貝殻を・古い洋館で・懐かしい香りがしたときに・持ち上げることができなくて驚きました。
「悧位くん、一緒にかえろ」
鬼からの申し入れに、祓い師の少年は目を細めた。だが嫌がっても仕方がない。その鋭い目つきを、また悧位が緒丹をいじめてる!とはやし立てる同級生の声が上がったので、少年は先に昇降口へと急いだ。あとを鬼が巨体を揺らしてちょこちょことついて行く。
「じゃあね緒丹~」
「また明日」
「うん、じゃあね」
鬼の方が祓い師よりもこの学級では人気がある。この世の大半の人間は、祓い師の責務などを知らないから致し方ないが、悧位はつっけんどんな性格のせいで嫌われている。
この世界では学生時代からの「いじめ」を撲滅すべく、こんな片田舎にも国から派遣された特別な教師が熱弁をふるい、身体的差異による「いじめ」は根絶しつつあった。多様性を大切に、生きている命を大切に。だから一際体の大きい鬼、おとぎ話に出てくるあの鬼が、人間社会に馴染もうと共存する政府の極秘プロジェクトが同級生であったとて、彼を「いじめ」る人間はいない。鬼は普通の人間に擬態していて、ただ体の大きな鬼は頼りにされていた。だが悧位は、どちらかというと集団に馴染もうとしていない。学校という集団生活の中で、精神的に別の方を向いているので嫌われている。だが「いじめ」は良くないからと、話しかけたり集団の中になんとか溶け込ませようと同級生も試みてはいた。それでも、悧位のつっけんどんな態度は軟化せず、結局友人と呼べるのは鬼だけだった。
鬼と人間が共存するために、幼い子供の鬼は、人間の祓い師とペアで大学まで進学することになっている。悧位はそのために鬼とペアになった子供だ。素直に友人を作りたいという当然の欲求を、悧位は払いのけてまで真面目に鬼を見張っていた。その気の張り方では友人という存在に集中力を割けないので、この孤立は致し方ないと思っている。
「オンモさまのごはん、何かなあ」
緒丹という人間の名を付けられた鬼が、腹の虫を鳴らしてのんきに呟く。
「先にニンモさまのところに挨拶に行けよ」
「うんうん、分かってるよ」
そう答えながら、鬼はごはんの事で頭が一杯であるのが見て取れた。彼らはペアで進学するだけでなく、鬼が指定した祓い師家族と共同生活を送っている。たどり着いたのは古ぼけているが、二世帯が暮らすには十分な洋館だった。庭先には庭師が、バラと柊の木の手入れをしている。
「ぼっちゃんがた、お帰りなさい」
日に焼けた若い庭師が快活に声を掛けてきた。悧位は頭を下げ、緒丹はにこにこして
手を振る。使用人としてはまだ日の浅い庭師だ。まだ鬼と祓い師の家だとは知るまい。
洋館の一階と二階で彼らの世帯は分かれている。正面に入ると玄関ホールには二階につながる階段が鎮座し、左右に部屋が流れていく。玄関ホールには、悧位の母の趣味だろうか生け花があった。鬼はその生け花を眺める。今朝には無かったものだ。
「良い香り」
「白百合だな」
「あら、お帰りなさい二人とも」
玄関ホールに、掃除中だったのかたすきでたくしあげた和服の、黒髪を結わえた古風な大和撫子といった30過ぎの女性が出迎えてきた。彼女に対し、オンモ、と二人は言った。
「ただいま、おか、オンモさま」
「オンモさま、ただいま!」
「はいお帰りなさい。さあ手を洗って、今日の宿題を済ましてきてね。その間におやつを持って行くわ」
「はあい」
鬼はにこにこして二階に上がっていく。あとでね悧位くん!と嬉しそうだ。鬼を見送った悧位は、オンモに向き直ると小声でおかあさん、と呟く。彼女は悧位の母親なのだ。オンモは、陰陽師の母という意味であった。なのでこの館では人間の母に当たる。
「またそうやって甘えて・・・オンモに統一しないといけませんよ」
「そうだけど」
悧位はいつもよりも顔をくしゃくしゃにした。子供として甘えられるのは、今のところ肉親だけだった。オンモは仕方ないと息を吐くと、よしよしと頭を撫でて彼を抱きしめる。まだ華奢な悧位は、小学生よりも背はあるものの細い体で、風に吹かれれば飛んでしまいそうだ。だからこそ体格の良い鬼とは対照的で、彼が果たして祓い師として責務を果たせるのかと、母としては不安になることもある。父は立派な祓い師だというけれど。
「お父様もいらっしゃるわ。またお話ししてきなさい」
「うん・・・」
悧位はまだ子供である。そして鬼も、おやつが欲しくて着替えると真っ先に玄関ホールに戻ってきた。
「悧位くん!宿題しよう!」
「わかった、わかった。まず手洗いうがい、それからニンモさまに挨拶だ」
「うん!」
その時は、いつもの悧位に戻っていた。
手洗いうがいを済ませ、ニンモに挨拶に向かう。ニンモは鬼の母を差すのだ。思春期である緒丹よりも強力な成人した鬼である。彼女は和室を好み、二階の一室は畳張りになっていて常にお香を焚いていた。シナモンの香りがする。前はみかんだった。
「ニンモさま、ただいま!」
「おう、おかえり。悧位くんも」
「ただいま帰りました」
鬼母は通常の人間の目には、成人女性ほどの大きさに見える。だがその実は、九畳にやっと体を横たえるほどの巨大な鬼だ。彼女は香を焚きしめるためか、巨大な扇子を持ってゆらゆら、ゆらゆらと部屋の隅にまで風を送っていた。
「学校はどう? 楽しんでいるかね」
「うん、楽しいよ!」
「ええ。お気遣いありがとうございます」
「悧位は嘘がつけないね」
ニンモは笑う。だがそれ以上に悧位の状況に踏み入ろうとはしなかった。
「オットウとニトが帰ってきてるよ。みやげは蜃らしい」
「蛤ですか」
「その通り、悧位は賢いね。ちゃんと見習いなさい」
うう、と鬼は肩をすくめる。母親にしかられてする反応は、人間も鬼も同じだ。
「いつもの書斎にいるはずだから、また後で顔を出しといで」
「ありがとうございます」
「うん、お父様に会ってくる!」
「ニトといいなさい、全くおまえは暢気なんだから・・・」
僕はまだ、鬼の前ではお母さんと呼ばないのに。悧位はこういう時に鬼が羨ましくなる。
「オットウ、ニト。ただいま帰りました」
「そしておかえりなさ~い」
オットウは人間の父、悧位の父である。ニトは鬼の父だ。オットウはいささか体格が骨太でたくましいが、ニトは少年のような体型で、あぐらをかいたまま宙に浮いている。
「おおただいま。今ちょうど蜃の話をしていたところよ」
「最近多発している蜃気楼の原因だな。これが蜃だ」
書斎は彼ら父親の共同スペースであるらしく、テーブルに置かれた蛤をひとつ見つけて、悧位は首を傾げた。
「これが蜃気楼の出所ですか? 小さい貝に見えますが」
オットウとニトは目を見合わせてにやにやしている。悧位がその貝殻に手を伸ばすと、鬼が慌てたように手を添えてきた。
「重いよ、悧位くん!」
「なんで。どうみたって、お吸い物に入ってる蛤サイズじゃないか・・・」
聞かずに悧位は、蛤を手に取ろうとする。とたん、手首が折れそうになるほどの重量が伝わって、思わず放り出したのを鬼が貝殻を掴んだ。
「危ない!」
「大丈夫だ、もう貝殻は開かんよ」
「大丈夫? 悧位くん」
「・・・なんとか」
オットウとニトの笑いの意味を知り、息子は恨めしげに父を見た。
「そんな顔をしないでくれ。悧位にもいずれ、こういう仕事を継いでもらうんだから、力を付けないとな」
「かっかっか。その通り」
ニトが豪快に笑う。彼が手にする煙管からは、香木のようなやわらかく甘い香りがしていた。どうやらこの鬼の夫婦は、香が好きらしい。
「大丈夫だよ悧位くん。力仕事は僕が助けるからさ」
「うるさい・・・」
悧位は鬼を睨み、さっさと書斎から出て行ってしまった。やりすぎたかと反省する父親達を後に、鬼も急いで追いかける。こんな日常が、日々過ぎゆくのだった。