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8話 愛する者のために





 森から流れいづる霧は平地を覆い、嵩を増しながら次第に伸びて、やがて山を駆け上る雲となった。

 麗明御殿を去り、再び滝の沢村で暮らすようになったあやは、手先の器用さ活かし、針仕事で何とか生計を立てている。

 以前に比べれば、村人達は皆あやに優しく――と言っても、その多くは下心丸出しなのだが――引き籠りでも一日一食くらいは何とかなる。


 問題はと言えばあやを見る男達の欲情的な視線で、こればかりはあやにもどうしようもない。

 実際あやに夜這いをかけ、力ずくでものにしようとする不埒な輩が後を絶たなかったが、そういう者はなぜか小屋に近づいた時点で正体不明の突風に吹かれたり、雷が落ちたりしたりで、悪巧みはことごとく失敗している。


 実はあやの見えない所で、久流流や小天狗が交代であやのことを守っているからだ。あやが怖がるためわざわざ姿は見せないが、彼女が男達の毒牙にかからぬよう、自ら警護を買って出ていた。


「はぁ………」


 そんなこととはつゆ知らず、あやはここのところ降り続ける長雨に、うんざりしていた。

 雨のおかげで人に会わなくて済むのは助かるが、こうも雨ばかりが続くと気が滅入る。そうでなくてもあやの目には村人達の姿も妖同様、とても醜悪なものに見えてしまう。彼らの悪意や欲望といったものが、黒い霧のような形で見えてしまうのだ。


 つまり今のあやにとって、故郷である滝の沢村も安住の地ではない。

 いや、そもそも安住の地などないのかもしれない。

 自ら麗明御殿を去ってしまったあの時から、あやの居場所など地上のどこにもなくなってしまったのだから。







 しとしと、しとしと。


 いまだ雨は降り続いている。

 遠く西の空までも鼠色の低い雲にどんよりと覆われているから、しばらくこの雨が止むことはないだろう。

 あやと村人の予想は的中し、七日七晩降り続ける雨は、やがて危険水域に達していく。

 険しい山に囲まれ短く急流な河川が集まった土地は、特に雨水をため込めやすい。そして浸み込んだ雨水はやがて地盤のすき間を満たし、土砂崩れや地滑りの原因となるのだ。

 

 ごうごう、ごうごう。


 雨音の質が変わったのは、ある日の夕暮れのこと。

 雨漏りが頻発し、どんぶりが足らなくなった……とあやが困っていた時。外では騒ぎが起きていた。


「まずいぞ、隣村では大きな土砂崩れが起きて、たくさんの家が流されたそうだ!」

「隣村だけじゃない、山一つまたいだ上尾村じゃ山の峰が崩れて大変なことになってるって話だ!」

「ここもあぶねぇ。これほどの嵐は50年生きてきたオラでも経験がねぇ。もしも麗明山が崩れるようなことがあったら、みんなおっ死ぬぞ!」


 今、滝の沢村に危機が迫っていた。

 村の周りの森の大木が、強風のせいでなぎ倒されている。

 近くの川はすでに濁流と化しており、今にも決壊しそうだ。

 どこかに逃げようにも、森と山に囲まれた滝の沢村には逃げ場らしい逃げ場はない。

 河川の氾濫を避けようと高台に昇れば土砂崩れに巻き込まれる可能性が高くなり、その逆もまた然り。

 そしてとうとう降り続けた雨によって緩んだ地盤が、限界を超える時が来た。



 ――ズ……ズズズ………



 長い間目が見えなかったあやは、常人よりも聴覚が優れている。

 不気味な音を察知してすぐ家から飛び出し、村人に注意を促した。


「みんな、北の斜面から離れて下さい! 急がないと……来る!」

「あや?」


 次の瞬間、滝の沢村の北の竹林がバキバキと音を立てて崩れ始める。

 雨水をたっぷり含んだ土砂が雪崩のように滑り落ち、小規模の土石流となってた滝ノ沢村を襲ったのだ。


「ぎゃあぁぁぁーーーーっ!」

「みんな逃げろっ! 逃げろぉぉーーーっ!!」

「うわぁぁぁー、おっかあ! おっかあぁぁーーー!」

「佐吉!」


 あやは走った。

 赤子を連れた母親が転んだ幼子を助けられずにいるのを見て、迷いなく走った。

 一人では立ち上がれずにいるその子を急いで掬いあげ、村の寺へと続く階段を駆け上る。

 けれどすぐ背後には、多くの家を一瞬で瓦礫と化した土石流が迫っていた。

 周囲の雨が荒れ狂い、猛烈な風がこの場を席巻する。



(那岐毘古様――!)



 そして死が直前に迫った瞬間、あやが心の中で叫んだのは――


 やはり想い人の名前だった。














「主、主、大変だぁ! あやと滝の沢村が……!」

「!」


 ちょうどその頃、あやの身辺警護をしていた久流流が、あやの危険を那岐毘古に知らせたところだった。

 もうすぐ夜がくる。

 那岐毘古をだいだらぼっちに変える、夜という暗黒の刻が。


 ――にも関わらず、那岐毘古は躊躇なく屋敷を飛び出す。

 その視線の先には、盲目の心優しい少女の笑顔だけがあった。




















 夜が、来た。

 滝の沢村の周辺には轟音と粉塵が巻き起こり、嵐によって生じた落雷が大気を震わせている。

 土石流に巻き込まれそうになったあやだったが、何とかギリギリのところでかわし、村人が身を寄せ合う寺へと逃げ込んだ。


「高天原に 神留ります 神魯岐 神魯美の命以ちて 皇御祖神 伊邪那伎大神……」


 あやを山神様の生贄に……と進言したあの老巫女が、再び災厄を祓うための呪文を唱えている。けれど今の状況で神頼みは全く役に立たない。先ほどの土石流で村の半分以上の家が流されたのだ。むしろ死者が出なかったのが不思議なくらい。


 しかもここに集まった者は皆、びしょ濡れな上に泥だらけだ。傷を負った者や骨折した者も多く、未だ荒れ狂う嵐に絶望する輩も少なくなかった。


「もうダメだ。この村は終わりだ……。あたしたちはみんなここで死ぬんだ……」

「お清、不吉なことをお言いでないよ!」

「しかし、ここもそう長くはもたんぞ……」


 村人たちが不安に駆られる中、松明を持ち山の偵察に行っていた男が戻ってきた。この男は亡くなった定吉と同じく長年猟師を生業(なりわい)としており、森や山について詳しかった。


「だめだ、東も西も南も、全ての山に大きな地割れが出来ている。さっきのなんて目じゃねぇ、もっと大きな土砂崩れが今夜中に起こるぞ!」

「そ、そんな!」

「じゃあやっぱりおら達は、ここで土砂に巻き込まれて生き埋めになるしかねぇのか!?」


 男の一言で、村人はパニックになった。

 こうして何の対策も取れないでいる間にも、寺の屋根の瓦は強風で飛び、激しい風雨が室内に吹き込んでいる。


 刹那、真っ黒な雲の上から一直線に雷が落ちた。

 轟音が大気を叩く。

 あやがそれを知覚した時には、青白い稲妻が縦横無尽にかけ回り、寺の軒先を木っ端微塵に破壊していた。


「ここももう駄目だ、逃げるぞ!」

「いやぁぁぁーー!」


 再び人々は豪雨の中を右往左往し、阿鼻叫喚の様相を呈した。

 あやはただ、それを呆然と見る。

 人の身とは何て儚く、小さいのだろう。

 自然の猛威の前では手も足も出せず、こうして大人しく死を待つしかないのか。



 ――ずしん、ずしん。



 けれど誰もが絶望したその時、嵐の中に大きな足音が響いた。

 人々は一体何事かと、一瞬動きを止める。

 すると真っ暗な闇の中、巨大な山がゆっくりと村に近づいてくるのが見えた。

 



 ――いや、山ではない。


 あれは巨人だ。


 (あやかし)の首領の、だいだらぼっち。




「うわぁぁぁーー、とうとうだいだらぼっちまで俺達を食いに来たぁ!」

「ああ、神様、仏様、どうかお助けを。どうかお助けをぉぉぉ……!」


 嵐に加え、突然だいだらぼっちが出現したことによって、人々の恐慌は最高潮に達した。

 そんな中、あやだけが辛そうに、くしゃりと顔を歪める。


「那岐毘古様、なぜ……」


 ずっとずっと、会いたかった。

 でももう二度と会いたくなかった。

 誰よりも、大切な人。


 しかしあやが立ち尽くす間にも、だいだらぼっちは今にも崩れそうな山の斜面へと向かっていく。村人とあやの前を素通りし、まるで山全体を抱くように大きく両手を広げたのだ。


「……! 来るぞ!」

「!?」



 猟師の声が響くと同時に、麗明山全体がまた、ずるり、と大きく崩落し始めた。辺り一帯は村人の悲鳴で包まれるが、それを上回ったのはだいだらぼっちの雄たけびだ。



『ウ、オォォォォーーーーーーッッ………!』



 まさに天地を揺るがすほどの咆哮。

 びりびりと広がる衝撃波は、だいだらぼっちが元々体に宿す神気が波紋となって広がったものだ。

 だいだらぼっちは今にも村を飲み込もうとする土砂を、体を張って止めた。

 万が一漏れ出た土砂が村人に向かおうとも、それを寸前で食い止められるように、村全体にも結界を張った。


「な、なんでだいだらぼっちが!?」

「何してるんだ、あいつは一体!?」


 だいだらぼっちの予測不能な行動に、あやだけでなく村人一同も驚愕した。

 今まで邪悪だと信じられてきただいだらぼっちが、今まさに土砂崩れを防がんと……。

 まさに滝の沢村を救おうとしているのだ。

 

 そんなことがあり得るのか。

 これは夢ではないのか。


 誰もが言葉を失う中、突然ポンと空中に現れたのは――猫又の久流流だった。


「あや、主が崩落を食い止めている間に、みんなと一緒に近くの家の中に避難して!」

「え……」

「主はだいだらぼっちの時はまともに話すことができない。だから伝言を頼まれたんだよ!」

「那岐毘古様が、そんなこと……」


 妖が必要以上に恐ろしく見えてしまうあやだったが、今はそんなことを言っている場合ではない。あやは雨が強く打ち付ける中、もう一度だいだらぼっちを見上げた。


「でも那岐毘古様は大丈夫なの? いくらだいだらぼっちの姿だとしても、一人で山全体を支えるなんて……」

「それは……」


 あやの率直な質問に、久流流は言葉を濁す。

 と、次の瞬間、崩落の第二波が一気に押し寄せた。


「那岐毘古様!」


 あやはほぼ反射的に、目の前のだいだらぼっちに向かって手を伸ばす。

 地を裂こうとする力と、それを防ごうとするだいだらぼっち、二つの力が真正面から衝突した。

 多くの樹々を飲み込み、さらに無数の岩を砕きながら、土砂の塊は漆黒の巨人に直撃する。その際に砕ききれなかったいくつもの巨岩や木の幹が、だいだらぼっちの全身に突き刺さり――貫通した。



「主ぃ!」

「那岐毘古様!」



 あやと久流流は同時に絶叫する。

 だいだらぼっちの体から吹き出す赤い血を見て、あやは思わず卒倒しそうになった。


 いくら半神半人とは言え、決して無敵なわけではない。

 血管を傷つければ血は流れるし、その皮膚を切り裂けば激しい痛みが走る。

 ましてや今だいだらぼっちが対抗しているのは、大自然そのものなのだ。

 たかが神と人間のあいの子如きが抗ったところで、敵う相手ではない。


 ごぷり。


 だいだらぼっちは鋭くとがった(あぎと)からも、真っ赤な血を溢れさせた。

 大きな影のような巨体が震え、鉤爪を備えた前肢が苦し気に宙を掻く。

 気づけばいつの間にか、だいだらぼっちの足元には血だまりの池が出来ており、真っ赤な液体があやの立つ位置にまで流れてきた。


「いやぁぁぁ! 久流流、お願い、那岐毘古様を止めて! 今すぐ止めて! あんなことを続けてたら、いくら那岐毘古様でも死んでしまうっ!」

「……っ!」


 あやはこれ以上ないほど狼狽し、久流流に強く訴えた。

 けれど久流流は久流流で泣きそうになりながらも、激しく(かぶり)を振る。


「だめだ! 何があっても絶対止めるなって、主に命令されてるんだ!」

「今はそんなこと言ってる場合じゃ……っ」

「それに主がここで山の崩落を食い止めなかったら、あやが死んじゃうじゃん! あやが死んじゃうのが嫌だから、主も自分の命を懸けてるんだ。お願い、わかってあげてよ……っ!」

「……っ!」


 久流流の言葉が、再びあやの世界を反転させた。

 大きく目が見開き、体中の血液が沸騰する。


「那岐毘古様、あなたは………あなたという人は………」


 依然として強く風雨が顔に吹きつけるが、あやの視界が曇るのは雨粒のせいなんかじゃない。

 涙で視界がぼやけるからだ。

 那岐毘古の気持ちが深く胸に刺さるからだ。


 那岐毘古を裏切り、村に逃げ帰ったあやのことなんて放っておけばいいのに。

 以前のように、おまえを助けたのはほんの気まぐれだと、突き放してくれればいいのに。


 それでも那岐毘古は自分を犠牲にしてまで村を……。

 いや、あやを守ろうとしてくれている。

 その行動に、覚悟に、心打たれぬはずがない。


「那岐毘古様ぁぁぁーーーーーっ!」

(あや………)


 那岐毘古もまた、あやの絶叫を聞いていた。

 けれど一歩も退くわけにはいかない。

 今ここで自分が退けば、麗明山の斜面は一気に崩れ、あやどころか村一つを難なく飲み込むだろう。


 だからこそ那岐毘古は、どれほど全身から血が噴き出そうとも強く歯を食いしばった。

 たとえ己の力全てを使い果たしたとしても。

 たとえ己の命が尽きようとも。


 守りたいものがある。

 譲れないものがある。


 その決意だけが、那岐毘古を強く突き動かしているのだ。



『ウ、オォォォォーーーーーッ!』



 だいだらぼっちが再び雄たけびを上げた瞬間、あやの視界が眩しく光った。

 それはまるで網膜に張り付いていた穢れがゆっくりと消えていくかのような――

 闇が祓われ、光が射し込む。

 そんな不思議な感覚。


「那岐毘古様!」


 そうしてあやの瞳に移るのは、もう醜いだいだらぼっちではなかった。

 強くて雄々しく、たくましい。

 それでいて皆を守ろうとする姿は、誰よりも美しい。


「那岐毘古様……」


 この時ようやくあやは、"真実を見透かす目"を取り戻したのだった。


 





 









『……、……おや』


 その頃ちょうど天上では。

 下界が洪水と土砂災害でひどい状態になっているというのに、八百万の神々は我関せずと酒宴を開いていた。

 その中でほろ酔い気分だった花玉櫛姫命は、ある気配を感じて酒を注ぐ手を止める。


『あらまぁ、なんてことだろう……』


 先ほどまで緩くほころんでいたはずの口元は、今は無機質な冷笑にすげ代わっている。

 改めて下界を見下ろせば、物憂い色をした雲が風に流されて千切れ飛んでいた。




『あの娘、自力でわらわの呪いを解いてしまったわ……』






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