3.傷だらけの天使
夜の帰り道、東京の東部に位置した第22地区は閑静な住宅街であり、平日の夜は誰もが寝静まり静寂と頬を撫でる夜風が奏多の心を落ち着かせる。
「なにがしたいんだろうな。ああいう人たちは……」
誰に話すでもなく、独り言を口ずさむ。
ウ~……ウ~……
暗い夜道に低く鳴り響く、音。それは紛れもなく野良猫が発情か縄張り争いかで互いを威嚇している唸り声だった。すぐそばで鳴いているようで何の気なしに、音がする方の路地へと向かうと確かに、三毛猫が唸っている様子が見て取れた。
日常ではありふれた景色。そのワンシーン。しかしながら奏多はすでにいくつか不自然な点に気が付いていた。
猫は唸っているが、そこには一匹しかいない。そしてその三毛猫は何もない方向を向いて、怯えている様子だった。猫の眼差しの先に目をやるとそこには黒い靄のような鈍く光るでもない何かが猫に相対しているような存在を奏多は感じ取れた。
『悪霊……かな。いや、そんなレベルの高いヤツじゃない。異形にも、悪霊にも成れないくらいの……味噌っかす、禍とか人の念がちょっと意識を持った存在……』
奏多は至極、落ち着いていた。
彼は拳をグッと右手を握りしめると肌が徐々に紅潮し始めた。それは鉄が高温に熱せられたように明るく発色し始める。
そして奏多は歩きながら片手の指をこする。
ボッ。
彼の指からは小さな火が現れた。
手品でも化学反応でもない。それは奏多が一番よく知っていた。彼の持っている特殊な能力でまさしくタネも仕掛けもないところから炎が出せることだった。
その手を『何か』に近づけていくと黒い影は一瞬にして、霧散した。
唸り硬直していた三毛猫はその様子に驚き、明後日の方向に飛んで行ってしまった。
義勇的なような感情は持ち合わせていなかったが彼がその能力は瘴気に対して有効であると気が付くといつの間にかクセで『悪そうな存在』を追い払うような行動をしていた。
ゲームや漫画のキャラクターであれば、ひと暴れして、視聴者や読者の一興になるのだろうが奏多はそのパイロキネシスのような能力以外はいたって平凡であり、その功績を賛美してくれるヒロインや友人はいないのである。
「だからと言って何ができるわけでないんだけどな」
彼はこの能力を誰かに見せることはしなかった。幼い時分から聡い奏多は誰かに見せれば、好奇な目や不気味がられることを早々に感じ取っていたためだ。
宴会の余興にもならない、彼のその一芸は幼少のある時から使えることができた。
その火をじっと見ていると徐々に指先が黒ずみ、ピリピリとした痛みを伴う。指先は徐々に黒ずみ、皮膚がいわゆる炭化のような状態になる。
「だれが何のためにこんな能力を与えたんだろうな……」
ヒリヒリとした痛みが苦痛になってきたところで、彼はその炎を払った。
早めに大学のノミサーを切り上げた奏多は、翌日は休みの日だったため、少しカンファバーへと顔を出すこととした。気を紛らわしたくなったのだろう。夜のカンファバーは居酒屋のようなバーへと店の様相を変え、やや大人な雰囲気を醸し出す。
カランコロン。
カンファバーの扉の開く音が鳴る。
「いらっしゃ……どうしたの?」
大学の集まりに行ったかと思えば、そうそうに退散した様子を即座に感じ取り、絵麻はため息交じりに応対した。
「いや……抜けてきちゃって……」
「はぁ……そこに座んな……」
絵麻が呆れたようにカウンター席へと手を伸ばし、座らせようと催促した。
「やっぱり合わなくって……」
片耳で彼の言葉を聞きながら、絵麻はドリンクを手際よく、彼のカウンター席へと運んだ。
「まぁ、最初はうまくいかないこともあるものだよ」
そんなことを言いながら絵麻は諦観と憐憫が入り混じった感情を遠慮せずに顔に出した。
「今はなんとなくで生きていたいって言うか……ここで働かせてもらえれば、いいかなっていうのが今の……感情っていうか……」
「そういう時期なのかもね」
絵麻はそれ以上、問い詰めることはせず、静かな夜のバーでのひと時を過ごした。
「そろそろ閉店だけどどうする?」
「今日のところ退散します……突然来てすみませんでした」
そう言うと奏多はお勘定を済ませようと、ポケットにしまい込んだ薄い合皮の財布に取りだすと「今日は私のおごり」と絵麻が制したため、軽く会釈し財布をしまい込んだ。
帰り際に絵麻は彼に声をかけた。
「行き詰った時はいつでもここへ来ていいから、あんなこと言ったけどまだまだ時間はあるから」
先日の絵麻の言葉から真逆な優しさを含んだ言葉がどこか心に残りながら、奏多は退店した。
翌日の講義も同じように、淡々とした講義を受けて、帰路に就く。
夕方、帰り道では奏多は妙に清々しい気分に包まれていた。
『将来なんてこれから、模索していけばいいよな』
そんなことを考えながら彼は自身のアパートへと歩みを進めていた。
住宅地を歩いていると見慣れない、少女が道端にしゃがんでいた。中肉中背、というよりもやや細身でありながら、どこか透明感のあるその女性に近づくと彼女の状態のおかしさに徐々に違和感を覚える。
身体のところどころに創傷が見受けられる。小さな切り傷から、転んだのか治りきっていないかさぶたから、血がにじんでいる様子が窺えた。
年齢は20代前後半と言った風貌で、明らかに何かありましたと言わんばかりの有様だ。
そのまま通りすぎたかった奏多だがさすがに、良心がそうはさせなかった。
「ど、どうかされましたか?」
奏多は勇気を振り絞ってかけた一言に、満身創痍の彼女が反応した。
「すみません……こうなるつもりではなかったのですが……あなたは……御浜奏多さん……間違いないですね?」
清楚、という言葉がいの一番に脳裏に浮かび上がった奏多。体つきは華奢でありながら、どこか神々しさを纏っているような、形容しがたい、人間離れした彼女を奏多の双眸が彼女から離せないでいた。
「どちら様ですか?」
「信じてもらえないかもしれませんが、異界の者で……あなたの守護天使です」
令和になりしばらく経った今日では、その言葉は若い男をひっかける客引きか新興宗教の誘い文句のようにしか聞こえないでいた奏多。
「あー、申し訳ないけどそういうのは他を当たってくれますか。自分は学生で、今を生きるのが精いっぱいで、大したお金も持っていなくて……」
言ってしまえば、至極めんどくさそうな女性に絡まれた格好となっていたと考えた奏多はそそくさとその場を離れたかった。
「あなたがいろいろな人物に狙われています」
「いや、だから……」
奏多は眉間にしわを作り、困った様子を表情に出した。
「もうすぐ、大天使様方がここへ参ります。早く逃げないと……」
傷だらけの彼女が絞り出すように出したその言葉には、少なからずとも奏多を騙そうとする気配は感じ取れなかった。