scene 3
一時の沈黙の後、瞳を伏せたままのナユタがふいに言葉を零す。
「あの日オレを殺さなかったってことは、兄貴は、オレを甘く見てるんだよな……?」
一瞬にしてかき消えてしまいそうなほど小さなその声は、しかししっかりとリスカの耳に届いていた。
「それは、そうかもしれないわ。けれど、だからと言って無茶なことはしないでよ? あなたの本当の力を知ったら、王は――あなたのお兄さんは、あなたに何をするか分からないわ」
辛そうに眉をひそめながら吐き出したリスカの言葉に対し、ナユタはまるで何かに怯えるように身体を小さく震わせた。そのままため息とともに瞼を閉ざし、唇を強く噛む。
「心配させて、ごめんな。リスカには関係ないのに、オレはお前を巻き込んじまってるし。本当、ごめん」
「――ナユタ。……バッカじゃないの」
ふいに芯の強い声音がナユタの耳朶を打つ。思いがけないリスカの言葉に、ナユタは閉じていた瞳を驚きに見開き、リスカの瞳へ吸い込まれるように視線を向けた。
「何勝手に謝ってんのよ! あたしは好きでナユタと一緒にいるの。それに、ナユタは何も悪くないじゃない。だから、謝ったりしないでよねッ」
リスカはむっと眉を釣り上げ、ナユタの瞳を睨むようにして見つめ返した。ナユタは呆然としたような表情でリスカを見つめ、ふいに瞳を細めた。
「……本当。昔から思ってたんだけどさ。リスカって強いよな」
「当たり前でしょう。根性がないと城での侍女の仕事なんて出来やしないわ。……あの頃はあの頃で楽しかったけど、王家のナユタとはこういう風に自由に会えなかったから、今も今で幸せよ」
リスカは満面の笑みでナユタを見つめる。ナユタは微かに唇を上へと上げ、小さく首を上下に動かした。
「そうかもしれないな」
その葡萄色の瞳は深い悲しみに歪んだままだったが、表情は涼やかに見える。
アメジストのような瞳は、金色に輝く月を仰ぐ。明るい月に照らされてなお、その瞳は影を帯びたままだ。
「――ねぇ、ナユタ。絶対に、死なないでね」
「え?」
蜜色の煌めきを放つ月へ向けていた視線を落とし、ナユタはリスカを向いた。
きょとんとした表情のナユタは、儚げに揺れる水面の月を見つめるリスカに問いかける。
「どうしたんだよ、いきなり」
「……ううん。何でもない。少し、不安になっただけだから」
「そう、か……?」
納得のいかないような表情のまま、ナユタは傾げた首を前方へ倒した。
水面に映る月のように幻想的な光を宿したリスカの目を見つめながら、励ますようにして空元気な声をナユタは上げる。
「オレなら大丈夫だって。いざとなれば、力を使うって手もあるし、自分の身くらい自分で守れる。それに、兄貴も昔ほどオレに気を配ったりしてないみたいだしな」
ナユタの声にリスカは微かに頷き、顔に笑みを貼り付けた。
「そう。……そっか。そうよね。ナユタが大丈夫って言うんですもの。あたしは、その言葉を信じるわ」
ふいにリスカは瞼を下ろす。僅かな間の後、自然な動きで瞼を上げたリスカの顔には、いつも通りの笑みが浮かんでいた。彼女の揺れた肩にかかっていた薄紅色の髪が腰の方へとこぼれる。
「ありがとう。オレを信じてくれて」
「うん。信じるわ。信じるけど……」
「けど……? 何?」
リスカは困ったように笑いながら、視線を水につけたままのナユタの足へと落とし、それから視線の先を指さした。
「いつ言おうか迷ってたんだけど、そろそろ水から足上げた方がいいと思うよ。かなり足が冷えてると思うんだけど……?」
リスカの心配げな声と同時に、ナユタの小さな悲鳴が上がる。その高い声音は大きな満月を浮かべた真っ暗な虚空に、高く高く響き渡った。