Autumn Leaves
カクテルライトの照らし出す薄暗いバーをジャズが満たしていた。
ピアニストは女性だった。白髪に銀縁眼鏡──見た目は70歳代のようだが、もしかすると80歳を超えているかもしれない。
ウッドベースを抱く色黒の男性も高齢だ。不釣り合いに若いドラマーのお兄さんは、二人を労るように、あるいは逆に二人に包まれるように、落ち着いた音色でスウィングしている。
バーの隅に立つ女性のことが私は気になっていた。
とても美しい女性だ。私と同じぐらい──三十歳代半ばだろうか。とても熱心に、バンドの演奏に聴き入っているように見えた。演奏が終わったら、次の曲までの合間に声をかけてみようか。
べつに出会いを求めてこのバーに来たわけではなかった。
しかしこんな運命のような直感を、私は逃すべきではないと感じていた。
演奏が終わった。
私はバーテンダーから受け取った甘いカクテルを手に、彼女のほうへ歩き出そうとして、足が止まった。
皆が拍手を贈る中、彼女の手は動かなかった。両手をだらんと下ろし、まるで憎むように、ステージ上の誰かに向けて、睨むような視線を送っている。
長い栗色の髪が蛇のように微かに動いていた。
「次の曲はスタンダードを演りたいと思います」
ピアニストの女性が、親しみを込めた声で言った。
「元々はフランスで産まれた、シャンソンの名曲がアメリカに渡り、ジャズのスタンダードになりました。私はフランスにルーツをもっておりますので、とても懐かしい感じもする曲です」
私はステージのほうを振り向いて、そのMCを聞いていた。
そういえば私が口説こうとした彼女もなんだかフランスの趣きがある。その顔つきを改めて確かめようと顔を戻すと、彼女が消えていた。
気づかず移動したのかと見回すが、どこにもいない。
「それではお聴きください」
ピアニストがマイクに向かって、言った。
「Autumn Leaves」
ピアノのソロから曲が始まった。インプロヴィゼーションの前奏から、誰でもが知っているメロディーを弾きはじめる。
「枯葉よ……」
私のすぐ耳元で、女性の歌声が囁いた。
ステージ上では誰も歌ってはいないのに、その歌声は、私の耳の中で鳴っているように、私を囚えて離さない。私の隣には誰もいない。
「枯葉よ……」
また同じ歌声が囁いた。わずかに嗄れた、乾いた声だ。
ピアノのメロディーに合わせて歌うが、Autumn Leavesの日本語歌詞はこんな単調なものではなかったはずだ。
私はそれをすぐ近くに感じながら、ステージ上を見て息を呑んだ。ピアニストの後ろに、あの女性が立っていた。祖母を慈しむように見守りながら、私のすぐ耳元で歌う声に合わせて口を動かしている。
私がまばたきをすると、その一瞬のあいだに消えてしまった。
よく見ると今度はドラマーの脇に立っていた。長い栗色の髪をざわざわと動かし、じっと彼の横顔を睨んでいる。
その唇が歪み、動いた。
「カレハヨ」
私の耳元の声が罅割れ、大きくなった。
私は思わず、絶叫していた。
演奏がぴたりと止まった。
何事かというように、ステージ上からバンドのひとたちが私のほうを見る。客たちも皆、私に注目していた。
私は急いで扉を開けると、バーから外へ飛び出した。
方向もわからず、ただ夜の舗道を駆けた。
余韻が私を追いかけて来ていた。