6話 新しい呪い
あやが初めて那岐毘古から”呪い”の話を聞いたのは、麗明御殿で花の宴が開かれた日のことだった。
母屋である北殿の庭では、桜の大木が今年も見事な花を咲かせている。妖達はその木の根元に集まって、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎ。
「主ー、あや、見て見て! 桜がとっても綺麗だよ~」
「この桜もそろそろ樹齢500年でわしらの年に追いつくかのう」
「妖にとってみれば500年なんてまだまだ童みたいなもんだよ、バーカ」
久流流達はすでに完全に出来上がっており、何やら奇妙な踊りで盛り上がっている。
ちなみに今日のあやは、改めて那岐毘古から贈られた可愛らしい桜色の打掛を身に着けていた。庇まで出て那岐毘古の杯に酒を注ぎながら、自分の姿が彼の目にはどんなふうに映っているだろうか……と、少しそわそわしている。
「それでは那岐毘古様の姿をだいだらぼっちに変えたのは、その花玉櫛姫命様という神様なのですか?」
「ああ、そうだ。花玉櫛姫命は俺の父親である高平良男命の正妻だ。夫が人間の女にちょっかいを出して孕ませたのが許せなくて、俺に呪いをかけたのだ」
「………」
那岐毘古は何でもないことのように言うが、あやはその話を聞いて少なからず胸を痛めた。
夫が浮気して妾に子を産ませるのは神の世界に限ったことではない。この下界に住む人間の間でも、同じような揉め事は頻繁に起きている。
けれど生まれた赤子に何の罪があると言うのか。
しかも神の威光を笠に、呪いをかけるなんてひどすぎる。
あやは悔しそうに下唇を噛み締めた。
だがそんなあやの口元に、那岐毘古がつい、と手を伸ばす。
「おまえが悲しむようなことではない。それより血が出ている。唇を噛むのはやめろ」
「那岐毘古様……」
「俺はこの運命をすでに受け入れている。八百万の神々の物笑いの種になるのにも、もう慣れた」
「……」
どこか投げやりにも見える、那岐毘古の平坦な態度。
あやはすぐに何か反論しようとして……。
けれど自分のような平凡極まりない人間に、物言う資格があるだろうかと自問する。
そして悩んだ挙句、お酒の力を借りることにした。
「どうして那岐毘古様はそんな平気なお顔でいられるのです? 私は悔しいです! 那岐毘古様が誰かに馬鹿にされたら、とっても悔しいですっ!!」
「お、おい、あや?」
あやは勢いに任せて自分の杯にも酒を注ぎ、それをくーっと一気に飲み干す。
「おい、お前、酒飲めたのか?」
「今生まれて初めて飲みました!」
あやはさらにどんどん酒を注ぎ足していく。そして喉元から胃までが一気に焼けつくような感覚のせいで、あっという間に酔っぱらった。
対する那岐毘古は、なぜあやが突然怒り出したのかわからなくて面食らう。
「那岐毘古様はこんなにお優しいのに、なんでそんな辛い目に遭わなきゃならないんですか。そりゃ、だいだらぼっちの時の姿もお美しいですけど……。それが呪いなんて、やっぱりひどすぎます。呪いを解く方法とかないんですか?」
「ない……と思う」
「うう……っ」
酒のせいで一気に頬を桜色に染めたあやは、今度は袖口を目に当ててしくしくと泣き出す。
「うっ、うっ、ひどい。ひどいよぉ。その花何とかとかいう女神様、絶対許しません……」
「おい、あや。お前こんなに酒が弱かったのか? というか、泣き上戸なのか。これまた厄介な……」
那岐毘古はあやに酒を飲ませたことを早くも後悔し始めていた。さらにそこに酔っぱらった久流流ら妖軍団が、ドドドと雪崩れ込む。
「あー、主ぃ。あやを泣かせちゃダメだろ~! 酔っぱらった隙をついて、あやに悪さしたらおいら達が許さなぁ~い!」
「許さなぁ~い!」
「許さなぁ~い!」
「むっつり助平、ダメ! 絶対」
「………誰がむっつり助平だ、こら」
気づけばいつの間にかあやをはじめとする酔っぱらい集団が、那岐毘古の周りを取り囲んでいた。
あやは完全に寝落ちし、那岐毘古の膝や肩には久流流や小天狗がぐでんぐでんの状態で乗っかっている。
「おい、俺はお前らの布団でも枕でもない……」
那岐毘古は久流流達をひっペ返し、仕方なく自慢の毛皮を眠るあやの体の上にかけてやった。彼女に毛皮を貸すのは、これで二度目。あやはと言えばもふもふの感触が気持ちいいのか、先ほどと違って今は穏やかな表情だ。
「那岐毘古……様……」
「……」
当たり前のように寝言で自分の名を呼んでくれる少女の顔を、那岐毘古はまじまじと見つめた。
自分でもわかる。
少し耳たぶが、赤くなっている。
一体いつからだったろう。
奇妙としか思えなかったこの娘の鈴のような声を、いつまでも聞いていたいと思うようになったのは。
「私が……ずっとおそばに……」
「………」
「そばに…いますから……寂しくない、よう…に……」
「………」
「那岐……ひ…こ…さ………、……………………」
そのままスーッと静かな寝息を立てて、今度こそあやは遥かな夢路へと旅立っていった。
辺りに響くのは妖達の大いびきばかり。
完全に一人酒になってしまった那岐毘古は、ふっと頬の筋肉を緩める。
「ああ、わかった。そばにおいてやる……」
どうせ誰も聞いていないのだから……と、那岐毘古は普段口にしない本心を、そっと小声で呟く。
「そばに……いてくれ………」
そんな那岐毘古の切ない独り言をこっそり聞いていたのは、500年生きる桜の大木だけだった。
◇◆◇
あやが次に目覚めたのは、新月の闇の中だった。
那岐毘古が運んでくれたのだろう。あやは桜色の打掛姿のまま、自分の居室の布団の上で横になっていた。
ふと耳を澄ますと、遠くから、ズシン、ズシンと大きな地鳴りがする。
だいだらぼっちだ。
夜になったので、黒い巨人に姿を変えた那岐毘古が、また辺りを彷徨っているのだろう。
(おかわいそうに……)
あやは乱れた髪を手櫛で整えながら、那岐毘古の身の上に同情した。
自分の姿が望まぬ形で変化すると言うのは、一体どんな気持ちだろうか。
そんな苦しみを那岐毘古はもう何百年と味わってきたのだ。
けれどあやにできることは、何もない。それがとても歯痒くて、悔しい。
「絶対許さないんだから。花玉櫛姫命……」
すっかり酔いから醒めたあやは、今日那岐毘古に教えられたばかりの女神の名を呟いた。
すると燭台の火が強い隙間風にかき消され、同時にバタンと格子が開いて、何かが勢いよく室内に飛び込んでくる。
『わらわのことを呼んだかえ?』
「きゃあっ!」
目の前を何かが素早く通り過ぎ、あやは前のめりに手をついた。
何が起きたのかと目を凝らせば、衣桁に一羽の烏が止まっているのがぼんやりと見える。
「……鳥?」
それがあやには、とても強い光の塊に思えた。鳥の形をした強い光はやがて女の姿に変わり、あやの前にしゃなりと舞い降りる。
『わらわのことを呼んだのは、そなただろう? あや』
「だ、誰っ!?」
聞き慣れない声に恐怖を感じ、あやは後ずさった。
けれど女は遠慮なく距離を詰めてくる。
『わらわの名は花玉櫛姫命。あのようなおぞましいだいだらぼっちに囚われてしまった哀れな娘を救いにきてやったのさ』
「あなたが花玉櫛姫命!?」
その名を聞き、恐怖で竦んでいたあやの心が一気に怒りに反転した。
なぜ天上に住まうはずの神が、こんな名もなき人間の前に現れたのかはわからない。
けれど。
「あなた…あなただったのね。那岐毘古様にあんなひどい呪いをかけたのは。お願い、今すぐ呪いを解いて下さい!」
『何故? あれは生まれた時から存在そのものが邪悪なもの。神の面目を潰した愚か者ぞ』
「そんなの浮ついたあなたの夫のせいじゃないですか。那岐毘古様には何の罪もない!」
『……』
あやは顔が真っ赤になるほど憤慨し、花玉櫛姫命に抗議した。
それがどれほど不敬であり、神を怒らせる所業なのかあや自身が誰よりもよくわかっている。
けれど言わずにはいられなかった。
那岐毘古を思えば思うほど、彼に無理やり孤独を強いた女神が許せなかったのだ。
『おお、可哀そうに。すっかりあの愚か者に魅入られて……」
しかし花玉櫛姫命はあやの態度に怒るどころか、真っ赤な唇に緩やかな弧を描いた。あやとはまた違った種類の美しさを誇る花玉櫛姫命は、ここぞとばかりに甘言を弄する。
『だが考えてもごらん? どれほどそなたがあの愚か者に入れ込もうと、神に比べれば人間の寿命などほんの一瞬。そなたがあやつの孤独を真に癒す日など、永遠にやってこないのさ……』
「そ、それは……」
ゆるりとしなやかな指に頬を撫でられ、あやはほんの少しだけ怯んだ。
那岐毘古どころかここに住まう妖達とも、あやは全く違う時間軸を生きている。
きっとあっという間にあやは年を取り、那岐毘古や妖達を残したまま逝くのだろう。
結局那岐毘古のそばにいたいという願いは、ただの自己満足でしかないのか。
自分はいたずらに那岐毘古のそばを通り過ぎていくだけの存在なのか……。
あやの心がぐらついた瞬間を、花玉櫛姫命は決して見逃さなかった。
『ほぅらごらん。そなたの覚悟など、所詮その程度でしかない……』
花玉櫛姫命は切れ長の目を細め、その身に神気をほとばしらせる。
『でも安心おし、わらわがそなたを救ってやろうじゃないか……』
「……え?」
次の瞬間、花玉櫛姫命はあやの目元に手をかざし、一つの呪文を唱えた。
『今満つるは、尊き女神の力。失われし光を再びここに。全てを闇に変え。そなたは新しき世界を得るだろう……』
「いやっ、何!?」
「――あやっ!!」
その時になってようやく、邸内の異変に気付いた久流流が、あやを助けようと一目散に飛び込んできた。久流流は己の妖気を全開にし、爪を立てながら花玉櫛姫命に飛び掛かる。
『この畜生が』
しかし所詮一介の妖が、本物の神の神気に勝てるはずがない。
花玉櫛姫命が軽く片手を一振りしただけで、久流流は庭の大木の幹まで吹き飛ばされてしまった。
「ギャウン!」
「久流流!」
あやもまた、慌てて久流流を助けようと庭へと降りる。
――が、その時。
次第にぼんやりと周りの風景が目に映りだした。
それはまるで今まで目の前にかかっていた濃い霧が、強い風で一気に押し流されていくかのように。
突然起きた変化に、あやは思わず動きを止める。
大きく目を見開く。
体は激しく震え、呆然と自分の両手に視線を落とした。
見える。
私、今、自分の手が――見えてる。
あやは今度は頭上を見上げ、闇の中で瞬くたくさんの星々を確認する。
「あ………あ………あぁぁぁーーー!」
『フフフフ………ホホホホホ………!』
そうして、この日、この夜。
花玉櫛姫命の新しい呪いによって、十数年ぶりにあやの両目に――視力が戻った。