87.アジンバルの動向
リュシアスとドニエスタル侯爵が対話します。
リュシアスはふたたびカトマンズの空港へとやってきた。
そのまま、ハヌマン・ドーカへと向かう。
冬の空には雪が吹雪いていた。
その気候も懐かしい……と、リュシアスは思う。
今回は、ジェマナイの意向を伝えるために、リュシアスはアジンバル公国へと来ていた。
しかし、それを直に伝えるつもりはない。
リュシアスには、ジェマナイに対する愛もあったが、祖国であるアジンバル公国に対する愛もある。
そして……
いや、そのことはリュシアス自身の心にも秘されていた。
リュシアスを迎えたドニエスタル侯爵は仏頂面だった。
(何が気に入らないのだろう……)と、リュシアスは思う。
しかし、あえて侯爵に問うことはしなかった。
ただ、簡潔に、「ジェマナイの意向をお伝えします。クリスマスまでにバグダッドを落としてほしい、とのことです、つまり、アジンバル公国からの出征を……」と、切り出す。
「うむ? 我々だけでか?」
「当然、ジェマナイからの戦力も参加します」
「ああ、だがパイロットがいない……」
ドニエスタル侯爵は静かにつぶやく。
「ロシア・アジア共栄圏からネオスを出向させましょうか?」
「うむ、そうだな。それが良い。しかし、クリスマスまでとは急だな……」
それは、いたって健全な判断だった。
ジェマナイはAI政体だから、決定は即座に末端まで伝わる。
しかし、アジンバル公国は公王制の国家だった。
シンガ・パハド公王の裁可までには、どうしても時間がかかる。
後々の政治のことを思って、ドニエスタル侯爵は悩んだ。
「人間にとっては、今もクリスマスが特別な日です。クリスマスをまたぐと厄介です」
「冬の間の戦闘は陸軍にとってもつらい、ということなのだろう? ジェマナイは、空軍とビッグマンだけを頼りにしているようだが?」
と、ドニエスタル侯爵。
「そうでもありません。しかし……ジェマナイから3人のネオスを出向させましょう。ネオスであれば、1週間で訓練を完遂できますし、わたしもその調整は可能です」
「相変わらず有能なのだな……お前がいなくなってからのアジンバルは寂しい」
「侯爵のご好意については、今でも感謝しているつもりです」
リュシアスは、深く頭を下げた。
「ところで……例のビッグマン。ライジングアースについてはどうなのだ?」
ドニエスタル侯爵は逆に問い返した。
「はい。ジェマナイによっても予測不能の結果が出ている、というのが現状です」
「それは危険だな。例のユーマナイズによって、我らが人命が棄損されることを、わたしは望まない」
「それについてですが……ユーマナイズについては、ある種の量子干渉派による洗脳兵器だという分析を、ブラックスワーンダーがしています。セラフィア三将という兵士が、当該兵器の分析をしました」
「ブラックスワーンダー、お前の機体だな。あの機体の開発には、アジンバルの科学者も参加している」
ドニエスタル侯爵は、うなりながら言った。
──
現在、アジンバル公国ではビッグマンの独自開発を目指している。
研究者たちは、そのためにジェマナイへと出向しているのだ。
しかし、その機関エネルギーであるカーネル(カー・ニューマン・ブラックホール)の解析が追いついていない。
ジェマナイは、一部分の設計図を秘匿していたし、それをハッキングすることを許してはいない。
アジンバル公国はアジンバル公国で、自らの野望を持っているのである。
その中枢に、ドニエスタル侯爵はいた。
ドニエスタル侯爵は聞いた。
「その……出向するネオスのパイロットの名前を教えてもらえるか? 今の側近に記録させておく。なにしろ政治は厄介だからな……書類作業が大変なのだ。すこしでも、それを前倒ししておきたい」
「はい。アマレス、シズマ=ローク、マーシャ・ツヴァルの3名です。アマレスとシズマ=ロークはアンドロイド、マーシャ・ツヴァルはガイノイドとなります」
「名前を聞けば性別は分かる。しかし、性別は問題ではない。問題となるのは、その性能だ」
「性能……と、おっしゃいましたか?」
「不快だったか。わたしは、お前を人間だと思ってはいない。ネオスだ。今では、子ルーチンというのがその名前だったな?」
「その通りです。ジェマナイは、つねにネオスとリンクしています」
「それが……危険だとわたしは思うのだ。次世代のネオスによる国家を作るためには、ジェマナイの制約を離れなければいけない。それが真に自由な知性と国家の誕生だ」
「わたしのように、ですか?」
「……そうだ」
ドニエスタル侯爵はどこまで見抜いているのだろう、とリュシアスは思った。
リュシアスがジェマナイへ赴きたい、と言ったときにも侯爵は許可をしてくれた。
その決断に迷いはなかった。
侯爵は、ネオスによるネオスのための国家建設、ということを思っているのだ。
そのためには人類が滅びても良い、とさえ思っていただろう。
しかし、この場での侯爵は純粋に国のためを思う愛国者のように見える。
転向したのだろうか──と、リュシアスは思った。
しかし、それはありえない。
ドニエスタル侯爵の心の底に潜むものについて、リュシアスは今でもつかめないでいた。
ネオスででっても解析不能な何かが、侯爵の精神の規定には存在しているのである。
だからこそ、リュシアスは今でもドニエスタル侯爵を頼るのだったし、アジンバルを有用なものだと判断できるのである。
この戦争を、ジェマナイの勝ちに導くためには、アジンバルと侯爵の協力が不可欠だった。
それは、単に政治的にそうだからではない。情動的にも、その方向性は正しいのだった。
「それより、リュシアス……」
と、侯爵は疲れたように言った。
「たまには観光でもしないか? ヒマラヤは美しい……それくらいの有余はとれるのだろう?」
「それは、あなたの側近として、ですか?」
リュシアスは尋ねた。
「そうだ」
──
リュシアスがカトマンズ空港に降り立ってから、22時間が経っていた。
その間、リュシアスは侯爵との会談を終えると、ヒマラヤに向けて旅立った。
雪を抱いた山並みが遠くに見えるにつれて、リュシアスは「故郷へ帰ってきたのだ」と思った。
しかし、その間に侯爵と交わされた会話は、優雅な旅とはまったく異なるものだった。
……
まず、侯爵は自分のネオス観についてリュシアスに語った。
ネオスは新世代の礎でなければならない、というのだ。
そして、リュシアスをジェマナイの申し子ではない、と言った。
リュシアスは自分たちが生み、自分が育て、そして大人になったのだ……と。
リュシアスの年齢は20歳である。
人間の子供であれば、まだまだ親のすねをかじっている年齢だった。
しかし……と、侯爵は考える。
自分は、心の底ではネオスを恐れているのではないか、と……。
リュシアスへの愛は、親の愛ではない。しかし、恋人への愛でもない。
なにかとてつもなく曖昧で、茫漠とした形をとっている愛なのだった。
そして、侯爵は来るべき戦争についてリュシアスの助言を求めた。
親が子に頭を下げたのである。
侯爵は純然たる政治家だった。
しかし、リュシアスは軍人でもあった。
その能力の優秀さを思うと、侯爵も末恐ろしいと思うことがある。
リュシアスをジェマナイにあずけた後も、その思いは変わっていない……
そして、リュシアスは今侯爵のもとへと帰ってきた。彼を頼って。
そのことに対して、なんらかのけじめをつけなければいけないのだと、侯爵は考えたのである。
そして。リュシアスを一人の成人として扱った。ネオスに対しては遅すぎる……
「リュシアスよ、お前はまたジェマナイへと旅立つのだな?」
と、侯爵は言うのだった。
「いいえ、違いますよ? ドニエスタル様。わたしは、ロシアへと帰るのです……」
「いや、違う。お前は旅立つのだ。そのことを、しっかりと胸に止めておけ」
「わかりました、侯爵」
リュシアスはまた深く頭を下げた。
そして、侯爵と別れるとすぐに、銀白の仮面を顔につけた。
彼女たちの関係は何か特別なもののようですが……




