96.マリア・オリヴェテの狂気
闇落ちするマリアです。
エヴリールの集会に参加した翌日のことである。
マリア・オリヴェテはダルエスサラームへと向かう電車に乗っていた。
市場で、新鮮な野菜と魚を仕入れようと思ったのである。
そのために、その日は朝早くに起き、支度を整えた。
なぜ……急にそんな気もちになったのかはわからない。
「自由の木」の集会で現実の一端を見てしまったからかもしれない。
その瞳には、半壊したアルスレーテの街並みが映っていた。
この世界を救わないと、まずは小さなことから、とマリアは思った。
(昼までには帰れるだろう。午後の客には、新鮮な野菜サラダとフィッシュ・パイを出せばいい……)
彼女が考えていたのは、そんな単純なことだった──その時は。
ダルエスサラーム駅で降りると、古風な駅舎を出て市場へと向かった。
通りには、戦時の戒厳体制を反映して、警察官が幾人も立っている。
途中、マリアは一人の警察官の尋問を受けた。
「なんでしょうか?」
マリアは尋ねる。
「いいえ。型通りの質問なんですよ。なにしろ、戦争中ですからね? なにか危険なものは持っていませんか?」
と、警官はマリアのトートバッグを見ながら尋ねる。
「そのバッグの中身を見せてもらえませんか?」
「いいですよ、まだ家から持ってきた冊子が1冊入っているだけですが……あとはお財布」
「あはは。今日は買い物なんですね。どうぞダルエスサラームを満喫してください」
「ええ。今日はね? 店の仕入れで来ているんです」
「あなたは移民の方ではない?」
「ええ、先祖からダルエスサラームに住んでいました」
「ということは、地元の方でしたか」
「今はアルスレーテに住んでいます」
「なるほど」
答えながら、警官はマリアの持っていた冊子をめくって調べている。
「『自由の木』……ですか? 市民のグループですね?」
警官は、一瞬マリアの目をまっすぐに見た。
「そうです。平和的な、フォーラムのようなものですね」
「なるほど。意識が高くていらっしゃるんですね。では、お気をつけて……」
何事もなく、マリアは警官から解放された。当然である。
タクシーに乗ってカリアコーマーケットに到着する。
ここは、ダルエスサラームにかつて住んでいたマリアにとってはなじみの場所だった。
夫とよくザンジバルミックスというスープを食べた。
露店をいろいろ見てまわるうちに、マリアは一つのことに気づいた。
なにか、活気がないのである。
警官たちがそこここに立っていることも影響しているのかもしれないが、すこし不穏だった。
もしかすると、不景気なのかもしれない──と、マリアは思う。
新鮮な魚を仕入れるにはフィッシュマーケットへ行くのが一番だが、野菜やフルーツは豊富だ。
雑貨や服などもたくさん売られている。
この市場は地元向けでもあるし、観光客向けでもある。
ちょっとした旅行を楽しんでいる気分になれるのだった。
文字通り、より取り見取りである。
いくつかの野菜とフルーツを仕入れた後、マリアは(帰りにはフィッシュマーケットにも寄っていこう)と考えた。
──スターゲイジー・パイでも出したら、客は喜ぶだろう。
と、その時だったのだ。
向こうから数人の子供たちが駆けてきた。
すばしっこく、とても急いでいるように見える……
(まるで、誰かにつかまらないように逃げているみたいだ……もしかして、泥棒?)
マリアは一瞬で考えを巡らせる……着ている服が汚れている。
と、一人の子供がマリアのトートバックのなかに何かを押し付けてきた……
走り抜けながら、「ちっ」と、舌打ちをする。
急いで振り返ると、子供たちはもう人ごみのなかに消えている。
(いったい何をしたの?)
トートバッグのなかを除くと、かじり掛けのホットサンドが入っていた。
(やっぱり泥棒)
と、マリアは思った。
そして、子供たちを追ってきた警察官とぶつかる。
「あなた──今、あの子供たちを助けましたよね?」
と、警察官は言った。
「何を言っているんです? わたしは何も……」
「最近よくいるんだよね、子供たちに物を盗ませて、陰で操っている連中が。あなたもそうじゃないんです?」
と、警察官。
どうやら、マリアの白い肌を見て外国の窃盗団だと疑っているらしい。
そういう噂は、聞いたことがある。
「トートバッグの中を見せてください」
──警察官があらためると、ホットサンドとともに指輪が……
高いものではないようだったが、確実に盗んできたものだ。
「ちょっとお話を伺いたいです。署に来てください」
──
取り調べは3時間にもわたった。
解放されたのは正午過ぎである。
午後にはアルスレーテに戻る、というマリアの予定は完全に狂ってしまった。
(今日はお店を開けられないだろう……アルスレーテに着くのは夕方だ)
戦争の狂気とは別の狂気が渦巻いているのだ──と、マリアは思う。
いや、それも戦争のせいだったのだろうか。
(あの子供たちは、飢えているように見えた……大人が食べさせてあげなくてはいけないのに)
マリアは、「大人の責任」という言葉を強く意識した。
そして、自分がどんなに自由で恵まれているか。
(わたしは、本当に自分の責任を果たしているのだろうか?)
不安な考えが、マリアの胸のうちを埋める。
それが、マリアの転落の始まりだった。
「念のために、これからはパスポートを携帯してください」と、マリアは警察官に言われた。
不穏な空気は、マリアの頭上に渦巻いているのだった。
──あの男、エヴリールに連絡してみよう……
と、マリアはいつしか思っていた。
(わたしたちは子供を救わなければいけない。この狂気から……)
──
マリアは、フィッシュマーケットへは行かなかった。
その足で、かつて自分が教鞭をとっていた小学校へと歩いていった。
カリアコーマーケットからは、およそ30分の距離があった。
その間、マリアはタクシーを使わずに徒歩を通した。
──歩いて、世界を見なければいけない。
そんな強烈な思いが、マリアを満たしていたのである。
(パスポートを携帯しなさいですって? わたしはどんな犯罪者よ)
マリアは心のうちで思った。
空を見上げると、空軍の戦闘機が何機か頭上を飛び越えていった。
(忌々しいわ、何もかも……とくにこの戦争が!)
小学校に着くと、子供たちが校庭を駆け回っていた。
戒厳令が出ている間、授業は午前中で終わりなのである。
すぐに帰るように、という指示が出されているはずだったが、それでもルールを守らない子はいる。
マリアは、しばらくの間、ずっとかつての自分の学校を見詰めていた。
……マリアはずっとたたずんでいた。
そこへ、学校の教頭である女性教師が現れた。校庭の巡回をしていたのである。
マリアははっとする、彼女はかつての同僚だったのだ。
金網越しに、マリアと女性教師との目が合う。
(彼女もまた無名の存在……)という思いが、マリアの胸に去来した。
「あら、あなた、マリアじゃない? うちの学校で教えていた。でしょう? 何年振りかしら?」
そう言われた。
「ええ……そうよ、マリア・オリヴェテ。あなたのこと忘れていないわ。きっと10年ぶりね?」
「あなた、まだ教師をしているの? 労働争議で辞めてしまったけれど……旦那さんは元気?」
「主人はなくなったの。今は喫茶店を開いているわ」
「そう。あなたにもいろいろなことがあったのね。わたしは今、この学校の教頭をしているの。どう? 学校のなか見ていかない?」
「いろいろと変わったんでしょうね、ここは、もうわたしの居場所じゃないわ」
「たしかにね。今は戒厳令だし、学校にも警備員が常駐しているわ」
「悲しいこと……」
ぽつりとつぶやいた。
マリアは、かつての同僚の目を見つめながら、こう考えていた。
(自分は、世界という巨大な歯車のなかの、たったひとつの部品にすぎない。でも……何かをしなければいけないんだ)
「わたしね、さっき警察の取り調べを受けたのよ」
「えっ?! なんでまた?」
女性教師は驚いて言った。
「子供たちの犯罪に巻き込まれたの。3時間も取り調べられたわ」
「そんなことがあっただなんて。あなた、また教師に戻る気はないの? やり直せるわよ?」
「わたしには、もう後戻りはできないのよ……」
マリア・オリヴェテは寂しく笑った。
マリアはその時、ミューナイトの顔を思い浮かべていた。
15歳で軍人として働いている、ネオスの少女。いいえ、それよりもずっと前から。
(もしもあんな子が学校にいたら、すべてが壊れてしまう!)
──この世の中を何とかしないといけないんだわ?
(わたしも、立ち上がらなければいけない)
そう思い始めていた……。
──
アルスレーテへと帰る急行のなかで、マリア・オリヴェテはウィンストン・エヴリールに電話をかけた。
決意が胸に宿っていた。
……
「もしもし、わたしマリア・オリヴェテです。あなたと2度お会いした。……あなたに相談したいことがあるのです」
マリア・オリヴェテは移民何世かですので、白系です。それで不審人物と思われました。




