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紫陽花の少女

作者: 佐藤瑞枝

 六月。誰もいない放課後の教室で、ふみが言った。


 「あたしね、牧野とつきあうことにしたの」

 「え?」


 一瞬、聞き間違いかと思った。

 牧野は、あたしの好きな男子だ。そのことは、ふみも知っている。

 しゃあしゃあと降る雨音のせいで、グラウンドの野球部員の雄叫びがくぐもって聞こえた。ふみに、なんて答えていいのかわからなかった。


 「なんか、ごめん」

 「いいよ、べつに」


 牧野は誰のものでもない。ふみがつきあったっていい。でも、とあたしは思う。ふみはこの間まで倉持とつきあっていたではないか。倉持のことが好きで、誰から見ても倉持一筋だったのに、そのことだけが解せない。


 「牧野にさ、倉持のこと相談してたらなんとなくそうなって」


 ふみが倉持のことで悩んでいたのは知っている。最近そっけないとか、会ってくれないとか、この世の終わりみたいな顔してため息ばかりついていたから。


 「ゆの。ずっと友達でいてくれるよね」


 両手で肩をつかまれ、ゆさぶられた。何を都合のいいことを言ってるのだろう。それでもあたしがうなずくと、


 「うれしいっ。ゆの、これからもいろいろ相談にのってよね」


 ふみにぎゅうっと抱きしめられた。

 その時、あたしが強く思ったこと。


 あたしはふみのようにはならない。


 あたしはふみとはちがう。一年のころから牧野だけを見てきた。身長168センチ。六月十日生まれのふたご座。バドミントン部の副キャプテンで、二つ下の妹がいる。好きな食べ物はモンブラン。笑うと片方だけえくぼができる。英語が得意なのは、お母さんが塾の先生だから。小学校からつきあっていた彼女が転校してから、牧野に恋人はいない。


 集めてきた牧野データを更新しなければならない。

 現在、ふみとつきあっている。

 認めたくないけれど。


 あたしが牧野を好きになったのは、入学したばかりの体育祭のとき。クラス対抗リレーで、二組と接戦だった時、あたしはバトンを落としてしまった。そのせいで抜かれてしまった。「ああ」とクラスのみんなの落胆の声が耳に響き、心が折れそうになる。バトンを拾い、二組の背中を追いかけるのがやっとだった。


 「気にすんな」


 ゴールにたどり着いた時、牧野が声をかけてくれた。おかげであたしは誰からも責められなかったし、体育祭が終わってもクラスの中で居場所を見つけられた。

 牧野が好きだ。牧野のいない世界なんて考えられない。世界で一番、牧野を好きなのはあたしだ。それなのに、牧野はふみとつきあってしまった。


 どうしたら気づいてもらえるんだろう。


 あたしはふみとはちがう。倉持がだめだったら、牧野。簡単に心変わりするなんてひどい。はっきりいって不誠実だと思う。じゃあ、どうしたらいい? 真実の愛を証明するために、あたしはどうしたらいい?


 そもそもこんなことになったのは、ふみが倉持という彼氏がいながら牧野に相談なんかしたからだ。軽々しく恋人以外の男子としゃべって、ふみは浮気した。


 それならあたしは男子と口をきかない。牧野以外の男子とは一切しゃべらないことにする。牧野への愛と忠誠を誓うため、あたしは自分にルールを課すのだ。そうすれば、いつかきっと本物の愛は伝わると思ったし、あたしの思いが牧野に通じると信じていた。


 男の人と口をきかない。それは、案外簡単なことだった。教室でよばれても聞こえないふりをして無視すれば、男子はすぐにあきらめてほかの子に話しかけたし、授業でペアになったときも無言のまま粛々と作業をすればそれで済んだ。そもそも男子があたしに用があることなんてめったになかったし、何不自由なく過ごせた。唯一しゃべってもいいことにした牧野からも話しかけられることもなくて、それはすごく残念だったけれど、教室にいる牧野を見つめていられれば幸せだった。


 問題は、いくつかの例外をつくらなければいけないことだった。ひとつめは教師で、主要五教科の三人は男だった。とくに数学の片岡には注意が必要だった。去年、大学を卒業したばかりのこの教師に、何人かの生徒が恋をしているとふみから聞いていたからだった。


 教師から指名された場合、答えるのは可とする。

 ただし、自分から質問はしてはいけない。


 あたしは、ルールブックにそう書いた。※をつけ、「勉強でわからないことがあった場合は職員室に行ったりしないでユーチューブで調べる」と補足を記入した。


 もうひとりは父親だった。あたしはこの大人を無視することに決めた。不自由はなにひとつなかった。たいていのことは母親に言えばすむことだった。


 「さいきん、ゆのはつれないなあ」

 父親が言い、

 「反抗期なのよ」

 母親が返しているのが滑稽だった。能天気な二人は、あたしの覚悟なんてとうてい理解できないだろう。


 ふみがデートの約束をしたと言った。どんな服を着ていけばいいかわからないというので、ふみの部屋に行ってコーディネートしてあげることにした。

 待ち合わせた昇降口で、ふみが傘を持っていないというので、あたしは「一緒に入ろう」と持ってきたおりたたみ傘を広げた。肩をならべてひとつ傘の下に入る。ふみの身体からふんわりいい匂いがした。ふみは、鞄にさげた新品のマスコットが濡れるのを気にしている。色違いのマスコットを、牧野もスポーツバッグにつけているのをあたしは知っている。


 ふみの家の玄関を入ると、紫陽花が咲いていた。こんもりとこぼれそうなほど、たくさん咲いている。色とりどりの紫陽花は、雨のせいで、一層鮮やかだ。


 子供の頃、ふみの家の紫陽花がうらやましかった。きれいだったし、雨に打たれても凛としているところが好きだった。

 うちにも紫陽花がほしいと母親にねだると、「縁起でもない」と一蹴された。


 「女の子の家に紫陽花を植えるなんてもってのほかよ」

 「田村さんのおうち、ちょっと非常識なんじゃない」


 その理由を、あたしは今ならわかる。


 「去年はむらさき色だったんだけどね」


 青色の紫陽花を指さして、ふみが言った。

 紫陽花は色が変わる。同じ株でも土の状態によって色が変わるらしい。紫陽花の花言葉が「移り気」である由縁だ。


 ふみの部屋は幼稚園の頃からちっとも変っていない。壁もカーテンもぜんぶピンク色で、サンリオのキャラクターであふれかえっている。シャボン玉でも飛ばしたら映えるんじゃないかと思うくらいだ。とうぜん持っている服もフリルやレースをたっぷりほどこしたフリフリのものばかりで、シンプルを好みそうな牧野とはどう考えても釣り合いそうにない。


 「このあいだ、牧野にゆのと仲いいんだねって言われた」

 「それで?」

 「安森、いい子だよなって言ってた」


 胸がくすぐったくなった。いい子。そう、あたしはいい子だ。ふみなんかよりずっと。誠実で、心が澄んでいる。牧野がそう言ってくれたなら、もうじききっと牧野はふみじゃなく、あたしを好きになる。その時まであたしはきれいでいたいから、どんなことがあってもルールを守らなければならない。


 月曜日だった。ただでさえ憂鬱な週のはじまりに、どうしてこんなに荷物が重いのだろう。上履きに体操着。おまけにあたしのクラスの時間割には月曜に美術があるから絵の具セットも持っていかなければならない。これだけでもう両手がふさがっているのに、朝からしとしと雨が降っているから傘をささなければいけない。

 よたよた歩きながら、替えの靴下をもってくればよかったと後悔した。学校まであと三十分以上歩かなければいけないのに、革靴にもう雨が滲みていた。


 前にいた黒っぽい人影がいきなり目の前から消えたのでびっくりした。目をぱちぱちしてもう一度よく見ると、消えたのではなかった。倒れたのだ。具合でも悪いのだろうか。あたしは駆け寄って、しゃがみ、その人の顔をのぞきこんだ。


 男の人だ。


 しかも、おじさんだ。父親と同じくらいか、もっと年上かもしれない。苦しそうにうめき、胸をつかんでいる。助けをよばなくちゃ。あたしはまわりを見た。いつもは学校へむかう生徒が誰かしら歩いている道なのに、今日にかぎって誰もいない。


 「だいじょうぶですか」

 そう言ってから、あたしにはルールがあったことを思い出してはっとした。


 男の人と口をきかない。


 倒れているおじさんを目の前にして、あたしは新たに例外を作らなければいけなかった。その時、いきなり左腕をつかまれた。うっかり傘を落としてしまい、拾おうとすると、すぐにもう一方の腕もつかまれてしまった。痛いはずなのに、上履き袋と絵具箱をずっと提げていた腕はしびれて感覚がない。


 そのまま腰に手をまわされて、おじさんがあたしに身体をあずけてくる。何が起きているのかわからなかった。おじさんの手があたしのスカートの上をいったりきたりしている。


 お尻をさわっているんだ。


 気づいたあたしはおじさんを思い切り突き飛ばしていた。おじさんは具合が悪くなんかなかった。ただの変態だ。


 「なんだよ」


 おじさんが吐き捨てるように叫んだのが聞こえた。ただ前を見て、あたしは走った。一刻も早くおじさんの視界から消えてしまいたかった。


 牧野。牧野。心の中で何度も牧野の名前を呼んだ。牧野のためにずっときれいでいたかったのに、どうしてあんな奴に関わってしまったのだろう。ルールをやぶってしまったことを後悔した。例外なんてありえないのに。涙があふれてくる。


 あたしは走った。色とりどりの傘を並べ、にぎやかにひしめきあい登校する生徒たちの間をすり抜けていく。大丈夫。雨が降っているもの。涙は誰にも見られやしない。誰もあたしに気づいたりしないし、あたしなんかどうなったっていいんだ。


 こんな朝にかぎって校門の手前で牧野に会ってしまった。おきてをやぶったあたしには、牧野にあわせる顔がない。


 「濡れてんじゃん。傘ないのかよ」


 そう言われて、無視して通り過ぎようとしたのが気に入らなかったのか、

 

 「なんだよ。安森のばーか」


 牧野が冗談めかして口をとがらせた。ああ、あたしは牧野のこういうところも好きだったんだと思うと胸が苦しくなった。

 牧野、ごめんね。もう牧野とはしゃべれないよ。あたしはもうきれいなあたしじゃなくなってしまったから。


 中庭に紫陽花が咲いていた。紫陽花の陰にそっと身を寄せ、雨に濡れた校舎を見上げた。おしゃべりな生徒たちを丸ごと呑み込んだ四角い建物。あたしだけそこから吐き出された。ひび割れたように聞こえるチャイムはきっと雨のせいだ。

 


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