59.マインド・メンテナンス
ミューナイトのAI脳についてすこし描写しています。
ドクター・カマウ・ンゴマは、民間から統合軍空軍第1大隊に出向している医官である。
白髭に眼鏡をかけていて、「医学界のゴッホ」というあだ名で呼ばれていた。
ネオスたちは、彼を天使かなにかのように慕っていて、信頼も厚い。
ミューナイトたちネオスの兵士は、月に1度彼によるマインド・メンテナンスを受けるのである。
ミューナイトは、特殊な生理食塩水で満たされた医療ボックスのなかで静かに息をしていた。
額には心理スキャナが当てられ、口からは気管チューブに似た器械が挿入されている。
精神安定用のハーブ製剤を投与されていて、眠っているように心地よい。
マインド・メンテナンスを定期的に行わないネオスは、しだいに精神がゆがんでゆく。
その先にあるのは、「心理的な死」だ。
緊急時に自分で行うセルフ・マインド・メンテナンス用のキットもあるが、正式にはこのような機器を使う必要がある。
前時代的に見えるかもしれないが、これがネオスたちにとってもっとも安全なやり方なのである。
黎明期には脳に電極を差し入れるなどして、危険なマインド・メンテナンスも行われていたが、こうした古典的なやり方の方が効果もあり、安定しているのだった。
ドクターはミューナイトに向かって話しかける。
「君は、今どこにいるかね? 思ったことを言ってみたまえ」
(海にいます)
ミューナイトは思念で答える。
「それは『心理の海』ということかね? それとも『現実の海』かね? どちらだい?」
(どちらもです。わたしは現実の海にいると同時に、心理的な海にもいる。わたしのAI脳の演算結果では、ここはある種の位相空間としての「海」である、という結果が出ています。わたしはただそれを受け入れる……)
とは、やや抽象的なミューナイトの説明である。
が、ドクターにはそれが言葉のままに伝わった。
「よろしい。それはネオスとして正しい感じ方だ。君は心理の海を漂っているが、同時にそれを現実の海だと感覚している。ネオス的に非常に健康な状態だと言える」
手元のタブレットに何かを書き込みながら、ドクター・ンゴマはミューナイトに話しかける。
「では次に、君の目には誰か人の影が映っている。それは、誰の影かね?」
(人は見えません……いいえ、だんだんに見えてきました。その人は……誰かしら? サイガ? ……わたしのパートナーのサイガ・シンイチのようです。空軍中尉の)
「サイガ中尉については、わたしも知っている。君の新しいバディだね? 命を預けあう」
ドクター・ンゴマは優しい口調で言った。
「君は、彼をどのように感じている? 頼もしい? 信頼できる? それとも恐ろしい? 他人行儀?」
(彼は……信頼できるバディです。彼の指示は的確だ。そして、わたしのバックグラウンドで適切な情報処理を行っている……)
「よろしい。その感じ方は人間に近い。つまり、君とシンイチ・サイガとは信頼関係にあるというわけだ。今後もその信頼関係は続きそうかね?」
(分かりません。不確定要素が多すぎるんです。サイガは謎に満ちている。わたしのAI脳は彼を「評価」しているけれど、彼を必ずしも「肯定」してはいない……そう感じます。わたしはサイガが苦手なのかも?)
それに対して、ドクター・ンゴマは長い説明をする。
「ふむ、興味深いね。君は生理的には苦手であるサイガ中尉を、人間としては信頼しているということになる。もちろん、君のネオスとしての精神はすでに大人だが……君にはディープ・コーディングの能力があり、それが精神と身体の成長を抑えている、とも考えられる。その点についてはわたしも不確定なのだが……君は非常にバランスの取れた人間関係を構築している。通常のネオスは、苦手だと感じる人間とは心理的な距離を置こうとする……それがAI脳のシステムだ。しかし、君は苦手な人間にむしろ積極的に接していこうとしているように見える。少なくとも、君の心理スキャンではそのようなデータが出ている。……君の認知セクションにおけるシンボライズド・カラーが見えるかね? 君自身の『感覚色』は群青で、サイガ中尉の『感覚色』は深い青緑だ。色相が非常に近い。これは、君たちの心理状態が部分的に重なり合っていることを示している。つまり、共感の数値がね、非常に高い。これは、ライジングアースにおける『人間関数』の高い数値にも関係していると思われるよ?」
(ライジングアースですか……今は考えたくないな……)
「ああ、それもいいね。では、次のテストに移ろう」
それから、30分ほどの時間が経った。
ドクターは、ミューナイトが入っている医療ボックスのわきにあるスイッチを入れた。
かすかな振動が医療ボックスのなかに伝わる……それが疑似的な「身体の動き」を表している。
ドクターはゆっくりと言葉を継いでいく。
「ミューナイト。今、君は草原を走っているところだ。裸で、自然のままの姿でいる。そして、風が君の体を撫でる。君の体はだんだんに変化していく。最初は豹だ、そしてつぎに鷹になる。君は『ネオス』という殻に閉じ込められた限定的な存在ではなく、真に開放された存在になっていく。つまり、これが『自由』ということだね。やがて、世界が変化していくのも感じられるだろう? それが君にとっての『宇宙』だ。それも不定形で、形をなしていない。つまり、これが君たちAI脳における『情報』の海であり、君たちの『思考』のベースとなっているものだ。そこでは、あらゆることが『確率』で把握される……まあ、これは君たちにとっては常識だね。だが、それは変化する常識でもある。ここで、わたしは君のAI脳に君の感情ベクトルと行動ベクトルとを投影してみよう。それぞれ13次元の図像になるが、君にとってはどのように感じられる? この13次元というのは、ネオスの心理をもっとも単純化した際の下限の値なのだ。それ以上単純化すると、心理そのものが失われてしまう……」
今度も長い説明だった。いつも通りの説明も混じっているが、初めて聞く言葉もある。そしてイメージ……
ミューナイトはすこし戸惑った。
(なにか高次元の……ガンマ関数の拡張のように見えますが、3次元に投影するとデイジーの花のようです)
「なるほど、君にはそれが花のように見えるのか? わたしは、氷山の塊のように見えるかと思っていたのだがね……やはり、君の精神はしなやかだし、強い……花に見えるとは思わなかったよ」
ドクターはうなずきながら言った。
そして、ミューナイトが感じたといった図像のデータをタブレットのなかに移しこんでいる。
一連の作業を終えると、ドクター・ンゴマはタブレットをかたわらにいるエレーヌ大尉に渡した。
マインド・メンテナンスはこれで終了である。
医療ボックス内の生理食塩水が廃棄され、ボックスの扉が開く。
エレーヌが、ミューナイトの体に装着された機器類をはずしていく……そして、タオルで丁寧に彼女の体を拭いた。
ミューナイトはほうっと息を吐く。
ドクター・ンゴマは、デスクにすわってノート・パソコンと向き合いながら、ミューナイトに尋ねる。
「これで今回のマインド・メンテナンスは終了だ。しかし、何か君のほうで悩み事はあるかね?」
「悩み事……というほどのことではないんですが、よく夢を見るんです。しかも、だいぶ前に見た夢のことははっきりと覚えているのに、今見た夢は覚えていないことがあります。しかも、良い夢ほど早く忘れてしまうみたい。悪い夢はいつまでも覚えているんですが……」
ミューナイトは、今度は言葉で答えた。
「ふむ。そのことも正常な兆しだよ。人もネオスも精神的な負荷がかかると夢を見る。しかし、夢を覚えているかどうかは必ずしも夢の内容や深さによって決まるわけではない。これが夢の不思議なところだね。良い夢は忘れやすい、という医者もいるが、これも定まっているわけではない。そうわたしは思うね。君に精神的な負荷がかかっている、ということは、君がきちんとその生を生きている、という証でもある。つまり、君は健康だということだよ」
「そうなんですね? ありがとうございます」
ミューナイトは何かが吹っ切れたように言った。
「もし、問題があるようならシャクヤクの製剤を出しておくから、それを飲みたまえ。芍薬は心のなかの痛みを取ってくれるからね。脳の神経に負荷がかかっているときには、とても良い薬になる。まあ、たまには物理的な解決法に頼る、ということも必要なわけだよ」
ドクターは鷹揚に言う。
それから、エレーヌ大尉に調剤を指示した。エレーヌ・ムバラは看護師と薬剤師の資格も持っている。
今回のマインド・メンテナンスは、ミューナイトが斎賀と出会ってから2度目だった。
ミューナイトは、斎賀という人間のことが少しずつ分かりかけてきていたが、それが途上にあるということはドクターも見抜いているようだった。
そして、今回は消してほしいと思う記憶もなかった。
いつもは、すこし記憶の調整をしてもらっているのだが……
もし、消したいほどの記憶があったとしても、それはこれから戦っていくうえで必要になる記憶のはずだ、とミューナイトは思うのだった。
次回はいよいよオバデレ准将とボワテ大佐がジェマナイへの侵攻作戦を説明します。




