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7話 引き裂かれた絆





「あ………あ………あぁぁぁーーー!」


 深夜の麗明御殿に、あやの悲鳴が響き渡る。

 木の幹の下でうずくまっていた久流流は、痛みを押して立ち上がる。


「あや……あや……大丈夫? おいらが必ず、あや…を……」


 何とか起き上がった久流流(くるる)は、よろよろとあやの足元に近づいた。けれどいつもは焦点が定まらぬあやの視線が、今ははっきりと久流流の姿をとらえている。


「いや……いや……こっちに来ないで! いやぁぁっ!!」

「あや!? 一体どうしたの!?」


 しかもあやは久流流を見るなり腰を抜かして、激しく泣き叫んだ。

 その姿は、妖に怯える普通の人間そのもので。

 久流流はあやに起きた異変に気づき、花玉櫛姫命(ハナタマクシヒメ)を振り返る。


「ちくしょお、このクソ女神! あやに一体何をした!?」

『低級の妖如きが生意気な口きくんじゃないよ。わらわは親切にも、娘に光を取り戻させてやったのさ』

「光?」

『お人形さんのように美しい目は、再び物を見ることができるようになったんだ。けれどただで親切にしてやったわけじゃない。己の身分も弁えず、下賤な身でこの花櫛玉姫命に意見したのだからねぇ』

「なんだってっ!?」


 久流流が毛を逆立てれば立てるほど、花玉櫛姫命の哄笑は高く響き渡る。


『あやの目に映るのは、世にもおぞましい暗黒の世界さ。視界に入るもの全てが醜く見え、どんな小さな妖でも恐ろしい化け物へと変貌する。もう那岐毘古とあやが一緒に暮らすのは無理だろうね。あやはそなた達の本当の姿に気づいてしまったのだから』

「はぁ? ふざけんなぁぁっ!」


 今度は久流流が泣きたい気分になった。

 大好きなあや。

 目が見えないおかげで、どんな妖にも優しく接してくれたあや。


 けれど今、あやは小さな子猫の姿をしている久流流にさえ怖がっている。

 髪は激しく乱れ、涙で顔がぐちゃぐちゃになり、腰を抜かしながら一歩でも遠く久流流から離れようとしている。


「おい、一体どうした!?」

「あやさん、いかがしました!?」

「あ、あそこになんかいる!」

「久流流、何をしておるんじゃ!」


 そこに別の妖達もどんどん駆けつけてきた。

 けれどあやの瞳に映るのは醜悪で恐ろしい化け物の集団だ。

 あれほど親しかった妖達が、今は恐怖の対象となっている。


「いや……、お願い、みんなこっちに来ないで……。私を放っておいて!」

「あや!」

「あやさん!?」

「……っ!」


 あやは駆けだした。

 力の限り走り続けた。

 皮肉にも屋敷中に灯された燈篭のおかげで、難なく出口に辿り着くことができる。

 そして桜色の打掛が泥だらけになるのにも構わず、ただひたすら森の中を裸足で走り続けた。


(お(とう)、お(かあ)…助けて……助けて……!)


 あやは今、まさにパニックの只中にいた。

 十数年ぶりに取り戻した視力は、彼女に恐怖しかもたらさなかった。

 さらに、ずしん、ずしん、と、響き渡るはだいだらぼっちの足音。

 あやは反射的に足を止め、暗い森の中を見渡す。


(那岐毘古…様……)


 あやは必死に那岐毘古の姿を探した。

 だいだらぼっち。

 その正体は誰よりも不器用で、でもとても優しい人。


 新月のせいでほとんど視界が利かない中、それでもあやは想い人の姿を探し続けた。


 ――ずしんっ!



「!」



 けれど目の前に現れたのは、あやが求めていた那岐毘古ではなかった。

 巨大な漆黒の山。

 いや、まるで動かない強固な岩のような。

 あやはごくりと生唾を飲み込むと、恐る恐る視線を上げ、その全容を確認してみる。


「………ひっ!」


 次の瞬間、喉の奥から漏れたのは、引き攣った悲鳴。

 生まれて初めて目にするだいだらぼっちは、頭の中で想像していたのより十倍背が高い。

 それに大きな目は赤く血走っており、口からは鋭い牙と長い舌がのぞいている。体の大きさに対して頭は小さく、手と足の長さもひどく(いびつ)でバランスが悪かった。

 何より今日は新月のためか、いつか見たあの日のようにだいだらぼっちは光ってはいない。むしろ彼の周りには、妖気とも瘴気ともとれる暗く淀んだ空気がわだかまっているように見える。

 刹那、あやは吐き気をもよした。


 ああ、なんて醜い。

 醜い。

 あやが今まで目にした中で一番醜い生き物。

 それがだいだらぼっち。


 花玉櫛姫命の呪いは、あやに再び光を取り戻させたが、同時に彼女の”真実を見透かす心の目”を奪ってしまった。


「いや……いやぁぁぁぁーーーーーー……っ!」


(……………、あや………)


 あやはだいだらぼっちとは反対側に、一目散に逃げていった。

 一方のだいだらぼっちと言えば、なぜここにあやがいたのか、なぜ彼女が自分から離れていくのかがわからず、ただ呆然と立ち尽くす。

 そんなだいだらぼっちの周りを、一羽の烏が螺旋を描きながら飛び回った。


『フフフフフ……、ハーッハッハッハッ!』


 溜飲を下げたとばかりに、だいだらぼっちを嘲笑う花玉櫛姫命。

 天にかかる厚い雲は、男の苦渋などお構いなしに、ただぼうっと山全体に暗い影を落とすのみだった。





              ◇◆◇





 視力を取り戻し、麗明御殿を飛び出したあやは、結局故郷である滝の沢村に戻るしかなかった。

 村人達は泥だらけの打掛を引きずりながら、早朝に姿を現したあやに驚いた。

 山神様への供物として麗明山の磐座にあやを置き去りにしてから、はや一つの季節が過ぎている。

 流行り病が収束したのも、山神様が生贄を受け取ったからだろうと誰もが思っていた。

 なのに、まさかその生贄本人が生きて帰ってくるなんて。


 しかしそれ以上に村人の度肝を抜いたのは、天女に見紛うほどのあやの美貌。

 これには男という男が、色めき立った。

 それでなくてもあやは家族を全て亡くし、誰かの庇護を必要とする身。

 あやが再び定吉と住んでいた小屋に戻るのを確認すると、誰もが彼女を手に入れようと水面下で動き出した。


 




 一方あやはと言えば、かつて父と共に暮らしていた小屋に戻ったものの、これからどうするべきか途方に暮れていた。


 もうこの小屋には誰もいない。

 父も、母も、兄弟達も。

 みんな、指の隙間からすり抜けるようにいなくなってしまった。


 三カ月以上放置していたから、土間も居間も荒れ放題だ。

 あやは重く疲れた体を引きずりながら、割れた茶碗の破片を拾う。


「那岐毘古、様……」


 気づけばあやの透明な瞳からは、ぽろぽろ、ぽろぽろと涙が溢れていた。

 頭ではわかっている。

 どんな姿していたとしても那岐毘古は那岐毘古。

 あの方が素晴らしい人であることに変わりはない。


 だけどだいだらぼっちである時の姿を見た時、あやは本能的な恐怖を抑えることができなかった。

 体は勝手に震え、気づけば呼吸さえできないほどの生理的嫌悪を感じていた。


(最低………最低だよ、私。誰よりもあの姿に苦しんできたのは那岐毘古様なのに。なのに私は――)





 ――見捨てたのだ。


 あの醜い姿を見て、到底無理だと悟ってしまった。





 そして瞼の裏に焼き付いてしまった醜い姿は鮮明な記憶となって、脳内にこびりつく。

 こんな自分に那岐毘古は失望しただろう。

 かく言うあや自身だってがっかりだ。


 何があっても那岐毘古のそばにいる。

 花櫛玉姫の呪いになんか負けるものか。


 そう決心したはずなのに、目が見えるようになったくらいで、その誓いはあっけなく破られた。

 あやは自分可愛さで、ひとりこの村に逃げ帰ったのだ。


「ごめん…なさい……」


 あやは自分の体を抱きしめながら、薄暗い小屋の中で何度も何度も謝った。

 


 ただ一つ明確にわかっていること。

 それはもう二度と麗明御殿には帰れない。

 これからはたった一人で生きていかなければならない――ということだった。





             ◇◆◇





 あやが去った後。

 麗明御殿は二度と太陽が昇らないんじゃないかと錯覚するほど、重く暗い空気に沈んでいた。

 誰も彼もが屋敷の表から姿を消し、ただまんじりと闇に溶け込んでいる。


「主、そろそろあやを迎えに行こうよ! あやだってきっと待ってるはずだよ!」

「……………」


 そんな中、猫又の久流流と数人の妖だけがあやの帰還を諦めていなかった。

 あやが視力を取り戻し、麗明御殿から消えてそろそろ半月になる。

 けれど那岐毘古はあやの後を追おうとはせず、長い沈黙を保っていた。


「……久流流」

「はいはい! ようやく迎えに行く気になった?」

「あやのことは……もう、忘れろ」

「――」


 那岐毘古はいつになく深酒しながら、母屋の御座所に寝っ転がる。

 あやにだいだらぼっちの姿を見られ、逃げられてからというもの、喪失感は日ごと膨らんでゆく。

 けれどこれで、良かったのだ……とも思う。

 やはり彼女は自分のそばではなく、人間の里で幸せになるべきなのだ。


「なんでそんなこと言うんだよう! おいら嫌だ! あやとさよならするなんて嫌だよぅ!」

「久流流!」


 那岐毘古はやや強い口調で、久流流を諫めた。

 那岐毘古だって、久流流の辛さはよくわかる。

 けれどきっとすぐに、この感情は色褪せてしまうだろう。


 今までがそうだったように。

 決して誰も、自分を振り向かなかったように。


 そうして今まで、心が壊れたまま生きてきた。

 だからもう何も期待しない。

 夢を見るのはやめよう。


 那岐毘古は目を閉じ、生まれて初めて神とやらに祈る。



 ――ああ、それでももし。

 いま、一つだけ願いが叶うとしたなら。


 どうかこの行き場のない胸の痛みを、形も残らないほど消してほしい。

 何もかも否定して、砕いて――粉々に。







 そしてもう二度と。


 自分に彼女を与えてくれるな。







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