2話 化け物の正体
麗明山の峠を一つ越えたあたり、隣の白雲山とのちょうど境目に、何人たりとも立ち入れぬ大きな屋敷がある。
洞窟の奥深くまで続くその屋敷は強固な結界に守られ、日中でもほのかに薄暗い。
平安時代を思わせるかのような広大な寝殿造り――の、とある一室に、一人の少女が匿われていた。
あやは、ふと気づく。
野ざらしの岩の上に打ち捨てられたはずなのに、なぜか体がポカポカと温かい。
まるで大きな毛皮に包まれているかのようだ。
「う、うぅ……ん……」
「あ、目が覚めた!?」
「!」
大きく伸びをした瞬間、突然頭上から可愛らしい声がした。
いや、声だけではない。
あやの体は現実的に巨大な毛皮にくるまれていたのだ。
あやは飛び起きる。
もしやここが極楽なのかと慌てふためくが、どうやらそれは早とちりらしい。
「よかったぁ。手も足も体もコチコチに凍えてたから、あのまま死んじゃうんじゃないかと思った」
「だ、誰!?」
あやは青ざめながら自分を包む大きな毛皮から逃げようとする。けれどすぐに足がもつれて、派手に転んでしまった。
「いたっ!」
「あー、まだ無理しちゃダメだよぅ。もしかしておいらのことが怖いのかな? だったらこれなら大丈夫?」
「……え?」
巨大な毛皮はポンッと空中で一回転すると、自分の体を変化させる。
あやは自分の膝にすり寄ってくる感触で、それが小さな生き物だと認識した。
「もしかして…猫?」
「ただの猫じゃないよぅ。おいら、300歳になる猫又の久流流だ!」
「猫が喋ってる!?」
あやは驚きの声を上げた。
猫又や河童、天狗、鬼……。
あやが生きるこの時代には、まだ古の妖が普通に存在する。
とはいえ、人は妖を恐れて彼らの住処に極力近づかない。あやもこうして直接妖と話すのは、生まれて初めてのことだ。
「久流流……様と仰るのですね。失礼をして申し訳ありません」
「よせやい、様付けなんて。久流流でいいよ。それよりあんたの名前は?」
「私はあやと申します」
「あや……あやかぁ。いい名前だな!」
久流流はあやの膝の上で丸まり、ぐるぐると喉を鳴らした。
近所の野良猫・野良犬などの世話をよく見ていたあやは、動物が大好きだ。
妖は人間にとって危険な存在なはずなのに、こんな風に甘えられては突き放すのがかわいそうになってしまう。
「お目覚めになられましたか」
「……誰?」
そして次に、格子を開けて部屋に入ってきたのはしゃれこうべの女房だ。骨だけの女が十二単をまとった姿はおどろおどろしいが、盲目のあやには品のいい女性……くらいにしか思えない。
「御召し物をご用意しました。お体の調子が良いようなら、疾く着替えられませ」
「あの、ここはどこなんでしょうか?」
あやの心の臓は、先ほどからバクバクと激しく鳴っていた。
元々生贄に捧げられ死んでしまうと覚悟した身。
地獄に落ちたわけじゃないのなら、それだけである意味幸運だろう。
それでも右も左もわからない場所に突然放り出された挙句、あやは目が見えない。
久流流や女房の声色から悪意らしきものは感じないが、必要以上に警戒してしまうのは当然の反応だった。
「それに付きまして、わたくし共の主から説明があります」
「主……様?」
「この屋敷の主さ。そいつに頼まれておいらが一晩中、冷え切ったあやの体を温めてたってわけ!」
「え、そうだったの」
久流流が命の恩人と知り、あやは恐縮する思いだった。
感謝を込めて久流流の頭を一撫ですると、気持ちよさそうにニャーと一声鳴く。
あやは急いで用意された着物に袖を通した。それは今まで着ていたごわごわの麻の着物とは全く違い、極上の手触りだった。
「こっち、こっち。おいらについてきて、あや」
あやは久流流と共に部屋を出、屋敷の主の許へ向かうことにした。
目の見えないあやのために久流流は三つに分かれた尻尾の先に炎を灯す。
わずかな光や温度の変化ならば感じ取れるあやは、それを頼りにゆっくりした足取りでついていった。
「あ、いたっ」
「あや。廊下を歩く時は気をつけて」
それでも初めて訪れる場所は地形や間取りが分かりづらく、しかも廊下のあちこちにゴミが落ちている。一歩足を踏み出すごとに、それらでつまずきそうになって、あやは焦った。
(とても立派なお屋敷のようなのに、なぜこんなにゴミが散乱してるの? 使用人はいないのかな……)
そんな素朴な疑問を抱きながら、あやは屋敷の主の寝所があるという北殿に入る。
「主ー、お待たせー」
そうして連れてこられた場所は……おそらく豪華できらびやかな場所だった。
おそらく……と言うのは、室内の光量が他と比べて段違いに多いからだ。
さらに部屋の中央に、一際存在感を放つ人物がいる。
「そこにおられるのが、この屋敷の主様……ですか?」
「……ふん、俺のことが分かるのか? 大きな布で覆っているせいで目は見えていまい」
「目は見えませんが……人の気配には敏いのです。それにあなたの体の輪郭はなんだか、淡い光を放っているような気がします」
「………」
中央の御座所で一人手酌を楽しんでいた男は、目を細めて意味ありげにあやを見る。
一方のあやは、今まで聞いたこともない男の美声に驚いていた。
あやには父の他に兄一人と弟一人がいたが、そのどれとも性質が違う。
例えるなら最初から人の上に立つことが約束されているかのような……。低くて艶があり、それでいて威厳に満ちた声だった。
「おまえ、もしかしたら巫女としての素質があるかもな」
「……え?」
「おまえが見ている淡い光は、おそらく俺の体から漏れている神気だろう」
「シンキ?」
「俺は半分神の血を引き、半分は人間の血を引いているからな」
「!?」
男はグイッと豪快に酒の杯を煽る。
久流流はそんな男に近づき、ぱたぱたと三つの尻尾を揺らした。
「おいおい主、おなごには優しくしろよー。そんなんじゃ嫌われちゃうぞー」
「別に嫌われても構わない」
「またまたぁ、おいらもう200年以上主の傍にいるけど、おなごを屋敷に連れ込んだのは、あやが初めてじゃん」
「お前、あや、というのか」
「は、はい」
猫又に加え、神と人間のあいの子。
今まで貧しい村で静かに暮らしていたあやにとっては、どちらも別次元の話過ぎて、到底理解が追いつかない。
「俺が麗明山の磐座でお前を助けたのは、ほんの気まぐれだ。麓の村の連中は、また呪いだなんだのと下らないことで騒いでいるようだからな」
「呪い……」
確かに滝の沢村のみんなは、流行り病をだいだらぼっちの呪いのせいだと考えている。それを鎮める対抗策として、捧げられたのがあやだ。
そしてやっぱりこの男が、山中で凍死しかけたあやを助けてくれたのだ。
「言っとくが俺は滝の沢村を呪った覚えなぞないぞ」
「……え?」
「お前たちが恐れる巨人――だいだらぼっちとは、俺のことだ」
「――」
衝撃の事実が男の口から語られるが、あやはそれを本当の意味で理解するのに少し時間がかかった。
私の命の恩人が――だいだらぼっち?
今こうして普通に話しているのに?
いつかの月夜、あやの前に突然現れた光る大きな山。
あの時のことを思い出し、あやは無意識に男のもとに近づく。
「お、おい、いきなり何をするっ!?」
「あ………」
そしてつい家族にそうしていたように、男の顔を両手で覆ってその造形を確かめてしまった。
シャープな輪郭と、まっすぐに通った鼻筋。
男だと言うのに、その肌は女のあやよりもずっと滑らかだ。
きっとこの方は相当な美丈夫なのだろう……と、あやは手をついて謝りながら思う。
「も、申し訳ありません。あなた様のお顔を確認したくて、つい……」
「もういい、腹が空いているなら食事を出すから、腹いっぱいになったなら村へ帰れ! やはり人間のおなごは好かん!」
「え、主、それ本気で言ってるの!?」
あやに突然触れられた男は手を振り払い、ますます不機嫌になってしまう。
そんな主の怒りを鎮めようと、久流流が肩にトンと上る。
「この子は村の連中に捨てられたんだよ。帰る場所なんかあるはずないよ」
「そ、その通りでございます!」
あやは久流流に感謝しつつ、彼の口添えに全力で乗っかる。
「ず、図々しいお願いではありますが、どうか私を使用人として雇ってくれませんか? 給金はもちろん頂きません。掃除、料理、裁縫、洗濯、畑作業……。命じられたことは何でもやります。全てあなた様の言いつけに従います。もし今村に戻されても、また山に捨てられるのがオチです………」
あやは男の前で改めて土下座した。
擦り傷ができるのではないかと思うほど強く、額を床にこすりつけた。
けれど男の拒絶は徹底しており、乾いた冷笑だけが返ってくる。
「馬鹿か、正気か。俺は昼間は人のなりをしているが、夜になればだいだらぼっちに姿を変える。そんな化け物と共に暮らすと言うのか」
「だいだらぼっちとは、あの美しいお姿ですか」
「――」
しかしここでまた、あやの口から信じられない言葉が零れる。
男は固まった。
本気で石のように固まった。
固まり過ぎて、酒の入った杯を派手に床に落としてしまったほどだ。
自分がだいだらぼっちの正体だと明かしても猶、この娘はあの姿を美しいとのたまうのか。
まさか本気で自分をからかっているのか?
いや、この世にそんな怖いもの知らずがいるはずがない……。
この世にそんな阿呆がいるはずがない……。
珍しく酒に酔ってしまったのかと錯覚するほどに、男の脳内には『動揺』の二文字が渦巻いた。
「いいじゃない、雇ってあげれば。使用人の一人でもいればこの屋敷も少しは綺麗になるさ。さすがにもう限界なんだよ、この汚さは!」
さらに久流流があやの雇用を強く強く訴えてくれた。
一城ほどの広大さを誇る屋敷はとにかく汚い。
めちゃくちゃ汚い。
そもそも屋敷の主が掃除嫌いなことに端を欲するが、邸内にはいつのまにか彼を慕って住み着いた妖も多い。故に屋敷はとても荒れやすく、目に見えない一部の柱や梁などは、無残に朽ちていたりする。
そして清潔とはとても言えない惨状に、男が頭を痛めていたのも事実だった。
「わかりました。まず取り掛かる仕事は屋敷の大掃除ですね! お任せください。相当広いお屋敷のようですが、腕によりをかけて綺麗にしてご覧にいれます! よろしくお願い致します、主様!」
「主様と呼ぶな! 何勝手に住み着くことに決めてるんだ!?」
ここで男に断られては、それこそ生死にかかわるため、あやは必死に食い下がった。
また男は一見冷徹そうに見えて、女性の圧しには案外弱いと見える。
「………那岐毘古」
「え?」
「那岐毘古。俺の名だ。主様ではなく、名で呼べ」
「!」
結局、男――那岐毘古のほうが折れ、あやは屋敷にしばらく滞在する許可をもらった。
そして初めて知る男の名に、トクン、と胸を高鳴らせる。
顔は見えない。
見えるのは淡くぼんやりと光る体の輪郭。
それに艶めいた低い声。
彼の正体は、だいだらぼっちだと言う。
けれどあやは不思議と、彼を恐ろしいとは思わなかった。
(那岐毘古……様……)
再び胸の内で雇い主の名前を復唱し、あやは温かい想いに包まれる。
那岐毘古が依然、憮然としていたとしても。
そうして今、本当の意味で人生が動き出したことを――
当人であるあやだけが、まだ知らない。