scene 31
いや、覆われたのではない。海棠が、砂の上に落ちる大きな黒い影の中へと入ったのだ。
「え――?」
海棠は意味が分からず、視線を上げる。視線は砂を黒く染める濃い影をしっかりと見、影を落とす建物を捉え、そして――
その瞳が大きく瞠られ、薄く開いた口が驚愕に息をのんだ。
あったのだ。街の中心に。
――砂漠の薔薇を祀っていたといわれる、大聖堂が。それも、破壊されていない綺麗な形で。
「嘘だ……。何故……。幻では、ないよな……?」
海棠は信じられないという風に口をポカンと開き、大きく開かれた双眸で大聖堂をしっかりと見つめる。
街は壊滅状態だというのに、大聖堂だけはまるで別世界のもののように綺麗なまま、静かにそびえる。唯一破損しているのは、入口の両開きになっている木戸のみ。そこだけは、見事なまでにバラバラにされていた。扉のなくなった大聖堂の入り口から見える赤い絨毯が敷かれた中の床に、木端微塵になった木屑が四方へ散らばっている。
「扉を壊したのは侵入を円滑にするためだとして……何故、大聖堂を壊さない? このように、街を壊しておいて……」
海棠は後方に広がる街を振り返り、そこに広がるあまりに寂しく残酷な光景に双眸を細めた。僅かに残る壁の残骸を良く見ると黒くすすけた部分がある。そこから、街はおそらく炎上か爆発によって崩壊したのだと分かる。どちらにしても、火が関係していることは明らかだ。
燃え盛る炎。人々を飲み込み、残虐にもその身体を焼いていく。大半の者は煙によって中毒死しただろう。炎に焼かれたためのショック死、または肉がただれるほど焼かれて死に至ったか。そのどちらかによる死亡原因もあるかもしれない。何にしても、苦しみながら死んだことに変わりはない。
炎。悲鳴。腐臭。熱風。
人々の泣き叫ぶ声が耳に届き、腐臭が風とともに鼻孔を刺激したような気がし、海棠は荒涼とした街並みから視線をそらした。その瞳が捉えるのは、黒くすすけることなく建っている白壁の大聖堂。
「本当に、分からない……。砂漠の薔薇を狙い、この街を破壊した者は一体何を考えていたんだ?」
海棠は眉をひそめながら、歩を進める。向かうは大聖堂の中。そこにはすでに砂漠の薔薇はないだろうが、少しでも砂漠の薔薇の手がかりが見つかるかもしれない。そんな淡い希望を捨てきれず、海棠は大聖堂へと足を踏み入れた。刹那、
「ぐっ――!」
その鼻が、肉が腐ったようなひどい腐臭に襲われる。海棠は反射的に右手を伸ばし、首に巻いている砂よけのための布で鼻を覆った。その顔は先ほどよりさらにしかめられ、吐き気が喉元まで込み上げる。
臭いにばかり気を取られていたために海棠は腐臭の原因が理解できずにいたが、やがて漆黒の瞳であるものを捉えた。それは――
あまりに残酷な死を辿った、人間の死体。
赤い絨毯に赤黒く染みを作り上げる血の量は半端ではなく、中心に伸びる絨毯の敷かれた通路を挟んで綺麗に並べられた木の長椅子や、白い石でできた壁にも血は飛び散っている。
壁の高い位置に取りつけられているステンドグラスから色鮮やかな斜光が降り注ぎ、大聖堂内の残酷な光景を照らし出す。あまりに美しい虹色の光と、不気味な赤黒い染みは大変アンバランスに見える。
血を生み出す死体は、長椅子に隠れているものもあれば、絨毯の上に転がっているものもある。それぞれがまちまちの格好で、同じ息をしないものとして横たわる。死体はすべて、刃物のようなもので切り裂かれたような跡があり、身体はほぼ原形をとどめていなかった。人間、というよりは血によって赤く染められた布を纏う肉の塊、と言われた方が頷ける。
中心の赤い道を行った突き当りの壁には大きな十字架が掲げられており、その十字架が交差した中心の部分は不自然な穴が開いていた。
「――なるほど。ここに、砂漠の薔薇が埋め込まれていたわけだな」
少しだけこの残酷な風景から立ち直った海棠は、ブーツをはいた足で乾いた音を響かせながら通路を歩む。足音は反響し、静寂に満ちていた大聖堂に音が蘇り始める。
海棠の足はやがて、その身長よりはるかに大きな十字架の前で止まった。十字架は木でできているらしく、僅かに朽ちていた。丁寧に白く塗られているが、その塗装も所々がはげている。何より、中心で地味ながらも神々しさを放っていたであろう砂漠の薔薇が欠けている。十字架の中心にあるのは、虚しい穴のみ。
海棠は未だに布で鼻を覆ったまま、左手の人さし指でそっと十字架の穴をなぞった。指にざらりとした堅い木の感触が伝わる。
海棠は指を空洞に添えたまま、瞑想をするように瞼をそっと下ろした。しばらく瞳を閉ざしていたかと思えば、すぐに漆黒の瞳を露わにする。その瞳には、僅かばかりの希望が宿っていた。
「――よし。まだ魔力が僅かに残っている。砂漠の薔薇を盗んだ犯人も、そう遠くへ行っていないはずだ」
海棠は口元をほころばせながら、しかしすぐにその笑みを消し去った。顔に浮かんでいた喜色は一瞬で消え、表情が曇天の空のように暗くなる。
「だが――犯人に追いついたところで、どうやって奪い取る? 街を一つ破壊できるほどの相手に、某は勝てるのか……?」
自問し、すぐに首を振る。
「無理だろうな。力尽く奪うことは不可能だな。だが、このように残酷な者がまともに話を聞くとも考え難い。……一体、どうしたら良いのか」
憂いに沈む海棠の声。ひっそりと独り言を並べていたそれは、ふいに途切れる。
突然訪れた静寂。海棠は指を十字架に空いた穴から離し、身体を反転させ後方を振り向く。足を動かした際に生まれた乾いた音だけが、沈黙の中に余韻を残す。
「……なぁ。おぬしは、どう思う」
ふいに問いを口にした海棠の視線の先。そこには、海棠側から見て右の列に並んでいる木の長椅子がある。海棠はその中の一つを一心に見すえているようだ。
沈黙。重く、息苦しいと感じるほどの静けさに満ちた空気があたりを包む。
「……なぁ。そこに隠れている子供。何か答えてはどうだ? この中に足を踏み入れた時点で、おぬしの気配には気付いている。姿を現せ。別に某はおぬしを取って食ったりはしない」
海棠の問いは、沈黙によって抹殺された。
呆れたようなため息。眉をひそめている海棠は、仕方ないという風に首を振ると長椅子の中の一つへと足を一歩前へ出した。軽い足音が大聖堂の中に反響し、
「動くな!」
それかき消すようにして、叫び声に近い声が響き渡った。