火星軌道上ステーション「カドモス」
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火星軌道上には、二つのステーションがある。
一つは西側諸国主体の「カドモス」、もう一つは中国主体の「饕餮」。
「カドモス」はギリシア神話の登場人物である。火星つまり「MARS」はローマ神話に登場する戦いの神「マルス」に由来し、ギリシア神話のアレスと同一とされる。神話上で、アレスの娘が「ハルモニア」、火星上都市の名前だ。そしてカドモスはハルモニアの夫である。
カドモスは、「青銅」と「アルファベット」をギリシアに伝えたとされている。
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一節:避難
プルルル。
田中のARグラスの側面にある骨伝導部分から、電話の発信音が鳴る。眼前に小さく通話のポップアップが表示され、「ハミルトン」の名前が表示される。メールの主だ。田中は目線を「通話を取る」ための受話器アイコンに一秒間合わせ、通話を開始した。
「もしもし」
「ハミルトンだ。そのまますぐにノイド操作室に来れるか?」
「了解です」
田中は早歩きで向かう。
輸送船との連絡通路から制御室まで約十分。制御室は遠心重力居住区にあるため、連絡エレベータを通る必要がある。
喧噪の通路を通り鉄製のドアを開けると、三人がそれぞれ通話をしながら立っていた。ノイドも一体いる。そして、眼前中央には、巨大な円形のエレベータードアらしきものが閉じた状態で鎮座していた。
田中はノイドの顔に目を合わせ、問いかける。
「ヘイ、ここ、遠心重力側に向かうエレベータで合ってる?あと何分で来る?」
ノイドに顔を合わせることで、田中の視線データとノイド物体検出を踏まえて、アシ(田中のグラスに内蔵されたAI)は返答を行わない設計が二一〇〇年のスタンダードになっている。しかしカドモスのノイドは答えない。
「ここのロボットのトリガーは違うぜ。ヘイカドモスだ。ちなみにあと五分で来るぜ」
通話をしていた三人のうち一人が、田中の方を向いて早口で喋った。
「助かる、ありがとう」
「あと五分です。少々お待ちください。現在サーバーの負荷が大きく、省力モー」
「うるせぇ黙れ!」
ヘイカドモスに反応したノイドが遅れて答えたが、別の人が黙らせた。
五分後。
「まもなく、遠心重力区画行きのエレベータが到着します」
フィーンという音が扉の向こうから聞こえた。小さなきしみ音を出して、扉が開く。
「エレベータ、搭乗可能です」
ノイドからの声を聞いて、田中以外の三人は搭乗を始めた。田中もつられて乗る。他の三人は、せわしない通話を続けている。
突如感じる大きめの重力。久々の地面感。
思わず「おぉ」とうなった田中。他の三人も、慣れているわけではないのか、各々のことをしながらも壁にもたれかかったり姿勢が崩れたりしていた。エレベータの中で、田中は遠心重力区画の復習を行う。
遠心重力区画のほとんどは、居住区で占められる。重力の源は、中心トラスを軸に区画全体が回転することによる遠心力。そのため全体構造は、ドーナツ型である。より正確にいうと、真ん中が中空である円柱状のバームクーヘン型。居住者にとって「下」はバームクーヘンの外側、「上」は内側(つまり中空に接する部分)である。バームクーヘンの半径は約百mあり、居住者にとっての天井は約二十五mの高さとなる。
二分後、エレベータが止まった。
「遠心重力区画に到着しました。火星と同じ約〇・三Gとなっています」
ノイドからの声と同時に、扉が開いた。エレベータから降りた田中は、思い切りジャンプをした。どうしても一回やってみたかった。
案の定、足が地面を離れたその瞬間から、全身がどんどん軽くなる。そして、頂点――田中の足が床から二mほど離れる――。
落ちる速度は遅い……とおもったらどんどん全身が重くなり落下が早くなる。遠心重力では、バームクーヘンの外側ほど重力が強く、内側ほど重力が小さい。地面は火星と同じ約〇・三Gで、自分が上に飛べば飛ぶほどそれより小さい重力になる。わずか三秒足らずの体験だったが、田中は満足して軽い足取りで制御室に向かった。
無機質な鉄製ドアの前に到着した田中。ドアのカードキーは持っていないため、ハミルトンに電話をかける。
プルル。
「ハミルトンさん、部屋の前につきました」
「OK。開ける」
ほとんど音もなくドアが開く。
「ようこそ田中、大歓迎だ。そしてお祝いの品もある」
四十代くらい、スキンヘッドの恰幅のいい男性が座りながら田中を出迎える。暖かいオレンジ色の半袖と、黒いズボンはしわくちゃになっている。
「嬉しいです、お祝いの品なんて」
ピンポーン。機械音が部屋上部のスピーカーから鳴る。
【フライトコントロール室より連絡】
「こいつだ」
「えっ」
【小惑星残片の回避のため、五分後から約三分間、加速運動を行います。お近くの固定ベルトで体を固定してください】
「直径二十mのお祝いの品だ」
ハミルトンがウインクする。