第8話 売らない、という判断
朝、畑に立つと、空気が張りつめているのがわかった。
理由ははっきりしている。
人の気配だ。
レオンは畝を確認しながら、耳を澄ませた。森の奥、風とは違う揺れ。足音が複数。隠す気はないが、踏み込む気配もない。
「……来たな」
バルドも気づいていたらしく、薪割りを中断して視線を上げる。
「昨日の爺さんか?」
「たぶん、同類だ」
やがて、森の縁から三人の男が姿を現した。
服装はまちまちだが、全員が農具を持っている。武装ではない。だが、警戒心は隠していない。
先頭の男が一歩前に出た。
「噂を聞いた」
単刀直入だった。
「ここで、食い物が余っているとな」
ミラが一瞬、口を開きかける。
だが、レオンが先に答えた。
「余ってはいない」
声は穏やかだった。
「試しているだけだ」
「干しているのは?」
「保存だ」
男たちは互いに顔を見合わせる。
疑っているが、完全には否定できない――そんな表情だった。
「売る気はあるのか」
別の男が聞いた。
レオンは、首を振った。
「今はない」
空気が、わずかにざわついた。
「……なら、何のために」
「自分たちが生きるためだ」
それ以上でも、それ以下でもない。
男たちは拍子抜けしたような顔をした。
「金にならんことを?」
「金は、後からでもいい」
その言葉に、最初の男が眉をひそめる。
「妙な奴だな」
「そうかもしれない」
レオンは認めた。
沈黙が落ちる。
風が棚の葉を揺らし、乾いた音を立てる。
「……分けてはくれんのか」
小さな声だった。
別の男が、視線を逸らしながら言った。
レオンは、そこで初めて少し考えた。
売らない。
だが、拒む必要もない。
「等価なら」
彼は言った。
「物々交換だ」
男たちが顔を上げる。
「金はいらない」
「だが、情報と労力は欲しい」
条件を、淡々と並べる。
近隣の畑の状況。
害獣の出没。
壊れた道の場所。
必要なら、作業の手伝い。
ミラが、すぐに理解した。
これは取引ではない。
**関係づくり**だ。
「……いいだろう」
先頭の男が言った。
「少しだけだ」
レオンは頷き、干し葉を少量渡した。
本当に、少しだけ。
男たちはそれを受け取り、深くは詮索せず、森へ戻っていった。
去った後、バルドが低く言う。
「甘くねえか」
「線は越えていない」
レオンは答える。
「売っていない。依存もさせていない」
ミラが帳面を開く。
「……“供給者”にはなっていませんね」
「まだ、なるべきじゃない」
その日の午後、レオンは作業の手を緩めなかった。
保存の改良。
棚の増設。
畑の区画整理。
“売らない”と決めた以上、内側を強くするしかない。
夕方、ミラがぽつりと言った。
「不思議ですね」
「何がだ」
「本来なら、売れることは喜ばしいはずなのに」
「早すぎる成功は、歪みを作る」
レオンは手を止めずに言う。
「整う前に人が増えると、必ず壊れる」
それは経験則だった。
この世界でのものではない。
だが、確信をもって言えることだった。
夜、帳面に新しい一文が加わる。
――売却、拒否。
――物々交換、開始。
――周辺村、三。
数字と事実だけが、淡々と並ぶ。
火を落とす前、レオンは畑を見渡した。
芽は安定して育っている。
棚の葉も、問題ない。
**売らない、という判断**は、臆病ではない。
それは、未来を選ぶ行為だ。
「……まだ、ここじゃない」
そう呟き、彼は小屋に戻った。
森の向こうでは、今日受け取った干し葉が、誰かの鍋で試されているだろう。
噂は、ゆっくり広がる。
だが、主導権は、まだこちらにある。
レオンは、その確信とともに眠りについた。




