4話 ある春の日
「うっわぁぁぁーーん、主、主、主、大変だぁぁぁーーーー!!」
ある日、麗明御殿中に久流流の叫び声が響き渡った。
朝から惰眠を貪っていた那岐毘古は、超不機嫌なまま布団から飛び起きる。
「一体何の騒ぎだ、やかましいっ!」
「あやが……あやが森の中で行方不明なんだ。ごめんなさいっ! 全部おいらのせいなんだ!」
「!?」
さすがの那岐毘古も、この報告には血相を変えた。
黒と赤と金の刺繍が美しい綾錦を瞬時に蹴飛ばし、大股で渡殿へと出る。
「一体どういうことか、飛びながら説明しろ!」
「か、かしこまりぃぃぃ!」
久流流はミャーミャー鳴きながら、くるりと体を一回転させた。
普段温存している妖力を解放すれば、空を飛ぶ巨大な猫又に変化できる。
「主、乗った? それじゃあいっくよぉ! そぉれ……っと、あれれ~~?」
「……!?」
久流流は那岐毘古を背に乗せ空を翔けようとするが、なぜか足取りがふらふらとしており上手く前に進めない。
那岐毘古はこめかみに青筋を立て、久流流の頭をぴしゃりと叩く。
「久流流、お前まさか……酔ってるな!?」
「ご、ごめんなさいニャー!」
麗明御殿に、再び久流流の鳴き声が響き渡る。
その間も山から強い風が吹き降りてきて、屋敷の裏の柳の木を大きく斜めに揺らしていた。
◇◆◇
その頃、あやはというと深い山中で一人、身動きが取れず困っていた。右手にはわずかな山菜が入った籠。しかしこの山菜のせいで、まさか迷子になろうとは。
「どうしよう? 久流流、迎えに来てくれるかな……?」
森の中で一人ぼっちになったあやは、心細さで胸が押しつぶされそうになっていた。
きっかけは久流流の「山菜の炊き込みご飯、食べたい!」の一言だった。
季節は冬を通り越して暖かな春。
森のあちこちで柔らかな新芽が芽吹いてるから、それを採りに行こうと誘われたのだ。
あやは迷った。
麗明御殿に住むようになって、はや一つの季節を越えたが、今まで外に出たことは一度もない。盲目ゆえ、出ようという考えさえ浮かばなかった。
「それなら大丈夫だよ。おいら、変化を解くと空を飛べるんだ。山の中腹辺りに、美味しい山菜や木の実がたくさん生ってるって話だよ。おいらがそばにいれば安心だろ?」
「そうだね!」
そこまで強く言われれば、あやとて断る理由はない。
久流流は久しぶりにあやを独占できることに大喜びし、朝の早い内に麗明御殿を出立した。
そして結果から言うと、山菜採りは大豊作だった。
山の中腹のやや拓けた野原にはたくさんの山菜が自生しており、あやも野草の香りを楽しみながら、久しぶりの外出を満喫した。
計算違いだったのは、はしゃぎ過ぎた久流流がある草むらに突っ込んだこと。
「ニャニャニャ! ニャアァーーー!」
「久流流!?」
気づけばいつの間にか久流流がある樹木のつるに引っかかり、大暴れしていた。
これぞマタタビの木。
猫が大好きなアレ――である。
「にゃにゃんにゃにゃーん♪ にゃにゃんにゃにゃーん♪」
「く、久流流大丈夫? なんだか様子がおかしいよ?」
「おかしくなぁい、おかしくなぁ~い。さぁ、あや、そろそろ帰ろぉ~」
「きゃっ!?」
そして正気を失った久流流は、まだ山菜を採っていたあやを口に咥えて、再び宙へと駆けだした。けれど途中でふらふらとバランスを失い、あやを森の中に落としてしまったのだ。
「きゃああああーーーーっ!」
「あれ? あや? ………………。あやぁぁぁぁぁーーーーーーーっ!???」
気づいて後悔しても、もう遅い。
あやの華奢な体はあっという間に森の中へと吸い込まれていった。
低空飛行していたのが不幸中の幸いだが、久流流自慢の鼻もマタタビのせいで全く利かない。
仕方なく久流流は自力であやを探すのを諦め、麗明御殿に戻って那岐毘古に泣きつくことにした。
「あいたたた………」
その後、柔らかな草むらの上に落ちたあやは、幸いかすり傷のみで済んだ。
けれどせっかく採った山菜もほとんど落ちてしまった。
これじゃあ美味しい炊き込みごはん炊けない……と、あやはがっくり項垂れる。
「ここ、どこだろ……」
それからあやは辺りの匂いと風の流れを頼りに、近くの木の下へと避難した。
雨が降る気配は、ない。
けれどこのまま助けが来なければ野宿することになる。
いや、そもそも助けがくるだろうか。久流流はともかく、那岐毘古は厄介者がいなくなって、むしろせいせいするかもしれない。
「那岐毘古様……」
あやは地面に座り込みながら、まともに話したことのない主の名前を呟いた。
あやは森の恐ろしさを充分知っている。
亡き父にも教えられた。
山には狼や熊などの獣以外にも多くの妖や物の怪がうろついているから、絶対に一人で立ち入ってはいけない……と。
その教えを破って森に入ったのは、だいだらぼっちと初めて出会ったあの夜だけ。
けれど今、計らずもまた同じ状況に陥ってしまっている。
もし獣や物の怪の類に遭遇してしまったら、あやのような弱い人間はひとたまりもないだろう。
(ううん、きっと那岐毘古様は助けに来てくれる。本当はお優しい方だもの……)
あやはぎゅっと自分の体を抱きしめながら、つい先日のことを思い出してみる。
(那岐毘古様の毛皮、とても温かかった……)
この前朝餉を作っている途中で、うっかり寝落ちしてしまったあや。
けれどふと目覚めると、那岐毘古の豪奢な毛皮がいつの間にか肩にかけられていた。
そして部屋の前に毛皮をお返ししても、那岐毘古は何も言わない。
いちいち恩着せがましいことなど口にせず、ただ気づけばいつも目が不自由なあやに静かに寄り添ってくれるのだ。
(とにかくここで大人しく助けを待とう。私にはそれしかできない……)
おそらく以前のあやならば、こんな状況に陥った時、さっさと自分の命を諦めてしまったかもしれない。
けれど麗明御殿で穏やかに暮らすうちに、あやの心に変化が起きた。
こんな自分でも那岐毘古や妖のみんなの役に立てるなら。
もう少しだけ現世で生きてみたいと思ったのだ。
「いたたた……」
あやはひりひりする膝を、そっと触ってみる。
指先にぬるり、とした感触。
思ったより出血していた。
仕方なく目元を覆っていた布を外し、包帯代わりに巻く。
そうやって自分の膝に気を取られている間に、邪悪な存在の急接近を許してしまった。
――グゥルルルルル………
「!」
低い………獰猛な獣のような唸り声。
それを耳にした刹那、本能的に体が震え一気に血の気が引いた。
何か、いる。
あやは見えないはずの目を凝らし、そうっと辺りを見回す。
すると自分の右前方に、何か暗く淀んだ空気の流れを感じた。
あやの嫌な予感は、的中してしまったのだ。
(那岐毘古様、久流流………お父、お母……!)
広い……それこそ迷路のような森の中で、あやは一人恐怖と戦った。
この時、あやの目が見えないのはある意味幸運だった。
あやを食料として狙っていたのは、麗明御殿に暮らしているような気のいい妖ではない。猿の頭に虎の胴体、蛇の尻尾という異形の姿をした――鵺だったのだから。
―――ガアァァァーーッ!!!!
(――いやっ!!)
鵺は無抵抗な獲物に、容赦なく襲い掛かった。
鋭い爪が振り下ろされ、あやの体を無残にも引き裂こうとする。
――が。
――ギャアァァァーーーッ!!!
「!?」
刹那、一陣の風が、吹いた。
あやに襲い掛かろうとしていた鵺は、ある人物が放った一刀で、後方に大きく弾き飛ばされたのだ。
「……ふん、他愛無い」
「!」
その声が耳に入った瞬間、あやはようやく体の強張りを解いた。
恐怖で丸まっていた体を起こし、頭上を見上げる。すると暗闇の中に、ぼんやりと人の輪郭が浮かび上がった。
「那岐毘古様……」
「久流流!」
「合点承知ぃ!」
那岐毘古に名を呼ばれた久流流は、木の上からあやの目の前に降り立ち、妖気で結界を張った。
一方の那岐毘古は自分の背丈ほどある大太刀を難なく振り上げ、怒り狂う鵺をわざと挑発する。
「悪いがあやをお前にやるわけにはいかん。俺も山菜の炊き込みご飯は食いたいんでね」
「!」
那岐毘古がちょいちょいと指を立てると、鵺は再び鋭い牙を剥いて突進してきた。
ギィンッ、という鈍い音と共に火花が散り、空間を一瞬だけパッと明るく照らす。
だがその重く速い鵺の一撃にも、那岐毘古は全く怯まなかった。
むしろ久々の獲物を目の前にし、赤い瞳に愉悦の色を浮かべる。
「……行くぞ」
今度は那岐毘古から仕掛けると、鵺もまた大太刀の一閃を妖気で弾いた。
剣閃と雄たけびは秒単位で交叉し、一撃ごとに大気を震わせる。
そして鵺が距離を取ろうとした一瞬の隙を逃さずに刀を薙ぎ、さらに横薙ぎの一閃を繰り出した。
鵺はその軌道に合わせ咄嗟に防御するが――間に合わない。
苛烈なまでの疾風の一刀。
それは地上を這い回る妖には決して届かない神速の域で。
――グ、ギャアァァァーー!!!
時間にしてほんのわずか。
残念ながら森の中であやを獲物と定めた時から、鵺の死は確定していた。
「はぁ、弱い。興醒めだ」
「………」
「さっすが主! 鵺如きが相手じゃ汗一つもかかないね!」
鵺との勝負が一瞬でついた後、久流流はやんややんやと那岐毘古を囃し立てた。
那岐毘古はそんな久流流につかつかと近づくと――
「元はと言えば誰のせいだ? ん? もしかしてまだマタタビに酔ってるのか? なんなら俺の新しい毛皮にしてやってもいいんだぞ?」
「またまたぁ~、そういう心の臓に悪い冗談はやめようよ、主~………」
と、今は小さな猫の姿になっている久流流を、乱暴に摘まみ上げた。
「那岐毘古様……」
「あや、おまえも軽々しくこいつの口車に乗るな。齢300歳の妖と言っても、こいつの中身は5歳児と変わらんぞ」
「ご、ごめんなさい……」
あやはただひたすら小さく縮こまった。
本当はもっと助けてくれたお礼とかお礼とかお礼とかお礼とか……。
とにかく感謝の気持ちを伝えなきゃいけないのに、喉元で言葉が詰まって上手く出てこない。
その様子を訝しく思ったのか、那岐毘古が、つい……と眉根を寄せる。
「あや? もしかしてどこかケガしてるのか?」
「!」
草を踏み鳴らす音が聞こえて、あやは思わず顔を上げた。
するとすぐ目の前に浮かび上がる那岐毘古のシルエット。
あやは反射的にその袖に、その腕に。
思いっきり手を伸ばした。
「あ、あの、さ……山菜!」
「山菜?」
「山菜、もう一度採りに……行きましょう! 炊き込みご飯、那岐毘古様も食べたいんですよね!?」
「……………………」
そして気づけばお礼よりも先に口を突いて出たのは、感謝の言葉ではなく頓珍漢な申し出で。
私は一体何を言っているんだろう……と、この時ばかりはあや自身も自分に呆れてしまった。
そして太陽が遙か頭上まで昇り、眩しい日差しが麗明山の山頂を温める時刻。
あやは那岐毘古と久流流と共に、再び山菜が採れる野原に戻ってきた。
那岐毘古はぶつくさと文句を言いながらも、あやに頼まれるがまま春の野草を摘んでいる。
「いや、だからどうして俺がこんなこと……」
「………」
背後で那岐毘古のボヤキが聞こえる度、あやはなんだかおかしくて笑ってしまう。
先ほど恐ろしい妖を倒した人とは別人みたいだ。
野原にしゃがんでちまちまと山菜採りしている那岐毘古の姿は、きっと自分の予想以上に可愛いだろう。
「ねぇねぇ、あや。今日は本当にごめんね? あやを危険な目に遭わせたのはおいらだ」
「久流流」
そしてようやくマタタビの酔いからさめた久流流も、あやにぴったりとくっついて今回の失態を詫びた。
あやはその頭を優しく撫でてやり、自分が怒ってないことを告げる。
「もういいよ。怖かったけど、助けに来てくれたでしょ? それで充分」
「ホント?」
「うん」
あやは久流流を安心させるために微笑んだ。
いつもは隠れている目元が今日は見えているせいか、その笑顔は極上で。
「ありがとう、あや。おいら、もう絶対同じ過ちは繰り返さないよ。これからも絶対あやを守るから!」
「はい、よろしくお願いします」
あやはゴロゴロと喉を鳴らす久流流をもう一度ゆっくりと撫でてやった。
さらに当人に気づかれぬよう、そっと那岐毘古のいる方向に意識を向ける。
(そう、なんだかんだ言って助けに来てくれた……。それだけで――充分……)
あやは心の中で那岐毘古に礼を言いながら、この感謝をどう伝えるべきか改めて悩んだ。
そして、ひらめく。
(そうだ、やっぱり那岐毘古様のために絶対美味しい山菜炊き込みご飯を炊こう。きっと喜んで下さる……)
それは芽生え。
春に花の蕾が満を持して、光の中でほころぶように。
それまで同じ屋根の下に住みながら互いに疎遠だった二人は、この春の日の出来事をきっかけにして、徐々に距離を近づけていくことになった。