第12話 役割が、人を変える
朝霧が、境界の杭を薄く包んでいた。
イオルは、その前に立っている。
まだ誰にも声をかけられていない。だが、何も起きない時間こそが、彼にとって一番落ち着かなかった。
――越える側だった。
昨日までの自分を思い出すと、胃の奥が少し痛む。
あの時は、正しいかどうかよりも「今どうするか」しか見えていなかった。家に戻れば、鍋は空で、家族の顔は沈んでいた。ただそれだけだ。
杭に結ばれた紐を見下ろし、イオルは息を吐いた。
「……守る側、か」
言葉にすると、まだ実感が伴わない。
その時、足音が聞こえた。
霧の向こうから、二人組の男が現れる。見覚えがある。以前、干し葉を分けてもらった村の者だ。
男たちは杭の前で立ち止まり、畑の方を窺った。
そして、遠慮がちに一歩、踏み出そうとする。
「……待て」
イオルの声は、思ったより低く出た。
二人が、驚いたように振り返る。
「なんだ?」
「中に入るなら、先に話を通してくれ」
男の一人が、眉をひそめる。
「誰だ、お前は」
「見回りだ」
その言葉を口にした瞬間、胸が少しだけ重くなる。
だが、逃げなかった。
「勝手に入られると、困る」
イオルは続ける。
「取引なら、代表がいる」
男たちは顔を見合わせる。
不満そうだが、強くは出てこない。
「……面倒な場所になったな」
「続いてる場所だ」
イオルは、はっきり言った。
「だから、面倒なんだ」
沈黙のあと、男たちは引き返した。
その背中を見送りながら、イオルは気づく。
――怒りも、恐怖も、なかった。
ただ、役目を果たしただけだ。
胸の奥に、奇妙な感覚が残る。
これは罰ではない。
**責任だ。**
昼前、ミラが帳面を抱えてやってきた。
「問題はありませんでしたか」
「……来たが、引き返した」
ミラは一行、記録をつける。
「声を荒げませんでした?」
「しそうになった」
「それで」
「……我慢した」
ミラは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「十分です」
昼過ぎ、レオンが畑から戻ってきた。
「どうだった」
「止めた」
イオルは短く答える。
「理由は」
「ルールだ」
レオンはそれ以上、何も言わなかった。
だが、その沈黙が、評価であることはわかった。
午後、別の出来事が起きた。
今度は、子どもだった。
境界の外で、杭に触れ、紐を揺らしている。悪意はない。ただの好奇心だ。
イオルは、少し迷ってから声をかけた。
「ここから先は、勝手に入っちゃいけない」
子どもは、きょとんとした顔をする。
「なんで?」
「……畑が壊れる」
それだけ言うと、子どもは素直に頷き、戻っていった。
イオルは、その後ろ姿を見ながら思う。
もし昨日の自分だったら、どうしただろう。
無視したか、怒鳴ったか。
少なくとも、理由を考える余裕はなかった。
夕方、火を囲んでの簡単な食事。
イオルも、輪の端に座っている。
「今日はどうだった」
レオンが、あくまで何気なく聞く。
「……疲れた」
正直な答えだった。
「だが、変な感じだ。悪くない」
バルドが、鼻で笑う。
「向いてるんじゃねえか」
「そういう問題か」
「そういう問題だ」
ミラが、帳面を閉じる。
「役割を持つと、人は変わります」
「変えられたくない人間もいる」
レオンが言う。
「だが」
ミラは続ける。
「変わらないまま、続くことはありません」
イオルは、焚き火を見つめながら、その言葉を噛みしめた。
夜、境界の杭をもう一度見回る。
霧は晴れ、月明かりが畑を照らしている。
越える線。
守る線。
同じ場所でも、立つ側が変われば、意味は変わる。
「……続く、か」
イオルは小さく呟き、持ち場に戻った。
この場所が、ただの施し場ではないことを、誰よりも彼自身が理解し始めていた。
役割は、人を縛る。
だが同時に、人を立たせる。
その両方を知った一日だった。
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