「圧倒的な数字を前にして、九十九%の人間は三種類の反応を示す」
火星行き輸送船、二日目。
宇宙時間で朝九時に起床。次の重点加速まで約三時間。アナントの眠りは深いはずだ。だって頭がデカいから。そう勝手に解釈した田中は、ガサゴソと素早くうるさく準備を済ませ、部屋を出た。昨日買ったエナドリを回収するついでに、回れるところは全部回る予定だ。
とはいえ輸送船で乗客が入れるところは限られている。推進方向に窓が着いた展望デッキと、レストランと、バーと、コンビニ。それらは密集していて、正直歩き回るほどでもない。その後、一通りの設備を見て部屋に戻り、二度目の重点加速のため部屋を出た。
偶然アナントも同じ時間に出るようなので、話しかける田中。
「おっアナント、一緒に行かないか?」
「まぁいいよ」
「ありがとう。調べたよ。君もしかして、遺伝子組み換え?」
「そうだよ」
「いいねぇ。ちなみに、脳細胞何個くらい?」
「三千億個弱」
確か一般的な人間の平均が九百億個。三倍くらいある。
「ワオ、もしかして、というかやっぱりメチャクチャ賢い?」
「抽象的だね。まぁ見た感じ君よりは」
「謙虚~」
「浅いね。まぁ普通か」
「えっ、どゆこと」
「別に」
つれない。ツンツンすぎる。
「まぁいいや、アナントは火星圏に何しに行くの? 僕はハルモニアで……えぇと、何ていうか、人間の次を目指す」……そういえばアナントくんは遺伝子組み換えだから、まさに人間の次じゃないか。
「へぇ。悪くないね。具体的には?」
田中にとって、始めてのアナントからの質問。
「決めてない」
「あ~」
短く答えるアナント。悪かったな小物で、と田中は苦笑いした。
「ちなみにアナントは?」
「カドモスでハードウェア関連の業務をスポットで。それ以上は言えない」
「そっか、僕は火星表面のハルモニアに行くから、じゃあ一緒にはならないな」
「だね」
重点加速を終え、部屋に戻った二人。低重力に慣れず、田中は寝た。
輸送船三日目。
ピロン。
ん? なんだ。通知か。
「【緊急連絡】カドモスにおけるジョブディスクリプションの変更について」
なんだなんだ、ヤバそう。ちょっと読むか。
「田中へ
火星圏での突如の重力異常により、以下のようなジョブディスクリプションの変更を依頼する。
旧版:
・期間:二一〇〇年四月三日 ― 二一〇〇年六月三十日
・業務内容:火星都市「ハルモニア」における種々のノイド操作
・報酬:二万ドル
新版:
・期間:二一〇〇年四月一日 ― 二一〇〇年四月三十日
・業務内容:火星軌道上ステーション「カドモス」における、輸送オペレーション補助
・報酬:十万ドル
上記のジョブディスクリプションの変更に対して、承認もしくは拒否の連絡をこのアドレスに二一〇〇年三月三十日 二十三時五十九分までに送ること(当方に必着。送信にはこの連絡直後の輸送船位置なら、三十分弱の遅延が発生するはずだ)までに行うように。なお、拒否の場合は、旧版の業務も無効となり、今あなたが乗っている輸送船でそのまま地球へ帰還することとなる。相談および質問は二一〇〇年三月三十日 十八時まで受け付ける。
背景について詳しくは、添付資料を読むこと。
PS
まだ会ったこともない君にいうのも気が引けるが、願わくばこの依頼を承認してほしい。前例のない急ピッチな輸送オペレーションで、圧倒的な人手不足だ。
絶対に帰還できるとは言えない。カドモス施設員も一定数の早期帰還志望者がでていて、今必死に引き止めを行っているところだ。足りない人手がさらに不足している。
頼む。どうか」
んん?
「アナント、何か僕、ジョブディスクリプションの変更依頼が来たんだけど。カドモスで輸送オペレーションの補助しろって。理由分かる?」
「僕も似た感じだ。ちょっと読む」
「OK」
その間に、添付資料を開く田中。
「ヤバそうだね」
アナントが口を開いた。
「早い早い。ちょっと待って、まだ背景を読んでない。というかもう添付資料も見たの?」
「見た。OK。けっこう面白いよ」
真顔なのは変わらないアナント。ただ、ポジティブな発言自体が田中にとっては珍しい。
ひとまず添付資料「現在の火星圏の状況と今後の予測_2100/03/27」のファイルを開く。普通のテキスト形式だ。
「現在の火星圏の状況と今後の予測および方針_2100/03/27
【現在の状況】
UMOの重力挙動が予測不能な形で大きく変動。昨日の約四時間でエネルギー密度が約二十%増加し、太陽への接近速度が急激に上昇している。それに伴い、UMOを公転する木星および小惑星群(ネプチューンフラグメントを含む)の挙動が変化。
【今後の予測】
現在、エネルギー密度の増加は八時間連続で〇・一%毎時となっている。このまま推移した場合、火星圏は土星と同じように太陽系を脱出する予測となる。
【今後の方針】
これを受けて、火星軌道上ステーション「カドモス」および火星都市「ハルモニア」の首脳は、緊急事態宣言を発令した。具体的には、この一か月で火星圏人類約十万人を地球に帰還させるというものである」
……結局どういうことだ? 解釈が難しい。アナントに聞いてみよう。
「なぁアナント……添付資料ちょっと読んだんだけどさ。なにこれ、UMOがめちゃくちゃ接近してきたってこと?」
「だね」アナントは手を動かしながら答える。
「じゃあ、また重力異常が起こったら火星で僕ら死ぬかもしれないってこと?」
「だね」
「僕はワクワクできないってそんな……」
「田中」
「いやどうしよう。 でも報酬はデカい。 でもワンチャン死ぬ。保険とか入ってないし」
「田中」
静かな声。頭を抱えたままアナントに目を向けると、彼はワインの瓶を右手に持っている。
「圧倒的な数字を前にして、九十九%の人間は三種類の反応を示す」
「ほぉ。ほぉ?」
「一つは思考停止。実感が湧かない奴らだ。もう一つは恐怖か不安。今のお前。もう一つは」
左手をボトルのふたに持っていくアナント。なんなんだいきなり。
「好奇心だ。僕は……」
「好奇心か?」
アナントは首をかしげ、その問いには答えずボトルを開け、田中の目の前に掲げた。
「乾杯するヤツ」
そう言ってぐいっと酒を飲んだ。
「まてまて、結論が分からん」
「僕は承認メールをさっき送った」
「だから何で!?」
「察しが悪いなぁ」
アナントは、左手でトントンとボトルを叩いた。
「より気持ちいい乾杯をするため」
コイツ……ちょっとヤバイ……。でも向こうからべらべら喋ってくれるのは正直嬉しい。うるさい僕を黙らせるためかもしれないにしても。
でも待てよ、乾杯ほどじゃないにしても、正直好奇心はちょっとある。そして回答期限はまだ一日ある。まだ結論は出さずに考えよう。
「OKアナント、ありがとう、ちょっと考える……」
ベッドに横たわる。一旦冷静に考えよう。
最悪のシナリオは、UMOにまた急激なエネルギー増加が起こり、自分が火星圏でなんらかの形で死ぬこと。正直この確率は分からない。なぜなら、ここ二十年でそんな記録はない。だから周期があるとは言えない。
……だめだ、喫煙所で考え直そう。
輸送船には喫煙所がある。なんでも吸っていいタイプの一番ありがたい喫煙所だ。
田中が吸うのはレギュラー紙タバコ「ラザーバック」。二〇八九年発売、生産国はブラジル。フィルター部分に特殊ナノ粒子が配合されており、タール1mg、ニコチンレスにも関わらずタール10mg程度の吸いごたえが喉と肺で感じられる。紙タバコの流通量が減って高価になっているが、「他の人と違うのを吸いたい」という欲求だけで田中は吸い続けている。
喫煙所に入って扉が閉まると、空気清浄システムの軽い唸りが響く。無地の黒いジェットライターでタバコに火をつけ、最初は小さく口に留める。口をいつもより小さく開け、濃い煙をゆっくりと肺に届ける。
喫煙者は、肺に味覚と嗅覚が宿る。
熱く苦いモヤモヤが横隔膜まで達したことを体感し、細く煙を吐き出す。そうして、田中の脳は過去を参照しはじめた。