第21話 値段をつけるという暴力
朝、境界の外に立つ人影は、一人だけだった。
数でも、声でもない。
だが、これまでとは明らかに違う空気をまとっている。
イオルは、その男を見て、無意識に背筋を伸ばした。
荷は持っていない。護衛もいない。だが、逃げ道を常に意識した立ち位置――慣れている。
「用件は」
イオルが声をかける。
男は、落ち着いた視線で杭と紐を一瞥し、頷いた。
「代表に会いたい」
「名は」
「カイル・ヴェルナー」
その名に、イオルは一瞬だけ眉を動かした。
南街道商人ギルド。
噂は、すでに耳にしている。
数分後、焚き火のそばで向かい合う。
カイルは四十代半ばに見えた。
派手さはない。だが、身につけている物はどれも質がいい。無駄がない。視線は柔らかく、しかし曖昧ではなかった。
「噂は、本当だった」
カイルは、村を一望して言った。
「無理がない。だが、止まらない」
ミラが、すっと視線を走らせる。
評価だ。観察を終えた者の。
「本題は」
レオンが促す。
「保存食」
カイルは即答した。
「干し葉と粉だ。流通に乗せたい」
言い方は丁寧だが、選択肢を与える口調ではない。
「相場は、すでに出ている」
カイルは続ける。
「南街道で、一袋――銀三枚」
空気が、わずかに変わった。
エルナが、思わず息を呑む。
バルドは、表情を変えない。
ミラが静かに言った。
「こちらは、価格を決めていません」
「だから、決めた」
カイルは、あっさり言う。
「市場が」
その言葉に、レオンは初めて目を細めた。
「値段をつけるという行為は」
レオンは静かに言う。
「奪う行為でもある」
カイルは、驚いた様子を見せなかった。
「価値を可視化する行為だ」
「違う」
レオンは首を振る。
「**選択肢を奪う行為だ**」
沈黙。
焚き火の音だけが響く。
「銀三枚になれば」
レオンは続ける。
「それ以下で売る者は、愚か者になる」
「それ以上で売る者は、敵になる」
ミラが、理解したように頷く。
バルドが、低く息を吐いた。
「価格は、争いを生む」
レオンは言う。
「ここは、それを避けてきた」
カイルは、ゆっくりと息を吐いた。
「理屈はわかる」
「だが、理屈だけでは回らない」
「回している」
レオンは即答した。
「今のところは」
カイルの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「だから、来た」
彼は、はっきりと言った。
「このままでは、周囲が歪む」
「価格を決めない場所は、投機の的になる」
「奪われるか、囲われるか、どちらかだ」
それは、脅しではない。
**警告**だった。
「だから」
カイルは続ける。
「ギルドが引き受ける」
「価格も、量も、流通も」
ミラが、静かに言う。
「独占ですね」
「安定だ」
カイルは訂正した。
「善意より、よほど続く」
レオンは、すぐには答えなかった。
畑を見る。棚を見る。境界を見る。
「……一つ、確認する」
やがて言った。
「その価格で、誰が楽になる」
カイルは、少し考えてから答える。
「消費者だ」
「違う」
レオンは言った。
「**流通が楽になるだけだ**」
空気が、張りつめる。
「ここは、楽になるための場所じゃない」
レオンは続けた。
「続くための場所だ」
沈黙。
カイルは、初めて視線を逸らした。
「……厄介だな」
本音だった。
「取引は、拒否する」
レオンは言う。
「価格を前提にする限り」
「では」
カイルは顔を上げる。
「どうする」
「量だけを決める」
レオンは即答した。
「必要な分だけ、必要な相手に」
「価格は、決めない」
カイルは、ゆっくりと立ち上がった。
「市場は、それを嫌う」
「なら」
レオンは言った。
「市場に、合わせない」
数秒の沈黙。
やがて、カイルは小さく笑った。
「……理解した」
彼は言う。
「敵ではないが、味方にもなれない」
「それでいい」
レオンは答えた。
去り際、カイルは一言だけ残した。
「覚えておけ。値段は、いつか勝手につく」
「覚えておく」
レオンは頷いた。
「だが、決めさせはしない」
人影が消えたあと、ミラが静かに言った。
「……始まりましたね」
「ああ」
レオンは答える。
「経済の顔をした圧力だ」
バルドが、低く笑う。
「戦わねえ敵ほど、面倒だ」
レオンは、焚き火を見つめながら思う。
値段をつけるという行為は、便利だ。
だが、それは同時に、選択を奪う。
この場所は、まだ選び続ける。
それがどれほど厄介でも。
村は、静かに次の段階へ踏み込んでいた。
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