晩餐
「ラーメンだけど、来週だったよね」、「え、ああ、連絡無いからキャンセルしたのかと思ってた」。
旧友は一週勘違いしていたようだった。「ではまた来週連絡するから」、「ああ、よろしく」。旧友は私と似ている。誰かに誘われない限り外へ食べに出かけたりはしない。旧友を誘うのは、他に一緒に行ってくれる人がいないからだ。どれほど流行りのレストランだろうと一人で行っても美味しくはないし、楽しくもない。
ハックション!駅のホーム。凍えるような寒さの朝、薄着で始発の新幹線を待つ。行先はここよりも暖かいので薄着で来た。なるべく荷物を増やしたくなかったのだ。ゴオオオ。やがて轟音と共に新幹線は到着した。駆け足で中に入り、予約席を探す。切符に表示された席と座席を何度も見比べる。予約したはずの席には誰かが座っていた。仕方なく後ろの席に座る。こういう場合声をかけられない。旧友もきっとそうだろう。
新幹線を乗り換え、電車に乗って、ようやく叔父の住む街へやって来た。タクシーの運転手に住所を告げる。旅はひと段落だ。
去年、唯一の肉親である伯母が亡くなり、血縁はいなくなった。今や身内といえるのは伯母の夫である叔父だけ。明日は伯母の一周忌である。彼はそろそろ引退を考えているようだ。あと何年かは毎年新幹線に乗って、伯母の供養をしに来なくてはならないだろう。
3階建てのコンクリート住宅に着いた。何か威圧的で何度来ても慣れない。「よく来た、ご苦労さん」そう言って、叔父はコーヒーを出してくれた。「いただきます」ブラック・コーヒーを口にする。美味い。コーヒーは何年か前に辞めた。若い頃飲み過ぎたのだと思う。何年かまえ胃痛に悩まされ、それ以降ほとんど飲まなくなった。もう胃痛はない。「コーヒーを辞めた」という習慣だけが遺ったわけだ。
法要の朝。叔父がトーストを出してくれた。胃痛の頃から朝食はゼリー飲料である。朝に固形物は食べれなかった。今は平気はずだが、ゼリー飲料も習慣化された。通勤の車中で、目の前の道路状況を注視しながら流し込む。
トーストにバターを塗る。暖かいブラック・コーヒーもある。伯母がいつも出してくれたメニューを叔父は引き継いでいた。目頭が熱くなる。これがヒトの食べるべきものであり、食事とはこういう事である。
法要の次の日、帰る前に、叔父は流行りのイタリアンレストランへ連れて行ってくれた。住宅街の狭い路地にあり、手狭だがとても落ち着いた雰囲気。叔父は白ワインを飲みながらお喋りに興じた。本当はワインを飲みたかったがウーロン茶にした、彼の前では下戸という事にしている。彼の酒に付き合う気はない。「やはり中国の影響が大きくてね!」、「政治は当てにならないから、今の時代は!」話題がいささか大仰に過ぎる。それでも叔父は個人事業主であり、言葉にそれなりの実感はこもっている。尽きる事のない話題に適当な相槌を打つ。
それよりもカウンターが気になった。伯母と同年代だろうか。後ろ姿からでも気品が漂う、身なりの良いご婦人が一人で食事していたのだ。目の前に白ワインのボトルを置いて。こんな昼間から!ヒュウ!思わず口笛を吹きたくなった。叔父の野暮なお喋りを他所に、カウンターを盗み見ながらウーロン茶を舐める。だんだんウーロン茶が赤ワインに思えてきた。空気に酔いながら、頬杖をついて、窓の景色を眺める。店の前を人々が行き交う。窓にはシェードがかかっていて、忙しく歩く足しか見えない。外とは違い、ここではゆっくり時間が流れている。
時折、窓の上の方で、何かがフワリと揺らめく。イタリアの国旗か何かが。「うん、なかなかいい料理だね」叔父が言う。「ええ、まったく」言ったものの、あまり美味しいとは思えなかった。一人でラーメンを啜っていた方がいい。イタリアンでパスタを啜ったりしたらテーブル・マナーに反するか。「ご馳走様」デザートを食べ終えたご婦人が、店のオーナーと談笑しながら会計をする。彼女はコース料理と白ワインを見事に平らげた!彼女の人生は素晴らしい、今は独りだとしても。フワリ。国旗がまた揺らめいた。今、この時が、この身に刻まれた。確信をもって宣言しよう。
「ではまた来年」。叔父に別れを告げ新幹線乗り場に向かった。発車まで一時間ある。何だか気ぜわしくて一息つきたかった。ラーメン店に入った。店のお薦めの食券を買いカウンター席に着く。運ばれてきた丼を啜る、やはりイタリアンよりも良かった。旧友とならもっと美味かったろう。次は旧友とだ、週末には。「ご馳走様」隣の客が席を立つ、スープを飲み干して。私はスープを残した。ついこの間、痛風の発作を起こしたばかりだったのだ。薬を飲んで席を立った。
当日。「ここは初めてだな」、「これが美味いよ」。初めて入るラーメン店の、お薦めを旧友は教えてくれた。
「今日は寒いな」、「お、次はこれにしよう」、「今年も花粉が酷いなあ」。いくら振っても話は続かない。これがいいのだ。将来に渡り独りで生活していくという、確認のために我々は集っているのかもしれない。
ラーメンを食べ終え、上着を着ると、「ああ、オレ」彼が言い出した。「近いうちに結婚するよ」。「そうか!おめでとう」反射的に出た言葉に思わず声が裏返った。相手の事、式はしない事、などを手短に説明してくれたが、全く耳に入ってこない。恐らくこれが最後の晩餐になるだろう。
驚愕の目で旧友を見つめる、何年か後には五十になる男を。私も間もなくそうなる。今日という日は、我々の晩餐は、この身に刻み付けられた。本当におめでとう。