第5話 ここなら、やっていける
朝、焚き火の跡がまだ温かいうちに、レオンは目を覚ました。
小屋の中に、もう一つ呼吸の音がある。それだけで、昨日までとは空気が違っていた。バルドは壁際に腰を下ろし、革袋の水を飲んでいる。夜の見張りを、自分から買って出たらしい。
「起こさなくてよかったのか」
レオンが言うと、バルドは肩をすくめた。
「慣れてる。あんたは畑だろ」
的確な理解だった。
レオンは短く頷き、外に出る。
朝の光を浴びた畑は、昨日よりもはっきりと「畑」になっていた。畝の形が整い、芽の列が目に見える。人の手が入った場所特有の、秩序のある景色だ。
彼は水路を確認し、詰まりがないかを確かめる。問題なし。苗の葉に付いた露を軽く払う。傷んでいるものはない。
「……よし」
その一言で、今日やるべき作業が自然と定まった。
午前中は、畑をもう一枚増やした。
完全に新規ではなく、既存の畝の延長。水路からの距離も把握できている。昨日までより、判断が早い。経験が、すでに積み重なっている証拠だった。
バルドは周囲の警戒をしながら、倒木の処理を進めていた。片腕でも効率が落ちないよう、道具の位置や体の向きを工夫している。その動きは、戦場で生き残ってきた人間のものだ。
昼近く、再び足音がした。
今度は、はっきりとしたものだった。
躊躇いがあり、慎重で、それでも隠れるつもりはない足取り。
レオンが顔を上げると、畑の向こうに女性の姿が見えた。
質素な外套。だが、仕立ては良い。背筋が伸び、歩き方に癖がない。手には帳面を抱えている。
「……失礼」
彼女は距離を保ったまま、頭を下げた。
「ここは……グレン旧村、で合っていますか」
「そう呼ばれていた場所だ」
レオンは鍬を地面に立てかける。
「用件は?」
女性は一瞬だけ周囲を見回し、畑と水路、小屋に視線を走らせた。
そして、はっきりと言った。
「私はミラ・フェルディ。行き場を探しています」
名前を聞いて、レオンはわずかに眉を動かした。
フェルディ家。没落した地方貴族だ。噂は耳にしたことがある。
「条件は?」
彼は、遠回しなことを言わなかった。
ミラは一瞬、驚いたように目を瞬かせたが、すぐに姿勢を正した。
「働きます。記録、会計、教育。雑務も厭いません」
「見返りは」
「寝る場所と、食事を」
その言葉に、バルドが小さく息を吐いた。
レオンは、少し考える。
人が増えれば、負担も増える。
だが、この女性は「余剰」ではない。役割を持っている。
「帳面を見せてくれ」
レオンが言うと、ミラはすぐに差し出した。
中には、綺麗な字で書かれた記録が並んでいた。日付、数量、簡潔な注釈。読みやすく、無駄がない。
彼は数ページ目で、ふっと息を吐いた。
「……助かる」
それは本音だった。
ミラは、ほんの少しだけ表情を緩めた。
それが、彼女の緊張が解けた瞬間だった。
午後、三人で簡単な打ち合わせをした。
役割を決める。無理はしない。まずは生活を回す。
ミラは小屋の中を見て、すぐに動線を整え始めた。道具の置き場所、食料の管理方法、帳面の置き場。レオンが言わずとも、必要なことを拾い上げていく。
「……人が増える前提で、記録を取ります」
彼女は言った。
「増えなくても、困りませんし」
「その考え方は、嫌いじゃない」
レオンは頷いた。
夕方、三人で食事を囲んだ。
豆の煮込みは、昨日より少しだけ味が違う。ミラが干し草の中から見つけた香草を、少量加えたのだ。
「……うまい」
バルドが率直に言った。
「豆だが」
ミラは、控えめに微笑んだ。
「贅沢は、続かないものですから」
火を囲む三つの影が、地面に揺れる。
レオンは、その光景を静かに眺めていた。
昨日までは、一人だった。
今日は、三人いる。
夜、帳面を開く。
ミラが整理したページの横に、レオンは一行を書き足した。
――畑、二枚目着手。
――定住者、二名。
――生活、回り始める。
書き終え、ペンを置く。
不思議と、不安はなかった。
問題は山ほどある。冬も来る。資材も足りない。守るものも増えた。
それでも。
レオンは畑の方を見た。
芽は、確実に数を増やしている。
「……ここなら、やっていけるな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
風が吹き、畑を撫でる。
それは、始まりの合図のようだった。




