最終話 だいだらぼっちと盲目の娘
七日七晩降り続いた雨は、朝方になったようやく止んだ。
まるで前日の嵐が嘘だったかのように、暖かな日差しが清涼な風を射貫いて、燦燦と降ってくる。
滝の沢村はひどい有様だった。
土石流のせいで大半の家は瓦礫と化し。
流木が至る所で折り重なり。
誰も彼もが泥だらけ、傷だらけ。
しかし奇跡的にも死者は一人もいない。
だいだらぼっちが一晩中、崩れかけた山の斜面を支えていたからだ。
「那岐毘古様……」
そして今、あやは元の姿に戻った那岐毘古を膝枕し、その美しい顔を見つめていた。
豪奢な着物は真っ赤な血で濡れ、那岐毘古は目を閉じたままピクリとも動かない。その脇には久流流もいて、しゃくりをつきながら満身創痍の主人に必死に話しかけていた。
「嘘……嘘だろ、主ぃ……、ヒック、目を覚ましてくれよぉ……」
「………」
村人達もまた、朝になって突然消えただいだらぼっちと、それと入れ替わりで現れた美しい青年に戸惑っていた。
誰も彼もがあやと、すでに虫の息状態の那岐毘古を遠巻きに見、どうしたものかと二の足を踏んでいる。
すると突然もう一つの太陽が現れたんじゃないかと思うほど、眩しい光を放つ人物が現れた。
最後まで災厄を祓う呪文を唱えていた老巫女が、へなへなと腰を抜かしながら地に伏せる。
「おお、まさか……。全てを失った我らに慈悲を与えんと、女神が舞い降りたか……」
滝の沢村上空に現れた美女――
それは誰あろう花玉櫛姫命だった。
ただならぬ気配に大きなどよめきが起こり、村人は一斉に平伏する。
そして虹色の羽衣を纏った花玉櫛姫命は下々の者を睥睨しながら、那岐毘古を抱くあやへと近づいた。
『おや、とうとう死んだかえ?』
「……」
あやは花玉櫛姫命を見上げ、桜色の唇を震わせる。
かけがえの無いものを失ってしまったのではないかという不安が、目の前の風景を灰色に滲ませた。
そんなあやが今できることと言えば、ただ一つ。
「お願いです、どうか……」
『……』
「どうか那岐毘古様を助けて下さいませんか?」
『なぜわらわが?』
花玉櫛姫命は、あやの申し出を鼻で笑った。
当然だろう。
花玉櫛姫命にとって那岐毘古は、憎んでも憎み足りない女の息子。
自らが呪いをかけた相手なのだ。
その宿敵ともいえる那岐毘古を、助けてやる道理がどこにある。
もちろんそれは、あやだって充分承知していた。
けれど。
「もしもし何か代償が必要なら、私は何でもあなたに差し出します」
『………』
「この髪でも、手でも、足でも、血でも。それこそ命が必要だと言うのなら、今すぐ捧げてご覧にいれます。ですからどうか……どうか那岐毘古様を……!」
『……………』
ぽろぽろ、ぽろぽろと。
真珠のごとき涙を溢れさせながら、愛する男の存命を願う娘は――咲き初めし花のように美しかった。
それを忌々しい、と花玉櫛姫命は思う。
自分と並び立つほど美しい人間の娘など、百害あって一利なしだ。
『そうだねぇ…。ではわらわの呪いを自力で解いたそなたに、もう一つ嫌がらせをしようじゃないか』
「………」
けれど花玉櫛姫命は、特別にあやの願いを叶えてやることにした。
なぜなら花玉櫛姫命は愛を司る女神だから。
慈悲深さと残酷さという二面性を併せ持つ彼女は、いつだって愛し合う恋人達にとって最大の支援者であるべき立場なのだ。
『あやよ、そなたの愛する男を助ける代わりに、そなたはまた光なき世界に舞い戻るだろう。この澄み渡った青空も、緑生い茂る遙かなる麗明山も、可憐に咲き誇る野の花も、もう二度とその目に映すことはない』
「あ……」
花玉櫛姫命があやの目元に手をかざした瞬間、あやの視界があっという間に狭まり、白い膜のようなもので霞がかっていった。
久しぶりの感覚に、あやはホッと胸を撫で下ろす。
これでいい。
視力よりももっと大事なものを、自分はこれから手に入れるのだから。
あやは自分の膝の上で眠る那岐毘古の頬を、そっと慈しむように撫でた。
『滝の沢村の村民達も聞くがいい!』
さらに花玉櫛姫命は、二人の恋を後押しするために、力強い声である託宣を告げる。
『この盲目の娘・あやをだいだらぼっちの花嫁として捧げよ。さすればこの村は二度と災厄に襲われることもなく、未来永劫栄えるであろう!』
「おおっ!」
「まことか、それは!」
花玉櫛姫命のお告げに村人達は沸き立ち、絶望の中で一抹の希望を見出す。
こうして滝の沢村最大の危機は去り。
いつの間にか村で暮らしていたはずの一人の娘の姿も、人知れず掻き消えたのだった。
◇◆◇
嵐が過ぎ去り――三日後。
那岐毘古は麗明御殿・北殿の庇に出て、一人不貞寝していた。
いたずらに吹いていた風はいつの間にか止まっている。庭の池には風で散った葉が小さな波紋を描きながら漂っていた。
邸内は一昨日からバタバタしている。
あやが戻ってきたため、再び屋敷の大掃除が始まっているのだ。
「主、一人で怠けてないで、少しはあやを手伝いなよ。ああ、ほらまた部屋中を酒壺だらけにして」
「ほっとけ。俺の勝手だ」
久流流や他の妖達に注意されるものの、那岐毘古の機嫌は直らない。
そこにたすき掛けをしたあやがやってきた。
「那岐毘古様、うるさくしてすいません。もうすぐお昼にしますから」
「……」
あやは以前のように笑顔で振るまうが、那岐毘古は寝転がったまま視線をふいっと逸らしてしまう。
「面白くない……」
「え?」
「あの女に助けられたのが面白くないと言ってるんだ!!」
那岐毘古はガバッと起き上がると、悔しそうに拳で床を叩きつけた。
少し驚いたが、子供染みたその仕草に、あやは思わず笑ってしまう。
「あの女って花玉櫛姫命様のことですか?」
「様なんてつけなくていい!」
「でもあの方は私にとっては恩人です。結局なんだかんだ言って、那岐毘古様を救って下さったもの……」
あやは胸の前で手を当て、花玉櫛姫命に感謝の念を送る。
神の権能とは、あやが想像する以上にすごかった。あれほど傷だらけで死にそうだった那岐毘古を、ここまで元気にしてくれたのだから。
けれど治療された本人はそれが大層不満のようで。
いや、それ以上にやるせないのが、
「……でも、そのせいで」
那岐毘古は今までの勢いはどこへやら、やや力なく項垂れて呟く。
「そのせいでお前はまた、光を失った」
「那岐毘古様」
あやは少し端近に近寄り、手探りで那岐毘古を探した。
那岐毘古も慌ててその手を取り、強く握りしめてやる。
「むしろ私はまた目が見えなくなってよかったと思います。だってこの世界には、目に見えなくても素晴らしいものがたくさんある。それを教えて下さったのは那岐毘古様、あなたですもの」
「あや……」
「そう言えばお礼を言うのを忘れていました。那岐毘古様、嵐の中、わざわざ私を助けに来て下さってありがとうございました」
「……た、ただの気まぐれだっ」
那岐毘古は頬に朱を散らせつつ、いつものように天邪鬼を装う。
でもそれが彼流の照れ隠しであることを、あやはもうとっくに知っている。
「……というかあの二人、以前からまるで進歩がないように見えるんじゃが……」
「なぜそこで抱きしめてやらぬのか、主。あまりに度胸がなさすぎるっ!!」
「まぁ、そこはほれ、これからのお楽しみということで……」
「そうそう、あやさんはだいだらぼっちの花嫁に選ばれたんだ。きっとここで幸せになるさね」
気づけば、久流流をはじめとするたくさんの妖が遠巻きに二人のことを噂していた。耳ざとい那岐毘古は、脇に置いていた大太刀を手にして立ち上がる。
「誰だ、この太刀の獲物になりたい奴は……」
「ほらほら、主がおかんむりだ。みんな逃げろ!」
「やれやれ、これじゃあ先が思いやられる……」
「あやさん、私達は先に東殿で待ってますねー!」
ついこの間までの静寂が嘘のように、麗明御殿に賑やかさが戻ってきた。
そして庇に一人取り残されたあやは、真っ赤になった顔を両手で押さえる。
(そっか、だいだらぼっちのお嫁さん……。私、那岐毘古様の妻になるんだ……)
妖達はさらりと言っていたが、あやにはまだその実感はない。
那岐毘古自身の気持ちを直接聞いたわけではないし、この結婚自体、花玉櫛姫命の命令みたいなものだ。
けれどあやの中に、不安はなかった。
むしろ今までにないほど満ち足りている。
生贄として山に捨てられた夜、あやは一度死んだ。
けれどもう一度生を与えられ、那岐毘古や妖のみんなと出会った。
那岐毘古は依然夜になればだいだらぼっちに変化するし、あやの命がみんなと比べて極端に短いことに変わりはない。
けれど、そうした問題も全て、二人ならば乗り越えられるような気がするのだ。
あやはもう二度と間違わない。
例え目が見えなくても、これから一生那岐毘古を信じ、彼だけを想い続けて生きていく。
「あやー、早くおいでよー、主もお腹ぺこぺこみたいだよー」
「はーい」
遠くから久流流に呼ばれて、あやは笑顔で立ち上がった。
優しい風が頬を撫で、パタパタというあやの可愛らしい足音が屋敷の奥へと消えていく。
そんなほのぼのとした風景を、すっかり青葉に模様替えした桜の大木だけが優しく見守っていた。
そしてその後、漆黒の巨人と恐れられただいだらぼっちとその花嫁が、どんな風に幸せな日々を送ったのかと言うと――
それはまた、別のお話で。
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