舞踏会の夜に響くのはオルゴールのワルツ
「それでは行ってくる」
「はい、お気をつけて」
「行ってらっしゃいませ、お父様、お母様」
正装の父がひとつ頷くと、髪を高く結い上げ流行りのドレスに身を包む母も「行ってくるわ」と微笑んで自動車に乗る。舞踏会へ行くのだ。
去っていく車を見送る小春の隣で兄が「やっと行ったか」とため息を吐いた。
小春は子爵家の娘だ。爵位は高くないが父は手広く商売を成功させており、母は結婚前から今も雑誌を飾る美しい貴婦人だ。残念ながら小春は父に似た。決して可愛くないわけではないが。
「いけませんわ、お兄様。そのように仰られては」
「お前も自由にしておけ。どうせ明後日まで帰ってこない」
「もう、お兄様ったら」
小春が咎めるように眉を顰めると兄はにやりと口の端を上げた。
「そうだ、せっかく父上もいないしあいつの話でもしてやろうか?」
「あいつ?」
「サンナイ」
「な……!わたくしは別に!」
「じゃあさっさとハンケチを返せよ。もうお前、坂もひとりで上れるだろう?俺が返しておくか?」
「それは……!」
小春は真っ赤になって唇を噛みしめた。
サンナイは小春の初登校の日、自転車でこけてしまった小春を助け起こしてくれた人だ。
兄よりも高い背、兄よりも大きな手、母に似た美人の兄とは違う男らしい面立ち。
兄より低い声で「大丈夫か?」と心配そうに声をかけ擦りむいた小春の手に真白のハンケチを巻いてくれたことを小春は今でも忘れない。
「お前も毎日懲りもせず自転車を倒して気を引くくらいならまともな会話でもしろよ」
「そんな、はしたない、こと」
「毎日自転車を転がす方がはしたないだろうが」
最初の数度は本当に転んでいたのだが、その後はサンナイと関わりたくてわざと自転車を倒している。その度、サンナイは今も困った顔で助けてくれる。
「っ……部屋に戻ります!」
「はいはい。今しかないんだから…まあ、頑張れ」
踵を返した小春の背中に、兄の苦笑するような声が響いた。
ばたん、と少しだけ強く扉を閉めると小春は窓際で月明かりに照らされるオルゴールに手を伸ばした。
美しい細工のそれを開けばワルツの音色が響く。中には白のハンケチ。
小春は華族だ。いずれ、同じ華族に嫁ぐ。庶民のサンナイとはどうやっても結ばれる日は来ない。
「それでも…この思いだけは……」
ハンケチをオルゴールから取り出すと大切に胸に抱く。
目を閉じゆっくりとワルツのステップを踏みながら、小春は「サンナイ様…」とひと粒、涙をこぼした。
お読みいただき、ありがとうございました。
同じく【なろラジ7】参加作品の『ハンケチと自転車』の、女学生側の物語です。
小春のお兄さんはサンナイこと三内に「顔の良い金持ちなんぞ嫌いだ」と言われたいけすかない川村君です。
小春がサンナイがあだ名であることを知る日が来るのかは…お兄様次第ですね。
またご縁がございましたらぜひ、よろしくお願いいたします。




