第11話 境界を越える、という行為
最初に気づいたのは、ミラだった。
「……量が、合いません」
朝の確認作業。棚に吊るした干し葉と、布袋に入れた粉。帳面の数字と、現物。その差は、ごくわずかだ。だが、ミラは見逃さなかった。
レオンは棚を見上げ、数を追う。
「……一束分、か」
バルドが低く唸る。
「獣じゃねえな。こんな取り方はしねえ」
三人の視線が、同じ結論に行き着く。
人だ。
境界は引いた。
ルールも、口頭では伝えている。
それでも――越えた者がいる。
レオンは、すぐには動かなかった。
代わりに、棚と畑、水路を順に見て回る。荒らされた形跡はない。隠そうとした様子もない。ただ、**取った**だけだ。
「急いでいたな」
レオンは静かに言った。
「追うか?」
バルドが訊く。
「足跡は新しい」
「いや」
レオンは首を振った。
「来る」
その言葉通り、昼前に人影が現れた。
若い男だった。
二十歳そこそこ。痩せているが、身体は引き締まっている。顔色は悪く、目の下に影があった。手には、空になった布袋。
境界の杭の前で、立ち止まる。
迷いが、はっきりと見えた。
「……話がある」
声は、かすれている。
レオンは鍬を置き、境界線の内側に立ったまま答えた。
「聞こう」
男は一歩、踏み出しかけて、止まった。
そして、深く頭を下げた。
「……勝手に取った」
素直な告白だった。
バルドの気配が、わずかに硬くなる。
ミラは帳面を抱き、黙っている。
「名前は」
レオンが尋ねる。
「イオル」
男は顔を上げない。
「北の村の者だ。……家に、食わせる人間がいる」
言い訳は、それだけだった。
詳しい事情を語ろうとはしない。だが、嘘でも誇張でもないことは、声でわかる。
レオンは、すぐに答えを出さなかった。
代わりに、境界の杭を指さす。
「ここを越えた理由は?」
「……少しなら、いいと思った」
「なぜ」
「余っているように見えたから」
ミラが、静かに息を吸う。
バルドが、一歩前に出かける。
「それで済むと思うなよ」
低い声だった。
「奪い始めたら、終わりだ」
イオルの肩が、びくりと揺れた。
レオンは、手を上げて制する。
「バルド、下がれ」
そして、イオルを見る。
「事実確認をする」
声は穏やかだ。
「量は、一束。合っているな」
「……ああ」
「他に、触ったものは」
「ない」
ミラが、帳面に印をつける。
「イオル」
レオンは続けた。
「これは、盗みだ」
男は、強く唇を噛んだ。
「……わかってる」
「同時に」
レオンは言葉を切り替える。
「助けを求める手段を、選ばなかった行為でもある」
イオルは、顔を上げた。
驚きと、困惑が混じった表情。
「俺は、境界を引いた」
レオンは杭を見る。
「だが、閉じたつもりはない」
沈黙。
風が、干し葉を揺らす。
「本来なら」
ミラが静かに言う。
「規則違反です。罰則を設けるべきです」
「見せしめにしろ」
バルドが言う。
「次が出る」
三つの視線が、レオンに集まる。
彼は、少しだけ考えた。
長くはない。だが、軽くもない時間。
「イオル」
レオンは言った。
「お前に、選択肢を出す」
男は、息を呑む。
「一つ」
レオンは指を一本立てる。
「ここには、もう来ない。今回の件は、周囲に伝える」
イオルの顔が、強張る。
「二つ」
指を二本。
「内側に入る。その代わり、役割を持つ」
「……役割?」
「見回りだ」
レオンは即答した。
「境界を越えようとする者に、最初に声をかける」
ミラが、はっとする。
バルドが、眉をひそめる。
「奪った人間に、任せるのか」
バルドの声は、低く鋭い。
「だからだ」
レオンは答える。
「越える側の理屈を、知っている」
イオルは、しばらく動けなかった。
やがて、震える声で言う。
「……罰は?」
「労働だ」
レオンは淡々と言う。
「見回りと、運搬。それで返す」
「逃げたら」
バルドが言う。
「その時は、外だ」
レオンは即答した。
「二度目は、ない」
沈黙の中で、イオルは深く頭を下げた。
「……やらせてくれ」
夕方、ミラは帳面に新しい項目を書いた。
――境界違反、一件。
――処遇:役割付与。
――見回り担当、試用。
文字は淡々としている。
だが、その意味は重い。
夜、火を囲みながら、バルドが言った。
「甘い」
「厳しい」
レオンは答えた。
「奪ったままにはしていない」
ミラが頷く。
「……秩序を、作ったんですね」
「これからだ」
外では、イオルが境界の杭を見ていた。
昨日までは、越える側だった線。
今日は、守る側として見る。
境界は、ただ引くだけでは意味がない。
**誰が、どう越えるのか。**
それを決めて、初めて生きた線になる。
レオンは、その始まりを静かに感じていた。




