第3話 芽が出た、それだけで
朝の空気は、昨日よりもわずかに柔らかかった。
レオンは小屋の外に出ると、無意識のうちに畑の方へ足を向けていた。夜露を含んだ土は黒く、表面がわずかに沈んでいる。まだ、何も変わっていない――はずだった。
だが。
彼は一歩、足を止めた。
「……ん?」
畝の端。昨日まではただの土だった場所に、ほんのわずかな緑が見えた気がした。錯覚かと思い、しゃがみ込む。顔を近づけ、指でそっと土を払う。
間違いない。
小さな芽だ。
細く、頼りなく、それでも確かに地上へ顔を出している。
レオンはしばらく、その場で動かなかった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。大げさな感動ではない。歓声を上げるほどでもない。ただ――深く息が吸えた。
「……出たな」
それだけ言って、彼はゆっくり立ち上がった。
他の区画も確認する。芽はまだまばらだが、いくつかは確実に動き始めている。土の状態も悪くない。水路もうまく機能している。
成功だ。
小さく、静かな成功。
その日は、作業の手が少しだけ軽かった。
小屋の補強を進め、隙間に草と土を詰める。簡単な棚を作り、干し肉と豆を吊るす。保存用の場所があるだけで、気持ちに余裕が生まれる。
昼前、川で水を汲んでいると、背後で小枝の折れる音がした。
レオンは振り返らない。
ただ、ゆっくりと言った。
「……そこにいるなら、出てきてくれ」
数拍の沈黙。
やがて、低い声が返ってきた。
「……敵意はねえ」
森の縁から、男が姿を現した。
背は高く、体格はがっしりしている。左腕が不自然に短く、肩口で止まっていた。古い革鎧を身につけ、腰には使い込まれた短剣。
傭兵だ。
それも、前線を退いた者。
「ここに人が来るとは思わなかった」
男は周囲を見回し、特に畑に視線を向けた。
「……あんたが、開拓者か」
「そうだ」
レオンは水桶を下ろし、男の方を見た。
「用件は?」
男は少し考える素振りを見せ、やがて肩をすくめた。
「様子見だ。……この土地は、もう死んだと思ってた」
「土は生きている」
レオンは淡々と返す。
「手を入れれば、応える」
男は鼻で笑いかけて、言葉を飲み込んだ。
代わりに、ゆっくりと畑へ歩み寄る。
「……芽が出てるな」
「出たばかりだ」
「それでも、すげえ」
その声には、素直な驚きがあった。
男は名を名乗った。バルド。元傭兵。負傷して、仕事を失った。今は流れ者だ。
「この辺りで、落ち着ける場所を探してた」
バルドはレオンを見る。
「……あんた、ここに住むつもりか?」
「住めるようにする」
即答だった。
「まだ、何もないが」
バルドはしばらく沈黙し、やがて畑、小屋、水路を順に見た。
「……いや。もう、いろいろある」
それは評価だった。
その日の午後、二人は簡単な話をした。
レオンは多くを語らない。バルドも深入りしない。ただ、必要な情報だけを交換する。近隣の村の位置。魔物の頻度。街道の状況。
「護衛はいらねえか?」
バルドが、半ば冗談めかして言う。
レオンは少し考え、首を振った。
「今は、畑を優先したい」
「変わった奴だ」
だが、バルドは笑った。
夕方、バルドは森へ戻ると言った。
去り際、振り返って一言。
「……また来る。いい匂いがしたらな」
「豆しかないぞ」
「それでいい」
男の背が、森に溶けていく。
レオンは一人、畑の前に立った。
芽は朝より、ほんの少しだけ伸びている気がした。
夜、帳面に新しい項目を書き足す。
――人影、確認。
――敵意なし。
――定住の可能性。
書き終え、ペンを置く。
静かな土地に、初めて「他者」が足を踏み入れた日だった。
怖くはない。
むしろ、現実味が増した。
ここは、誰もいない場所ではなくなる。
そういう予感があった。
レオンは小屋の中で、火を落とす。
外では、風が畑を撫で、芽を揺らしていた。
芽が出た。
それだけで、今日は十分だ。
明日は、もう少し畑を広げよう。
そう考えながら、彼は静かに目を閉じた。
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