――その名の通り、イヴァンという少年が、龍だの怪鳥だの精霊だの大蛇だのと戦いながら、または協力しながら、神秘の異世界を冒険するというお伽話で、活字中毒ならぬ《物語中毒》のアイルが特に気に入っている一冊だ。
主人公・イヴァンの設定は、アイルと同じ十四歳――それなのに、両者が今現在置かれている環境には天と地ほどの差があった。アイルがいるクラウゼン王国には、残念ながら、お伽話のような龍も怪鳥も精霊も大蛇も存在しない――いや、あるいは未だ見つかっていないと言うべきか。
「創作の世界はこんなにも神秘的なのに、なんで僕は現実なんかに生まれてきちゃったんだろうね……」
ロウソクが灯っているだけのがらんとした学園の図書館には、アイル以外誰もいない。それもそのはず、今はアイルが通う《パール魔法学園》の授業の真っ最中で、学園のすべての生徒が何かしらの授業や、または魔法の実技訓練を受けているはずなのだ。
――ただ一人、こうして授業の空き時間を潰しているアイル・エアハートを除いて。
「……魔法が使えるようになった分だけ、百年前よりはずっとマシなのかもしれないけれど、」
アイルは愛おしそうに本を撫でさする。その表情は、もはや生まれたばかりの我が子へ向ける母親のそれだった。
「……けれど、百年前なんて、死んだお爺ちゃんも生まれてないからなぁ。魔法が当たり前になった今じゃ、やっぱり物足りないよ」
さっきからうんともすんとも言わない本に向かって、ただひたすらに話し続ける。それは、物心ついたときから変わらないアイルの癖だった。
こうして、毎日毎日話しかけ続けていれば。
いつの日か、本の中の誰かが応えてくれるのではないかと信じて。
その様子が周囲にはさぞかし不気味に映ったのだろう、十四年間生きてきて、一度としてアイルに友達ができたことはなかった。どころか、陰口を叩いて攻撃してくる生徒もいる。
しかしそんなこと、アイルには至極どうでもいい些末事に過ぎないのだ。
友達ならいる。本の中に、物語の中に、たくさんいる。それが図書館ともなれば、もはやこの空間自体がアイルの親友も同然だ。たとえ触れなくとも、あのとびきり愉快で楽しい連中は、何よりアイルの胸の中に、確かにいるのである。
舟を漕ぎつつも、僅かに残った意識の片隅でそんなことを思考していると、不意に鳴り響いた鐘の音が、夢の世界に行きかけていたアイルの精神を現実に引っ張り戻した。
どうやら授業が終わり、休み時間になったらしい。
「今日の授業はあと二科目か……」
アイルはつまらなさそうに呟いた。
正直な話、アイルの魔法自体への興味はそれほどでもなかった。ではなぜ魔法学園になど入学したのかといえば、いつの日か、お伽話に登場するような魔物や楽園を求めて世界中を旅する冒険家になりたいという夢があったからだ。世界を渡り歩くためには、魔法という奇跡の技術はあらゆる場面で役に立つ――魔法はそのための手段に過ぎない。
しかしその夢に対し、アイルの父親であるハワードは、残酷なまでに否定的だった。ハワードは国内の犯罪の取り締まりから盗賊・反逆者の討伐など、クラウゼン王国の平和を守る《聖なる守護団》という団体に所属している。しかもそこの幹部ともなれば、実の息子が幼子のように現実味のない夢を掲げて、ただふらふらと世界を放浪するような真似は、彼の立場と見栄が許せないのだろう。
それが、十四歳の若き少年魔法使い・アイルの今一番の悩みの種であった。
次の授業に向かうため、アイルは本を鞄に入れて立ち上がると、軽く右手を振った。すると、今まで図書館を照らしていたロウソクの灯りが、たちまち突風に吹かれたかのように消えてしまう。この程度は、パール魔法学園に通う魔法使い候補なら、誰にだってできるレベルの初級魔法だった。
「……いっそのこと、父さんの反対なんて無視して、学園なんて逃げ出して――」
アイルは、お気に入りの本がどっさり詰まった鞄を撫でた。そのハードカバーの下に広がる夢の世界に想いを馳せながら、彼は一人呟く。
「――――会いに行きたいよ。お前たちにさ」
◆
クラウゼン王国パール魔法学園の、本日最後から二番目の授業は《総合魔法論》と呼ばれる科目だった。魔法について現在分かっているより多くの知識や理論を、少しでも多くの生徒たちに伝授することが目的だ。――が、アイルはこの授業があまり好きではなかった。というのも、最近の総合魔法論の教師は、毎回毎回を、執拗なまでに繰り返すからである。
「――現在、私たち魔法使いが行使できる魔法は、大きく二つの種類に分けることができます」
黒板を杖で叩きながら、教師が淡々と説明する。アイルを含む生徒の何人かは、集中力が途切れたせいか、ノートをとるペンの手が止まりがちだった。
「まず一つは《通常魔法》――然るべき教育を受けた者なら、誰にでも扱うことができる魔法ですね。今皆さんが学んでいるのはこれになります。そして、肝心なのはもう一つの方です」
――また、《あの魔法》の話か……。もううんざりだ。
はあ、とアイルは大きな溜息を吐いた。
「《魂幹魔法》」
たっぷりと間を溜めて、教師が言った。その目はなぜか、アイルの方を向いている。
「その名の通り、使用者の《魂》の《根幹》にかかわる魔法です。誰か、この魔法について説明してくれる人はいますか?」
そのまま教室はしばらく沈黙を保っていたが、そんな様子を見かねたのか、一人の女生徒が、天まで届けと言わんばかりに手を突き上げた。
「はい、ではよろしくお願いします……。ええと、」
「テレサ・ラドフォードです」
周りの生徒たちが、急に興味を持ったようにざわざわと騒ぎ始める。
品行方正、成績優秀にして明々朗々とした性格のテレサは、その整った容姿も手助けして、魔法学園のアイドル的な存在として有名だった。特に男子からの人気は絶大らしく、休み時間はしょっちゅう声をかけられている。
……もっともアイルにしてみれば、テレサが想像を絶する美人だろうと学園のアイドルだろうともしくは凡人だろうと、至極どうでもいいことだった。
――これでもし、あの子の正体が吸血鬼だっていうんならアタックするんだけどな……。
と、そんなことを考えていると、椅子から立ち上がったテレサは背筋を真っ直ぐに伸ばして説明を始めた。
「《魂幹魔法》とは、一定の年齢に達した魔法使いの個性や価値観に影響されて発現する、特別な魔法のことで――」
――《魔法》にはさまざまな種類や系統・そして扱いの難易度があり、普通、それは各魔法使いが地道な修練を経て体得していくものだ。『体内に流れる《魔力》の波動をコントロールしたり出力を変えたりすることで、様々な種類や規模の奇跡を起こす』――それが魔法使いの操る奇跡の一つ、《通常魔法》。
そしてもう一つが《魂幹魔法》――しかし、これについてはあるモノを媒介として発動させるため、比較的未熟な魔法使いでもそれなりに高レベルな魔法を行使することができる。
では、その《あるモノ》とは一体何なのか? それは――
「――魔法使いの《魂》です」
テレサは得意げに説明を続ける。
「何年もかけて形成された、各魔法使いの個性や価値観――それらの『《魂の情報》を元にして奇跡を起こす』、それが魂幹魔法です。術者の個性や価値観、アイデンティティが直接魔法として具象化するため、高度な魔力操作が必要ないというのが大きなメリットとなります」
説明を終えると、テレサは再び手を高く挙げるや否や、小声で何かを呟いた。
すると――教室中に灯されたロウソクの光が、一つ、また一つと彼女の手の中に吸い込まれていく。さらには窓の外で光り続ける太陽からも幾ばくかの光を吸収すると、テレサはぶつぶつと小声で何やら呟きながら、たっぷりと光を吸い込んで目も眩むほどに輝く右手を大きく振って、大きな声で唱えた。
「魂幹魔法、光の舞踏会!」
これには流石のアイルも括目せずにはいられなかった。
テレサの手から吸い込んだ光が迸り、虹色に光り輝いて、ロウソクが消えて薄暗くなった教室を照らし出す――いや、それだけではない。虹色の光は、犬や猫、鳥などの動物に変形し、傍にいる生徒たちの周りを踊るように駆け回っていた。
本来なら高度な技術を必要とする光の固形化。その維持と、魔の光を思うがままに操る力――優秀とはいえ、まだ魔法学園の生徒という身分でしかないテレサが通常魔法でこれと同じことをやろうと思うなら、それは膨大な訓練が必要になるだろう。しかしこれは魂幹魔法――テレサは自分の魂を媒介にして魔法を発動させたため、それほど高度な魔力操作は必要ない。
魂幹魔法《光の舞踏会》――それは、テレサ・ラドフォードという少女の在り方そのものを表した、彼女だけの魔法であった。常に人目を惹きつけ、そして見る者すべてを持ち前の輝きで魅了する。それでいて嫌味なところはまったくない。魔法という形で発現した、それは彼女自身も同然だ。
美しかった。
幻想的だった。
テレサの魂幹魔法を実際に目にした生徒たちは、皆一時的に、あらゆる悩みや葛藤から解き放たれたかのような表情をしている。
しかし――アイルだけは例外だった。その華麗な魔法を目の前に、彼だけはより陰鬱とした様子でじっと俯いている。
「――終演!」
テレサが唱えると、今まで駆け回っていた光の動物たちは、ロウソクの灯火へ、そして太陽の光へと、再び元の姿に戻っていった。
「素晴らしい! テレサさんに拍手!」
教師が言い終わる前に、教室中が割れんばかりの拍手の音に包まれる。
「すげえ!」
「流石テレサだね」
「それに比べて《アイツ》は……」
――逃げ出したい。こんな授業、受けていたくない。
口々にテレサを賛美する声を聞きながら、アイルはそんな思いに囚われた。
「お見事でした、テレサさん。ああ、それと先程のテレサさんの説明ですが、一つだけ付け足しがあります――」
そこで一旦言葉を区切ると、また教師はアイルの方を見つめてきた。
「《魂幹魔法》は、『十三歳まで』の魔法使いには『必ず』発現すると言われています」
「……………………」
教室中が静まり返り、そして皆の視線はアイル・エアハートただ一人に集中する。
そう。実は、パール魔法学園に在籍するほぼすべての生徒たちは、この魂幹魔法を発現しているのだった。
テレサのように、光や火、水、風、雷など、《エレメント》と呼ばれる五つの元素を高度に操ることができる者。しばらく魔力を集中させるだけで、怪我や風邪をたちどころに回復させてしまう者。さらにはどんな魔法でも防御する盾を作り出す者。
系統や性質に違いはあれど、皆が自分の魂幹魔法を発現させているのだった。
アイル・エアハート以外の生徒たちは。
五年制のパール魔法学園に入学して四年目のアイルは、現在十四歳だ。もうとっくの昔に魂幹魔法が発現してもいい年頃のはずなのに、なぜか同年代の連中たちの中でアイルだけが、新たなる能力・魂幹魔法に目覚めないままだったのだ。
「立ちなさい、エアハート」
「…………はい」
渋々椅子から立ち上がる。
教師の目がいっそう厳しく細められた。
「エアハート、なぜあなただけ未だに魂幹魔法が発現しないのか、分かりますか?」
「…………分かりません」
まただ。授業で魂幹魔法の件になる度、この学園の多くの教師は、アイルに尋問でもするかの如く問い詰めるのだ。教室にいる皆の前で立たせ、まるで見せしめにでもするように。
屈辱と羞恥心がない混ぜになったやり切れない気持ちを堪え、アイルは潤み出す目を伏せた。
「考えたこともないと?」
「………………」
――なんだよ、いつもいつも同じ事ばかり……。
アイルとて、なぜ自分だけ魂幹魔法が発現しないのかについて、まったく考えたことがないわけではなかった。
そして、その理由にも大体見当がついている。
それはつまり――
「――魂幹魔法は、自らの個性や価値観に影響を与えた事柄や出来事に関係したものが発現される……。ところがあなたはどうです? いもしない空想上の生物や、所詮は作りものに過ぎないお伽話に夢中になってばかりで、他のことには一切興味を示そうとしない。それだからこういった事態になるのです!」
――と、いうことだ。
確かにそれ以外に考えようがなかった。アイルは、物語の世界に尋常でない愛と情熱を注いでいるが――その他のことに関してはまるで興味を持たず、魔法すらも同年代の平均値よりもやや上をキープできる程度にしか鍛錬してこなかった。
未だに魂幹魔法が発現しないのも理解できる話だ。
「あなたのお父上は、こうしている間も、聖なる守護団で国防のため働いているというのに――エアハート、あなたがそんなことでどうするのです! 子供騙しのくだらない本を読んでいる暇があったら、もっと自分を磨きなさい!」
――『子供騙しのくだらない本』。
これだけは――聞き逃すわけにはいかなかった。
「こっ……子供騙しなんかじゃありません! 大して読みもしていないくせに……馬鹿にするのはやめてくださいっ」
「はあ……。あなた、もう十四歳でしょう? その年になってもまだそんなことを言っているから、いつまで経っても魂幹魔法が発現しないのです。それはつまり、十四年も生きて来たにもかかわらず、あなたの魂にはなんの特色もないということと同じなのですよ?」
「なっ……僕は……!」
「――まあ、仮に発現したとしても……どうせ『本の中の妖精さんとお喋りできる』みたいな、なんの役にも立たない魔法でしょうけどね」
その教師の言い草がおかしかったのか、生徒たちがどっと笑い出した。馬鹿にしたようにアイルを指さしたり、大袈裟に腹を抱えたり、拳で机を叩いたり……。酷いことに、教師やテレサ・ラドフォードまでもが声を上げて笑っている。
「くそ……くそっ……! なんなんだよ……!」
アイルの血管は破裂寸前だった。しかし、今までほとんど友達のいなかったアイルは喧嘩というものをしたことがなく、故に癇癪の起こし方すら分からない。溜まりに溜まった怒りをどこにぶつければいいのかすら分からず、アイルは溢れる涙を必死で堪えながら教師を睨みつけることで、せめてもの抵抗の意志を示した。
「《物語》なんて、普通七歳くらいには卒業するもんだろ」
「おい見ろよ、エアハートのヤツ泣いてるぜ」
「情けないわね、男のくせに」
「親父は守護団のお偉いさんのくせになー」
「進級できたのもそのおかげなんじゃないの?」
「ああ、言えてる!」
生徒たちが口々に囃し立てる。その中のいくつかは、アイルのコンプレックスをものの見事に突いていた。
今にも零れ落ちそうな涙は、しかし未だアイルの目元で留まっている。
悔しかった。自分の大好きな《お伽話》を、《物語》を、ここまで辱められて、もの凄く悔しかった。けれど反論するため口を開こうとすれば、溢れる涙を堪えることは、恐らくできないだろう。もし涙を流してしまったら、それは、今まで自分の信じてきたものを疑うことになる――だから、泣くわけにはいかない。
ただ黙って耐えるしかなかった。
アイルだって強くなりたいのだ。『イヴァン・ベーメルと魔界の冒険』に登場する、あの《伝説のドラゴン》を操れるくらいに――……。
そう、こんなところで泣いてなどいられない。自分が惜しみない愛を注いでいるものが、周囲から理解されないなんて、昔からのことだったじゃないか。今日はそれを再確認させられただけの話だ。泣くほどのことではない。イヴァンはこんなことで泣くほど情けなくはない。
だから――
『……ああそうだ。この程度の事でみっともなく涙するなど、余が許さんぞ』
「――――!?」
〝なに……今の声!?〟
どこからともなく響いた声に、アイルは酷く動揺する。
それは地獄の底から響いてくるかのような、低く、恐ろしい声音だった。ギュッと、思い切り心臓を鷲掴みにされる感覚。安穏としていた日常に埋もれていたいくつかの感情の中から、強引に引きずり出された恐怖心と――そしてそれとは逆に、『これから何かが始まる』ことを予期させる、上限のない高揚感が、同時にアイルの心を支配する。
いや――恐怖心を引きずり出されたのは、アイルだけではなかった。
「だっ……誰です今の声は!? 誰の魔法ですか!? 答えなさい!」
教室は騒然となった。
恐怖のあまり硬直する者。
興味なさそうな素振りを貫く者。
友達と抱き合ってキャーキャー騒ぐ者。
反応は人それぞれといえど、生徒たちには皆、一様になんらかの『余裕』を持っていた。どうせ誰かの悪戯だろう、そうじゃなくても大した脅威ではない、所詮声は声なのだし――そういった、余裕。
しかし、教師だけは別だった。
こんな恐ろしげなものを聞いたのは初めてだったのか、教師は声の音源を突き止めようと必死に辺りを見回している。その表情には、アイルのような期待も他の生徒たちのような余裕も浮かんでいない――ただひたすらの『恐怖』、それだけだ。
「きょ……今日はこれで終わりです! 次の授業もなし――生徒たちは全員家に帰りなさい!」
言うが早いが、小声でぶつぶつと、何やら呪文らしきものを呟いた教師はマントを翻し、あっという間にその場から消えてしまった。
教室に残された生徒たちは、皆一斉に、あの声についての自分なりの見解を述べていた。
教師の仕掛けたドッキリだとか、教室の外から誰かが魔法で声を変えて悪戯したんだとか、あるいは――あるいは少し前に国を追放された、元クラウゼン王国最強の魔法使い《ソーラ・シュヴァルツ》が復讐に来たのだとか……。
――――そんなんじゃない!
アイルの目はいつになく輝いていた。それは、彼が物語を読むときの目であり、物語の世界に想いを馳せるときの目、そのものであった。
きっとこれから、何かが起こる。今まで自分を馬鹿にしていた者たちの常識を覆し、道理を塗り替え、そして固定観念をぶち壊す――そんな、想像するだけでワクワクするような事が起こるのだ。
アイルは期待と希望に胸を膨らませると、誰よりも早く教室を飛び出した。
彼の《夢》がいっぱいに詰め込まれた鞄を、しっかりと抱えて。
◆
「――――ローゲル。ソーラ・シュヴァルツはまだ見つからないのか?」
パール魔法学園から五十キロほど離れた、クラウゼン王国の首都――その中心に建てられた巨大な宮殿の一室で、一人の若い男の魔法使いが苛立った声で尋ねた。
滑らかな金髪に整った顔。いかにも女性受けしそうな容貌をした声の主は、名を《ラルフ・ザックス》という。彼は、豪奢な装飾を施された純白のマントに身を包んでおり、その立ち居振る舞いは、完全に集団でトップクラスのカーストに位置する者特有のそれだった。
一方、ザックスの険しい顔に刻まれた威圧感に気後れしたのか、深紅のローブを纏った男――サルマ・ローゲルは、金髪の魔法使いと目を合わせようとすらしない。
「も、申し訳ございません……。未だ発見には至っておらず……それに発見できたとしても、今の我々であの女を捕えられるかどうか……」
「弱気なことをぬかすな。俺たち《聖会》は、毎年毎年膨大な額の金を《聖なる守護団》につぎ込んでいるのだぞ。それなのに、まさかなんの進展もないなんて不誠実な話は――あり得ないだろう?」
「…………ッ!」
背中に氷の塊が滑り込んだかのような悪寒に、ローゲルは身を震わせた。
クラウゼン王国の一切の政治を支配し、取り仕切る国家中枢機関《聖会》――そこの重役でもあるザックスは、その気になればローゲルを生命的にも社会的にも抹殺することができるだけの、途方もない権力を所持しているのだ。また決して権力だけではなく、彼の魔法使いとしての能力も一流だ。一応守護団とはいえ、パールの町などという片田舎に派遣されている身分にすぎないローゲルが逆らえるような相手ではない。
特にそれが、守護団内での自分の地位を上げてもらうため、常日頃から必死で彼にゴマをすり、最近ようやく目にかけてきてもらえるようになったローゲルなら、なおさらだった。
「あれから四年も経過したのだ……せめて情報くらいは掴んでいるのだろうな?」
「はっ……ここから五十キロほど南の、パールの町付近の森に不審な人影ありとの情報が、近隣の住民より寄せられています」
「よし、今度こそ捕まえろ。守護団から何人か連れて行っても構わん。必要とあらば《人形》の使用も許可する」
ザックスの言葉に、ローゲルは僅かに顔を輝かせた。
一度は失敗したが、今度こそヤツを捕まえることができる。《人形》の使用まで許されたのだ――以前のような無様な真似はしない。そしてその功績で、守護団のトップに昇り詰めるのだ。そうすれば、バラ色の未来は約束されたも同然だ。
「お任せください、今度こそ、今度こそ奴を捕えてご覧にいれましょう。それから、一つお耳に入れておきたいことが」
「……言ってみろ」
上機嫌のあまりうかれた様子を隠しきれないローゲルとは対照的に、ザックスは徹底して厳然とした態度を崩さない。ただそれだけで、両者の魔法使いや人としての格の違いは明らかというものだ。
「はい、実は……」
ローゲルは、普段自分が勤務している町にある魔法使い養成施設――パール魔法学園の教師からの報告を、そのままザックスに伝えた。
なんでも、学園のある教師が授業中に一人の少年を叱っている際、どこからともなく謎の声が聞こえてきたらしい。その声が魔法的な働きかけによるものだということ以外は不明な点が多い。はっきりしているのは、それは侵入者の仕業でも生徒の悪戯でもなく、学園中の教師が見たことも聞いたこともないような種類のものということくらいだそうだ。
一見、魔法自体は大したことなさそうに見えるが、これは恐らく――
「――――恐らく、魂幹魔法によるものだろう」
ローゲルの報告を聞き終えたザックスが、静かに言った。
魔法学園の教師陣すらも解析不可能な魔法というのなら、それは魂幹魔法以外にあり得ない。
魂幹魔法は、『自らの個性や価値観に影響を与えたもの』をベースにして発現されるため、必然的に魔法使いが最も得意とする分野の通常魔法がさらに強化されたり、なんらかの特性が付加されて発現することが多い。だからこそ、多くの魔法使いたちは、自分はどんな魔法が得意なのか、どんな分野に興味があるのかを見極め、その探究に熱を入れるのだ。
しかし、だ。
もし、もし仮に、『魔法そっちのけでまったく関係のないことに情熱を注ぐ愚か者』がいたとするのなら――その者には、今この世に存在する魔法の常識を根底からひっくり返す、誰もが想像すらつかないような、そんなとんでもない魔法が発現する可能性がある。
そう――かつてクラウゼン王国最強と称され、《魔人》と謳われた女魔法使い、ソーラ・シュヴァルツのように。
「……ローゲル」
「はっ」
「話の状況から察するに――その声の秘密は、教師に叱咤されていたという少年にあるだろう。もしかすれば、相当に希少な魂幹魔法を発現させ得るかもしれん」
「アイル・エアハートのことですか? しかし、彼は同期の学園の生徒の中で、未だに魂幹魔法が発現していない落ちこぼれなのだそうですが……。流石にこの件とは無関係では……」
そんなローゲルの反論も、殺気が込められたザックスの目にギロリと一睨みされただけで、勢いを失ってしまった。
「聖なる守護団・パール支部隊長、サルマ・ローゲル。これより貴様に命令をくだす。現地の守護団数人と《人形》を連れパールの町へ行き、アイル・エアハートを捕えよ。そしてアイル・エアハートの身柄拘束後は、すぐさまソーラ・シュヴァルツの捕獲へと移れ。以上だ」
「え、捕獲するのはシュヴァルツだけでは――……、……ひぃいいいいいっ!」
不満を零しかけたローゲルは、ザックスの後ろにある《もの》が、ゴトリと音を立てて動くや否や、たちまち深紅のローブを翻し、その場から消えてしまった。
ローゲルが去り、部屋に一人残されたザックスは、ようやくその険しい顔を僅かに弛緩させて邪悪な笑みを浮かべた。
そしてゆっくりと、背後を振り返る。
そこには、ローゲルを恐怖させたある《もの》が、気配も生気もなく、ただそこに存在していた。
「ソーラ・シュヴァルツだけでなく、まさかもう一体、俺の最強の軍隊に加えるに相応しい魔法使いが現れるとは
な。アイル・エアハート……面白いガキだ」
それは、あのローゲルを恐怖させた、ザックスの魂幹魔法の正体――……、
「なあ、そう思うだろう? 愛すべき我が《人形》たちよ」
ラルフ・ザックスによって魂を侵され、自我も自由も何もかもを奪い去られた、総勢百人を超える魔法使いたちが、完全にただの傀儡と成り果て、壁際にずらりと並んでいた。
ここまで書いてもまだまともな女性キャラが出て来ないって……。