推しに出会ったらすべてがうまくいった話
今は金曜日から土曜日に変わったばかりの午前0時過ぎ。
「もういやーーーーー!!!!!」
と叫んでいるのが私、山下久留巳
専業主婦だ
何に怒ってるかって?
そりゃあ、愛する夫かっちゃんにですよ
そんなかっちゃんは
半分困った、半分眠そうな顔でこちらを見ている
技術職として働くかっちゃんは
今週、新しい現場での作業だったときいた
慣れない場所の、責任ある仕事に
気を張っていたはずで
金曜日の夜にお酒を飲んで
もう、緩んで眠りたくなっている
かっちゃんの心と体は大変自然で健全だ
頭ではわかっている
「でも私は!毎日毎晩さびしくて、我慢して
火曜日にも断られたから
お休みの前の日まで待ってたんだよ…」
抱けよ
しくしく泣きだす私を
ほとんど目を閉じたまま
一生懸命、背中をさすってくれている
かっちゃんは優しい
ていうか、怒らないかっちゃんすごい
今、私が泣いているのは
かっちゃんが相手してくれないからじゃない
こんな自分がふがいないからだ
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若干、オタク気質でコミュ症気味の私は
私と同じくらいの深さでアニメとゲームを嗜み
穏やかな性格のかっちゃんに出会った瞬間
結婚するならこの人だと本能的に確信した
普段、受け身で大人しい自分とは
思えないくらいのパワーが沸き
私はかっちゃんを押しに押した
障害はあっけないくらいなかった
かっちゃんは
異性の少ない職場で働く
物静かな男子
はっきりいうとモテない
自分から口説きに行く甲斐性もないけど
そりゃあ、彼女はいたらうれしいというのが
独身男性の生態というものじゃん?
そんな中で「付き合って」と
向こうからやってきたら
他に好きな人でもいない限り
受け入れるよね、まあ
付き合い始めてからも
穏やかで心地よい関係が続き
そろそろだよね、と
自然と結婚に至った
その一方、私は仕事に疲弊していた
会社で付き合うのは
かっちゃんのように相性のいい人ばかりではなかったし
コミュ症気味の私は
会社に行くたびに自分の心が削られていくのを感じていた
仕事とはそういうもの
と自分に言い聞かせながら働くのは
本当は苦しかった
そんな折、かっちゃんの転勤が決まった
それに乗じて私は仕事を辞めた
引っ越し先で新しい仕事に飛び込む勇気もなく
新しい人間関係を構築する気力もなく
いつの間にか私には、
かっちゃんだけになっていたのだ
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平日の昼間は暇になる
私は、時間がある幸せと
時間を割くアテがない焦りのはざまで
宙ぶらりんな気持ちになる
なんとなく、かっちゃんに
評判いいらしいよと教えてもらった
アニメを観ることにした
口コミの情報元すら夫一択
そんな自虐的な気持ちで観始めて
一時間後
私は声を上げて泣いていた
作品の世界感にひどく感動した私の
オタク気質に火が付いた
その後、シリーズを一気見し
SNSで関連情報を検索しまくり
感想レビューを読み漁った
物語の中だけでなく
製作の裏話を知るべく
声優さんなどの配信も片っ端から視聴した
その中で、特に惹かれる声優さんが現れた
これが推しとの出会いだった
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推しは、かっちゃんとは正反対のタイプだった
長身、オシャレ、塩顔という
世の中ではイケメンと言われるけど
私には響かない、と思っていた3要素が
手のひらを返したように私をときめかせた
配信を見るようになって
やっと気づいたのだが
声優さんの世界というのは
働き方改革の浸透した日本の中で
未だ昭和的体育会系社会が
根強く残っている
漏れなく推しも苦労人だった
しかも、苦労を乗り越えて
売れっ子となった今でも
表向きは軽い感じで笑いながら
現在進行形でハードな働き方を続けている
今までの私だったら
わー、ストイック!
と別世界の人として認識して終了だった
でも、今回は違う
だって相手は推しなのだ
少しでもいいから
そちらの世界に近づきたいと思った
彼に恥ずかしくない自分になりたいと思うようになった
そこから私の生活は変わっていった
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まず、漫然とスマホを眺める時間が格段に減った
うっかり目的のないネットサーフィンに移行しようとした瞬間
推しの名前を検索してご尊顔を拝む
すると、
この行為は、推しに顔向けできるのか?
と気持ちが引き締められ
スタンドにスマホを置きに行く事ができるのだ
本当は人見知りだけど
声優として必要な事だから
飲み会にも積極的に参加するという
記事を読んでから
私も苦手な人付き合いに
挑戦するようになった
といっても
自治会の役員に立候補するとか
今まで断りがちだった同窓会に
出席してみるとか
私の周りにある小さな機会に
「参加」を選ぶようにしたのだ
正直、行く度にぐったりして後悔した
でも、その度に推しの顔を思い出して
自分を奮い立たせた
受け身を卒業したらもっと楽しめるかも
と、少しずつ自分から
コミュニケーションを取りに行く努力をした
どうすればいいかわからないけど
とりあえず挨拶だけでも自分から
気づいたら、この私が
ご近所づきあいというものを
するようになり
下の階のママさんと
ため口でしゃべる私を見て
かっちゃんがびっくりしていた
そのママさん
しげみちゃんから
パートを紹介された
一瞬尻込みしたが
推しならどうするか、考えた
「お仕事のチャンスをいただいたら
全力で信頼に応えるのではないだろうか」
そう思い、そのパートを始める事にした
パート先の人間関係は穏やかで
不器用ながら慣れない仕事に必死に取り組む私に
先輩方は優しかった
今のところ、ストレスを感じずに勤めることができている
目の前の作業に集中する時間
少しでも推しの世界に近づくことができる気がした
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初めてのパート代は
もちろん推し活に使う
今までは、家で享受することのできる
テレビや配信だけを楽しんでいたが
生の推しを、同じ空間で拝んでみたい
という気持ちが大きくなっている頃だったので
今まで縁のなかった
イベント、というものに参加すると決めた
発売日にスマホの前に待機して
専用のアプリをダウンロードして
電子チケットをどうにかこうにか買う
平日のイベントなので、
なんとか売り切れ前に買うことができた
こういうとき、主婦は強い
推しは、私にたくさんの初めての経験をさせてくれる
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「次の水曜日の夜、ちょっと出かけてるね」
晩御飯を食べながら、かっちゃんに言った
そういえば最近、かっちゃんに迫ることも
しなくなったなあ
「どこに行くの?」
「んーーー…、ないしょ。」
推しの名前をかっちゃんに告げるのが照れくさくて
なんとなく濁してしまった
するとその翌晩、隣で寝ているかっちゃんが
「サイエンスホール楽しみ?」と言ってきたので驚いた
「え?なんで知ってるの?」
イベントについては誰にも言っていない
私の携帯を覗き見るくらいしか手段はないが
かっちゃんそういうタイプではないと思う
「最近、くーちゃんが『ユートピアの裏側』にハマってるから
その出演者と、次の水曜日の夜にやるイベントを掛け合わせたらこれかなって」
ああ、かっちゃんはそっち側のタイプだよね
とは言え、わざわざそんな面倒なことする時間と気力を使ったことが少々意外だ
「夜の時間帯ということは、アレクの声の人が好きなの?」
「うん…、まあね」
照れくさかっただけで、隠していたわけではないので、素直に認めた
それだけのこと
かっちゃんはそれ以上何も言わなかったし
機嫌の悪そうな素振りもない
ただ、そのまま
かっちゃんの手が私のパジャマの中に
するりと入ってきた
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推し活は、浮気ではない
推し活は、基本的に恋愛のような見返りを求めない
推しが私を好いてくれる可能性は限りなくゼロに近いのだろうが
そこは私にとって重要ではなく、その存在を自分で自分のガソリンにするだけだ
でも、かっちゃんを押した時の私は見返りをがっつり求めた
かっちゃんの彼女になりたかったし
かっちゃんと結婚したかった
そして、かっちゃんはそれに答えてくれた
私はかっちゃんにとっての、かっちゃんは私にとっての唯一の配偶者だ
推すのと押すのは別物なのだ
だから私も後ろ暗い気持ちは全くないし
かっちゃんもよくわかっていて
むしろ、私の推し活には協力的だ
イベントで出会った推し活仲間との交流会にも
快く送り出してくれる
その一方で、以前より
恋人同士のような雰囲気が戻ってきた
私がかっちゃん依存から離れ
他の男性にも目が向いている状態が
かっちゃんにとっては
多少の刺激になっているのかもしれない
そして今、私のお腹に新しい命が宿っている
妊娠中の不安定な体調と
出産後の目まぐるしく変わるであろう生活の中
どこまで、どうやって
推し活を楽しんでいけるのか
かっちゃんや友人に相談しながら
充実した日々を送っている




