90.マリア・オリヴェテのふたつの顔
マリア・オリヴェテの日常回です。
隠れ家喫茶の朝は、そんなに早いというわけではない。
マリア・オリヴェテはだいたい午前8時くらいに店に降りてくる。
それから、ポット・シチューやパスタ・ソースの仕込みをするのだ。
午前9時半になると、店の掃除を始める。
まず、テーブルの上に椅子をすべて上げ、床に掃除機をかける。
これは、入念に行う。
塵一つでも床に落ちていたら、恥ずかしいと思うからだ。
そして、この掃除という作業はマリアにとって癒しでもある。
掃除機の軽いうなり音を聞くたびに、マリアは世界が洗われているのを感じる。
そして、床をすべてピカピカにした後は、椅子をもとに戻して、テーブルの清掃。
テーブルクロスの上に丁寧に布巾をかける。
ときにはコーヒーのしみなどを見つけることもあるが、それは客の愛着のせいだとマリアは考えている。
いくらでも汚してくれてかまわないのだ。
しかし、それを翌日に持ち越すことはない……
11時直前になると、店の看板をOPENにする。
チョークで、その日のおすすめメニューを看板に書き込む。
ちょっとしたチョーク・アートもそえる。
マリアは絵は下手だったが、味のある絵を描くと客たちには評判だ。
それで、マリアも心をくすぐられる。
11時半に配達の人間が来た。
マリアは、ダルエスサラームあたりへ新鮮な魚を仕入れに行くこともあるが、それは店を閉めた日のことである。
軽く会釈とあいさつを交わして、配達人の届け物を受け取る。
それを確かめると、ぼちぼち客がやってくる時間だ……マリアはカウンターに立つ。
そして、雑誌などを読みながら、客が来るのを待っているのだった。
マリアの一人娘、クレールは滅諦に店に顔を見せなかった。
今はシングルマザーとして、娘のトゥーランドットを育てている。
「お母さんにはお母さんの仕事があるんだから。わたしがそれを邪魔しちゃったら悪いでしょう?」
というのが、クレールの口癖だった。
しかし、自分の娘は自分よりも夫のマルコに似ている、とマリアは思う。
(夫はわたしのことはほったらかしだった。でも、それがわたしには心地良かった……)
マリアは、深い感慨にふけることもある。
その時に思い出すのは、決まってダルエスサラームでの教員時代のことだ。
子供たちは可愛かった。
マリアは、彼ら生徒たちを小さな大人のように扱った。
時には敬語で話しかけ、子供たちの自尊心の発達をうながすのだ。
当時の教え子からは、今でも時折手紙が来る……
今日は珍しく、クレールが店に降りてきた。
一人娘をあやしながらである。
店には、ぽつりぽつりと客が訪れてきていた。
クレールも、マリアを手伝ってコーヒーを淹れたりしている。
とても助かる、とマリアは思った。
マリアの年齢は高齢ということでもなかったけれど、次第にこまかなことに対する注意力や体力が失われてきている。
とくに、怒ったり悲しんだりするとだめだ。
こうして娘が手伝ってくれていると、マリアは心の底からほっとする。
一日にはりが出てくるように感じられるのだ。
「お母さん、今日はお客さん多い方?」
などとクレールは聞く。
「まあ、ぼちぼちよ」
と。マリアは答えるのだったが、それはいつもの会話だった。
クレールは店の売り上げを心配しているのだが、マリアにとっては売り上げは二の次である。
自分が働けているということが嬉しいし、客たちの笑顔を見ると生きている実感がわいてくる。
マリアと客たちとの会話はこんな感じだった。
「あら、アレクセイさん? 今日はコーヒーじゃなくってビールなんですか?」
「ああ。女房が病気になってね……。10年間禁酒していたんだが、不思議なことにこうなると呑みたくなってしまった」
「アルコールは心の友ですよ。過ぎなければ、心も体も潤してくれます」
「そうだな。まあ、今日だけだな。明日からはまたコーヒーを注文するよ」
「どちらでも。『ぶどうの生る季節』はいつでも、お客様目線で対応しますから!」
「ありがたいね。こんな場所があることは……」
アレクセイ・ブランドは、心労を溶かすように、そう答えた。
店には、ネオス嫌いの人間たちも集まってくる。
それはいつのころだったろうか……
例えば、ユークレナ・モディという青年は熱血な反ネオス主義者だった。
彼は、熱くなってこんなふうに語る。
「ジェマナイはネオスが支配している国家じゃないか! あの、リュシアスっていう不気味な女を知っているか? 仮面の女で、統合戦線を滅ぼそうとしている。これは、AIによる独裁政権だ!」
……そのたびに、マリアは優しくなだめ諭すのだった。
午後2時くらいになると、だんだんに客の数は少なくなってくる。
ここから3時くらいまでは、だいたいマリアの休憩の時間と言っても良い。
また、カウンターの傍らで雑誌を読みふける。
時折は、「自由の木」の広報誌に目を通すこともあった。
このグループでの活動は、マリアのもう一つの生きがいだった。
ある日、店に謎の男が現れた。
スーツの襟がわずかに乱れていて、システム・エンジニアのような自由さをまとっている。
年齢は……そう、30歳くらいだろうか。
彼は、マリアに名刺を差し出した──そこには、「ジョージ・ワイマール」という名前。
彼は、統合戦線の今後について若者たちと語り、何かを手渡していた。
パンフレットだろうか? 檄文だろうか?
いずれにしても、ジェマナイ嫌いであることは想像がついた。
MVの映像に見入りながら、時折その映像に批評を加えている。
……
彼が店にいたのは1時間ほど……でも、なぜかマリアは忘れられなかった。
彼は、店に置かれていた「自由の木」の広報誌にも目をとめた。
「あなたは……このグループの参加者?」
と、軽い口調で尋ねる。まるで、市民の活動を軽蔑しているかのように……
でも、真実は違った。
彼は、「後で自分に電話してくれ」と言う。
なんでも相談に乗るから、と。
マリアはあいまいに笑って、「ご縁があれば」とだけ答えた。
その客は帰っていった。
しかし、彼がMVに加えていた批評に、マリアは不思議と納得することがあった。
いやな男だが、悪人ではないのだろう。と、マリアは思う。
……
それから……数か月は経っていただろうか?
マリアは、疲れていると不思議にこの男のことを思い出すのだった。
クレールは、
「じゃあ、お母さん。わたしは娘に食事をさせてくるから……」
と言って、2階にあがっていった。
「わかったわ。手伝ってくれてありがとう」
「ううん、なんでもないことよ?」
そしてマリアは一人になる。
これからしばらくは本当に自由な時間で、娘にも気を使わなくて済む。
そう、思った。
しかし、その静謐は一本の電話によって破られたのだった。
マリアははっとした。──なにかの予感に憑かれたように。
電話の声の主は……例の男だった。
ジョージ・ワイマール。
そして言った。
「あなたに明日、グリーンロードの3番街まで来てほしいのです」
彼女の運命はだんだんに狂っていきます。これも戦争のせい……




